蜘蛛とのこと

文字数 940文字

 うちには謎のルールがある。
 庭やベランダはかくべつ、部屋の中で蜘蛛を見つけても、それは殺さずに放っておく。
 おかげで今うちのリビングには蜘蛛が一匹、居ついている。

 私は正直あまり気が進まなかったが、命を大切にする考え方には基本的に賛成だし、おれだって昔はどんな虫とも親友同然だったんだ、という田舎少年的なプライドも手伝って、同居人が提唱したそのルールに異を唱えることはしなかった。

 同居人いわく、蜘蛛はほかの虫とちがって特別な存在である。主(ぬし)みたいなものだから、危害を加えたりまして殺したりしてはいけない。「実家にも一匹棲んでるの」と彼女は平気で言う。「手のひら並みに大きいのが一匹」。
 ぞっとしない話だが、私は田舎少年の虚栄でべつにどうてことないような返事をした。

 幸いこの家の蜘蛛はもっとずっとふつうで、足を入れても体長1センチに満たない。全身黒くて、左右対称の位置に白っぽい模様がある。毒はない(と思う)。名前もないようなふつうの蜘蛛だ。

 一緒に暮らしだして何週間か経って気づいたが、なるほど蜘蛛という生き物はただそこにいるぶんにはなんの支障もないようである。
 たしかにほかの害虫とは何かが違う。たとえば蚊は血を吸うし、小蠅はブンブンうるさいし、Gは論外。蟻は集団で来るから居候には不向き。カメムシは臭い。でも蜘蛛の場合そういう心配はいらない。大きさもそう、ギリ大丈夫。
 通常彼らは壁や天井を音もなく歩きまわっている。矢鱈滅多に人間を脅かしたりしない。たまに床まで降りてきても、地上は危険とわかっているのか必死の大ジャンプをかましながら壁に戻っていく。居候としての身分をよくわきまえているのだ。
 蜘蛛にかんしていちばんやっかいなのはあの粘つく糸だが、不思議に巣を張る気配はない。空腹で困っているふうもないので、たぶん別の方法で食事にありついているのだと思う。
 
 ひとまず、今のところ破綻をむかえる様子のない私と彼女と蜘蛛の同棲生活ではあるが、果たしてこのあとどんな展開を見せるのか見ものである。デュ・モーリアの鳥たちのように突然人間へ敵意をむき出しにするとか、人にかみついて特殊能力を賦与するとか、文字どおりに蜘蛛の子を散らすとか、そういうことがなければいいんだが。

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