宙飛ぶクジラ
文字数 1,554文字
アシナガバチはそれ以上羽ばたかなかった。声も上げずにコンクリートの地面に落ちた。
肩の緊張がほぐれていく。反撃をおそれて防護服がわりにコートをまとった自分を可笑しく思う。空き家の軒先には、女王蜂が作りかけていた、巣の土台となる部品が残っていた。僕はそれにも殺虫スプレーをひとまわり吹きかけてから鉄の柵をまたいだ。
亡骸を移動させることはしなかった。いずれ別の生き物の食糧になるか雨風に流されるかするだろう。横の公園では主婦たちが子供を遊ばせていた。そのうち何人かが、オレンジ色のスプリングコートを着て柵を飛びこえる僕を不思議そうな目で見ていた。前日までの雨でぬかるんだ地面が僕の黒い運動靴を汚した。
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地域猫の脱毛症は寛解にむかっているようだった。このあいだまで地肌が露出していた部分にうっすらとグレーの毛が生えている。おかげで見た目の痛々しさはだいぶ和らいだ。僕と同居人はひとまず安心して、でもその朝は寝坊気味だったので、生憎かまってやる暇はなかった。コーヒーを淹れトーストを焼いているうち、猫はどこかへ行ってしまった。
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近所に立派な日本家屋があり、そこの庭にこれまた立派な鯉のぼりが立った。ちょうど僕たちの家の窓から見えるその支柱は屋根より高く、てっぺんに風車が二つついて、鯉はちょっとしたクジラくらいの大きさがあった。そんな本格派の鯉のぼりを見るのはひょっとしたら初めてかもしれない。まだ四月上旬で、すこし気が早いようにも思ったが、早いぶんにはとくに問題はないんだろうか。もしかするとあの家に、今年生まれた男の子がいたりするのだろうか。そういった細かい風習を僕は知らなかったけれど、ともかくこの町に住むかぎりあの家には逆らわないほうがいいんだろうなと、そんなことを考えた。
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朝の時間が好きだ。
朝の、意識がまだじゅうぶんに覚醒していない時間が好きだ。
積もったばかりの雪のように、誰の足跡もついていない一日のはじまりで、目を開いたまま夢を見ているかのごとく、思考は自由にのびのびとしている。適度な忘却と無感覚は、むしろ脳味噌のはたらきにおいてプラスに作用するらしい。実は幻なのだと気づきながら、かりそめの幸福感にしばし包まれる。
春の鳥が歌い、日光は若葉を平等に濡らしている。夜の冷たい闇のなかで蓄えられた清い空気が肺を満たす。疲労も不調も忘れた身体で、僕は言うのである。今日という日はきっと生きるに値する一日だと。
しかし覚醒が進むにつれ、時間や空間といった所与の条件にたいする想像力が回復する。いつまでもとれない腰や肩の違和感を思い出す。洗濯機の排水ホースが壊れたままだったことも。するとさきほどまでの痴呆のような幸福感はたちまち霧消する。もちろん世界は僕の覚醒度合いにかかわらず確固として美しくあるけれど、美しく完全であるがゆえに、今日という日が、途中下車を許さない人生におけるたんなる通過駅にすぎないという事実に打ちのめされそうになる。
僕はせめてその駅名くらいは読みとろうとして車窓ごしに目をこらすが、列車はスピードを緩める気配を見せず長いトンネルに突入する。喚気のために窓を開けてあるせいで車内の気圧が急変し、鼓膜が強く圧迫される。僕はあわててイヤフォンをはずす。奥歯が浮く感覚を打ち消そうと、固い唾をごくりと飲みこむ。人生において今日が、生きるに値する最後の一日ではない、という保証はどこにもないまま、次に気がついた時には、境目のない夜がダイニングテーブルの椅子にすっかり腰を落ち着けていて、中学以来の友人みたいに親しげに笑う。
「
人は、自分が許せないときに、悲しくて泣く、そして、自分が許せたときに、嬉しくて泣くの
」───森博嗣『四季 秋』(講談社文庫、2006)