第11話  読書の思い出 

文字数 2,664文字

 もう二十年近く、私は読書らしい読書をしていない。
 「読書をしなければ」と焦る気持ちは強くある。自分自身の教養や人間性を高めるためだ。何かと無学な自分を知っている。卑下するのではなく、事実を書いている。
 ニュースを読んでいても、分からない言葉が多くあって困惑する。特に経済や科学の記事は分からない言葉が次々に出てきて、だんだんと読むのが嫌になってしまう。常日頃から読書をしていれば、専門用語も多少は理解出来るかもしれない。そうすれば、読んでおくべき記事を放置することも無くなる。
 また、良い文章を書くには読書が必要だとよく聞く。
 それは私も実感している。小説やエッセイを書いているときに、よく手が止まるからだ。この接続詞や記号の使い方は間違いではないのか。似ていても意味の違う言葉もあって、「意思」と「意志」などであるが、それの使い方に私は戸惑う。それをネットで調べるのが面倒になり、自信がないままに文章を書くこともある。これも日常的に読書をしているなら、わざわざ調べる必要はないだろう。きちんとした読書をしていれば、語彙力は自然と身に付くはず。
 段落の取り方や視点の問題なども、実際に優れた文章を読めばわかりやすいと考えている。
 このサイトでもいくつかの小説を発表したが、実は視点などを私はよく理解出来ていない。それでも、小説を書きたいという気持ちが強くあったので、技術がないままにそれらを書いた。自分でも良いことだと思ってはいない。

 読書の必要性を痛感したことは他にもある。以前にも書いたが、文章教室に通い始めてから私は自分の無知に気が付いた。
 講師や他の受講生の話を聞いても、私は分からなかった。高名な作家の話題が出たとき、私は黙りこんだ。その作家の著書を読んだことがなかった。それなのに、感想を求められたのだ。
 「私はものを知りません」
 正直に答えたが、屈辱に似たものが心にあった。自分の無教養が恥ずかしく、それを馬鹿にしたひとを嫌悪した。しかし、笑われても仕方がない。私以外の受講生の文学的素養は高かった。文章を読んでも書いても、私は彼らの足元にも及ばなかったのだ。
 持って生まれた知性がないうえに、読書を怠っていたのだから、これは当然の話だと言える。

 子どもだった私は読書が一番の趣味だった。小学校か中学校だったかの林間学校に、ゲームではなく文庫本を持っていったこともある。時間があるときにひとり読んでいた。その本はバローズの『火星のプリンセス』だ。夢と冒険が溢れていて、続編も少しだが読んでいる。
 子どもの頃から本を読んでいたのは、母や姉達の影響だったと考える。
 国語の教師になりたかったという母は、私達三姉妹に本を買い与えていた。何種類かの本を定期購読していたのだろう、書店がそれらを配達してくれていたのを覚えている。
 私がよく読んでいたのは、小学舘から出ていた『少年少女世界の名作文学』というものだ。全部で五十巻あり、一つの巻に幾つかの小説や詩が収録されていた。記憶に残っているものが多くあり、今も何かの拍子に思い出されてならない。
 最近に思い出したのは、オペラでも知られている『カルメン』を書いたメリメだ。思い出したのは『カルメン』ではない。これも読んだが、重苦しい小説だったと記憶にある。
 最近の私が思い出したのは、我が子を処刑した男を書いた小説である。題名をはっきり覚えていなかったからネットで検索した。すぐに分かった。『マテオ・ファルコーネ』に間違いない。ストーリーを読んで、これだと確信した。
 この小説をご存じの方は多いだろうが、改めてあらすじを書かせていただく。
 舞台は19世紀のコルシカ。マテオ・ファルコーネという射撃の名手がいた。その息子が留守番をしていたところへ、お尋ね者が官警に追われて逃げ込んでくる。息子はお尋ね者をいったんは匿う。しかし官警を指揮していた男に銀時計を見せられ、息子はお尋ね者を引き渡してしまった。息子は銀時計が欲しくて、自分を信用したお尋ね者を裏切ったのだ。また、周囲の人々から信用されている父の名誉も、息子は傷つけたことになる。マテオ・ファルコーネは激怒した。窪地へと息子を連れていく。神に祈りを捧げさせたあと、許しを乞う十歳の息子を射殺した。愛する息子を処刑したことに驚くが、これが彼には正義なのだ。
 今頃になって、この物話を思い出した理由が自分でも分からない。また、『マテオ・ファルコーネ』をここで書く必要は特になかった。どうしたわけか、書きたい気持ちがあったのだ。今、私はこのような小説を読みたい気分なのだろう。
 話は戻る。
 姉達が読んでいた本のひとつに、世界の名作全集だと思われるものがある。深緑色の優しい手触りの本だった。同じ色の凾に入っていて、布を張っていたのか、その表面は起毛していたような気がする。ひょっとしたら、今でも実家の本棚にあるかもしれない。
 中学生ぐらいだった私は、姉達ほどではないが、この名作全集と思われる本を熱心に読んでいた。
 なかでも、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』が好きだった。何のアンケートだったかは忘れたが、愛読書を尋ねられたことがあった。それに対して、『ジェイン・エア』と私は答えている。ジェイン・エアの権力に媚びることもない生き方は、実に素晴らしい。
 そして、その文体のなんと素敵なこと。一人称で語られていて、自己を持つ立派な女性だと感じさせる。
 『ジェイン・エア』だけではない。いろいろな本が私に知らない世界を見せてくれた。名前も知らない外国の物語も、本を開けばすぐそこにあるのだ。
 読書は実に素晴らしい。
 それを知りながら読書しなくなった自分について、日常のなかで考えることがある。つまらない独り言ではあるが、それをここに書いてみようと思い立った。
 思い立ったのは良いが、なかなか書き進めない。恥ずかしいと思ったのだ。このサイトで皆様の作品を読ませていただき、その知識の深さに圧倒された。また、さまざまな経験をされていると感じたのだ。
 私の読書量など、たかが知れている。しかも、子どもむけに易しく書かれたものを読んだに過ぎない。それはそれで、私に大きな影響を与えてくれた。多くの本を与えてくれた母に感謝したい。
 ただ、読んだあとの感動は思い出せるが、物語の内容は忘れている。
 その程度の私が読書について書くなど、実におこがましいことだ。しかし、私にとっての読書は何かと聞かれたら、おぼろげながら答えられそうだ。
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