卯月の曇天、産卵する桜

文字数 1,277文字

仕事について書く。
どこで働くか、という言葉の意味は二〇二〇年に大きく変わって、いまは自宅が仕事場になった。
だから平日だろうと休日だろうと、物理的に存在する場所は変わらない。
僕の身体は一日じゅう家から出ずに過ごすことができる。仕事は、エンターキーとホイールバッドが故障したレッツノートのむこうにあって、同僚とはつねにバーチャルにつながっている。

お金について考える。
毎月決まった額が口座に供給されている。
でもそれを僕が見たり触ったりすることはない。見ようと思えば銀行に行ってATMで全額を下ろせばいいが、そんなことをする必要もなく、お金はカード会社や家賃の会社へ自動的に流れていく。僕はその流れをiPhoneの画面越しに見ている。誰かのTweetを見るほうがよほど現実の僕に影響する。僕のお金は、ほんとうの意味では僕のお金ではないからかもしれない。

***

花が好きになった。
新しく住みはじめたこの街で目につく、色鮮やかなものが花びらくらいだからだろう。
ザイアンス単純接触効果。
舞台上で次々役者が入れかわるように、花は順々に咲いていく。ウメ、カンヒザクラ、スイセン、ハクモクレン、ミモザ、ユキヤナギ、オオイヌノフグリ、ソメイヨシノ、カラスノエンドウ、タンポポ。昔から馴染んだものもあれば、最近になって知ったものもある。もし知らない花に出会ったら、iPhoneのカメラで画像認識させれば名前を教えてくれる。

***

よくうちに来る地域猫の左腹部に、あれは先週くらいだったか、円形脱毛が見られるようになった。
直径五センチメートルくらい、すっかり毛が抜けている。調べると感染症とかストレスとか舐めすぎとか色々出てきたけれど獣医に診てもらえないかぎりはっきりしたことは分からない。本人が痛そうにしていないのが救いだが、痛々しいことには違いない。時々エサをあげるだけの野良猫に情をかけることじたい、人間の身勝手だろうか?

感染症のばあい猫からヒトへ移るかもしれないと書いてあったので、近寄ってきても撫でてやれなくなった。私と同居人はその猫をタヌと呼んでいる。顔が狸に似ているからだ。タヌは大人の雌で、酒焼けしたようなだみ声で鳴く。近くに住む雄の猫(グイと呼んでいる、ひとにぐいぐい寄ってくるからだ)が嫌いで近寄られるとシャーッと威嚇する。人間とは背中合わせに座るのがいっとう落ち着くらしい。

***

暖かさに疑いようのなくなった四月、足長蜂の女王が巣をつくりに帰ってきた。
それが悪いことにうちのリビングの窓の目の前にある、空き家になっている建物の軒先で、僕たちとしては是非とも引っ越してもらいたいのだが、女王様は思い出の当地から離れたくはないらしい。しかし女王の針は同居人にも猫たちにも僕自身にも脅威である。だから僕は女王を討たないわけにはいかない。ここに棲むつもりならば!
新聞紙を丸めただけの棒では心許ないので、西友でスプレーを買った。一〇種類くらいあるなかから、もっとも安全に確実に死に至らしめることができる製品を選んで、アルファベットチョコと一緒にセルフレジで精算した。

(了)

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