第三章 炎4

文字数 3,007文字

 枇杷殿(びわどの)の西二対の北庇を屏風で囲み、局にしつらえた一角で、教通は小式部を抱き寄せると、小式部の長く光沢に満ちた黒髪をさすった。
 わずかに入る月明かりに照らされた小式部の横顔は、どこか妖しい。
 影絵のような二人は、敷いてあった厚畳(あつじょう)に横たわると、
「よろしいのですか、こんな所で、わたしなどを構っていて」
 小式部は、道長が精力的に土御門殿の造替工事の打ち合わせを重ねているというのに、三男の教通が遊びほうけていることを心配して言ったが、教通は答えなかった。
 土御門殿造替工事の指揮は、専ら父の道長と長兄の賴通が仕切っており、妾腹の次男や嫡流であっても三男など、もはや口出し無用あった。
 教通にしてみれば、小式部とこうして夜ごとに枇杷殿で逢瀬を重ねている方が、まだ気が晴れた。
 枇杷殿は、平安京鷹司南、東洞院西一町にある道長の邸宅の一つで、度重なる内裏の罹災にその都度、里内裏に用いられ、三条天皇や一条天皇が遷幸したが、後一条天皇の時代になると、一条大宮院が重用され、寛弘二年(一〇〇五)に新造された枇杷殿は、専ら道長と血縁関係にある皇族の里内裏や東宮御所に使われたり、道長自身の方違(かたたが)えの際、利用されるだけで、殆ど空き家も同然で、保全のために必要最低限の人員が出仕し、夜間はさらに人数は少なくなる。
 こうしたことから。土御門殿が炎上した後、教通は枇杷殿の西北隅の西二対の北庇を小式部との逢瀬に使っているのだった。
 教通と小式部は抱き合ったまま互いの肌の温もりを味わっていると、不意にどたどたと西対から透殿を渡ってくるけたたましい足音が聞こえてきた。続いて、宿直の門番のうろたえた声が響いた。
「このような深夜に、殿舎内を歩き回られては困ります! 第一、若君はここにはいらっしゃいません!」
「嘘をお言い! 一条大宮の女房たちにも確かめてあります。教通さまは、和泉の娘に毎夜のように車を()って、土御門に通わせていたって。土御門が焼けてしまえば、今度は枇杷を使っているって! 出てきなさい、泥棒猫!」
 教通は愕然として、小式部を抱いていた腕を解き、離れた。
 小式部は一体、何が起きたのか、事の次第が解らずにいると、突然に女が屏風を押しのけ、小式部に怒鳴った。
「やはり、いた。和泉の娘!」
 女は教通の正室で、藤原公任女であった。公任女は、四条大納言と呼ばれる藤原公任の長女で、昭平親王女を母とし、四年前の長和元年(一〇〇二)に十二歳で教通に嫁いでいる。
 公任女は、ようやく事の次第が理解できはじめた小式部をじろじろと見回しながら、
「ふん、少しばかり乳があり、脚が細く長いからと言って、所詮、二親は受領階級。こんな身分の卑しい娘のどこがよくて教通さまもたぶらかされたのか!」
 小式部は慌てて(うちぎ)の襟元とかき合わせ、緋色の袴を足首まで整えた。教通は正室の剣幕に、暫時、茫然としたが、顔色を失った宿直の門番が公任女の足許にひれ伏していることに気づき、威厳を取り繕いながら、
「おい、連れて行ってくれよ」
 正室を連れ出すよう門番に命じたが、公任女はますます激昂し、
「連れ出されるのは、この女、和泉の娘の方だ! あんたなんか、明日の朝から一条大宮に出られなくしてやるんだから!」
 小式部の(うちぎ)を引っ掴み、奪い取ると、小式部の肩を力任せに突き飛ばした。

 平安京二条南、東洞院東にある小二条院の寝殿では、公任が道長と同席した倫子、賴通に平伏し、昨夜、長女が枇杷殿で教通と小式部にはたらいた狼藉を詫びていた。
 公任は、丁度五十歳になる学識豊かな才人で、歌人としても優れ、『和漢朗詠集』の撰者となり、歌論書や家集を著している。また、当代の三大儀式書の一つである『北山抄』の編纂者でもあり、旧事典例に通暁していた。
 こうした学識者が、政務に関してではなく、互いの子女の色ごとの後始末のため、倫子も賴通もいる席で床に手をつき、平謝りされては、道長も恐縮し、
「相解りました、四条大納言殿。教通にはきちんとするよう、父としてきつく申しておきましょう」
 これ以上、大事にならぬようするにはどうしたらいいか、考えを巡らせながら事後の対処を引き受けた。
 公任は、若い連中の艶事の後始末を道長に丸投げできたことをもっけの幸いと、これ以上、言葉を重ねず、小二条院をさっさと退出していった。
 入れ違いに教通が入ってくると、倫子と賴通は聞こえよがしに深い溜息をついたが、道長は無表情に、
「さてと、どうしたものかな?」
 誰にともなく言った。倫子はおろおろとして、
「四条大納言殿の姫君を罰してはなりません、十二で嫁いできて、十六になったばかりのお方です。世間の右も左も解らず、ただ教通のしたことが、ひどくつらかったのです。小式部も今までどおり、一条大宮院に出仕させて下さい!」
「しかし、母上。それでは摂関宗家は身内に甘い、ととらえられましょう。四条大納言殿の姫君は、深夜に門番の制止を振り切り、枇杷殿に上がり込み、嫡流の三男に怒号を浴びせたのですよ」
 元を正せば、お前がしっかりしていないから、女にこんな無様な騒ぎを起こされるのだ、と言わんばかりに弟をじろりとにらみつけた。教通は兄と父母に何も言えず、俯いていると、道長は、
「しかし、教通、お前も詰めが甘いな。土御門殿や枇杷殿など使わず、平安京の一角に小さな家でも借り、そこへ小式部を通わせれば良かったじゃないか」
 にやりと笑って言うと、倫子は目を丸くし、
「土御門殿? それじゃ、教通が小式部を呼んだのは、今回が初めてではなかったの?」
 思わず教通に尋ねると、道長はぷっと吹き出し、
「こいつは、土御門殿では両親に黙って馬場殿を使っておった。倫子も賴通も全く気づかなかったのか?」
 笑い出すと、教通は、自分と小式部の仲をすっかり父親に知られていたことにますますうなだれ、人の耳目の恐ろしさが身にしみ、唇を噛みしめた。倫子は毅然として、教通に、
「教通、男子ならきちんとしなさい!」
 叱りつけると、教通は父母から目を逸らせたまま、
「わたしだって、何度も小式部には言ってきたんです。はっきりしてほしいと。でも、小式部は煮え切らない返事を繰り返すばかりで……兄上も、父上も、母上も家族なら責めるばかりでなく、助けて下さい……」
 小式部がどうするつもりでいるのか、といった今日までの不安な思いを訴え、ようやくに家族へ助けを求めた。賴通は鼻の先で笑い、
「小式部にしてみれば、お前じゃまるで頼りにならんと思っているのだ。つまり男として半人前に見られている、ということだ」
 したり顔で小式部の気持ちを代弁したが、倫子は、
「それは違いますよ。小式部は、早くに両親が別れ、母はその後、二人の親王に想われながら、揃って数年で亡くしています。そうした苦労を重ねてきた母の姿を見て育ち、加えてつい先日、実の父を亡くされたのです。結婚というものに対して、恐れのような思いを抱いていて当然です」
「そんな小式部を救ってやれないのだから、教通、お前はますますもって半人前だ」
 賴通が更に弟を責めると、教通は追い詰められた思いになり、
「……じゃあ、どうしろいうのです。人が人を救うなど、できるはずがない!」
 涙声を上げると、道長は三男が不憫になり、
「ああ、解った、解った。賴通、もうその辺で教通を勘弁してやれ」
 長男を抑え、宙を見つめると、顎をなでながら思案を巡らせた。
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