第二章 母の足跡3

文字数 2,860文字

 小式部は近江国滋賀郡にある石山寺に参籠(さんろう)し、三日が過ぎていた。
 石山寺は、真言宗御室派の寺院で、聖武天皇の発願により、良弁を開基とし、以後、官寺として扱われたが、大きな興隆もなかった。三代座主淳祐により教学の基礎が固められ、次第に観音の霊験所として朝野に注目されている。
 こうした石山詣は盛況し、通常は平安京から徒歩で夕刻に到着し、御灯を捧げ、翌朝には帰京する比較的、簡便な参詣であったが、希望すれば、神仏の託宣や霊告を得るために七日七夜、()もり、通夜して祈ることもあった。
 こうした参籠は、和泉式部、紫式部、菅原孝標(すがわらのたかすえ)女も行なっている。一般には、礼堂あるいは参籠所で過ごすが、貴族には庇の隅を屏風で仕切って局をしつらえられた。
 小式部は特に託宣や霊告を得ることが目的ではなかったが、母の足跡を自分なりに学び、そこから教通との結婚を見つめてみたかった。
 教通を通じ、『大鏡』『栄花物語』『御堂関白記』『小右記』『権記』といったときの識者の日記をどっさりと借り集め、時系列につき合わしながら読み進め、必要と思われた箇所は抜き書きしていく、という作業を、小式部は石山寺の庇で繰り返していた。
 『大鏡』は、二人の高齢者というよりは超老人が表向きの歴史と裏面史を語り合い、これに若侍が相づちを繰り返す、という会話形式で、文徳天皇から後一条天皇の治世を専ら道長の栄華を照準に合わせて語っている。
 『栄花物語』は、彰子の中宮時代、紫式部と同僚であった赤染衛門が、年月を追って記した、女房に視点を据えた記録であった。
 『御堂関白記』は、道長が三十歳前後から書き始めた個人の日々の出来事をつづったもので、男性の手による私日記は珍しい。道長の文章は簡略で、気まぐれな感があり、誤字、脱字、宛字、抹消、返り点が散見し、前後の混乱もあり、身近な者でなければ、完全な理解は難しい。これは、悪く言えば、書き手の気まぐれな性格を現し、よく言えば、おおらかな性分が窺える。
 藤原実資(ふじわらのさねすけ)の『小右記』と藤原行成(ふじわらのゆきなり)の『権記』もともに私日記で、藤原北家の摂関政治を明らかにする上で、欠かせない存在であった。
 小式部が手にできたのは、自筆であるはずがなく、全て能書家によって書写されたいわば写しで、全巻がもれなく揃っているわけでもなかったが、仕方なかった。しかし、これらの記録類により、小式部は過去の多くを学び取ることができたのだった。

         ※

 聡明な村上天皇に入った女性は、十人前後も知られているが、藤原北家嫡流で忠平の子の実頼、師輔、師尹(もろまさ))兄弟もそれぞれに娘を嫁がせていた。
 実頼の娘・述子(じゅつし)には、皇子、皇女は恵まれなかった。師尹の娘・芳子(ほうし)は、二人の親王を生んでいたが、帝位にはほど遠かった。しかし、師輔は娘を三人、入れていて、妹の登子(とうし)に子はなかったが、姉の安子(あんし)には三男四女が授かり、中宮の地位を得ていた。
 安子所生の三人の皇子は、憲平(のりひら)為平(ためひら)守平(もりひら)親王と称した。
 憲平(のりひら)親王は第二皇子ながら、誕生の年に東宮となり、父村上天皇が在位のまま四十二歳で崩御すると、その日のうちに十八歳で帝位に就き、冷泉天皇となった。このときは、外祖父の師輔と母の安子は、既に他界しており、天皇が病気がちであったことから大伯父の実頼が関白となって、後見に立っている。
 病弱な冷泉天皇に代わり、為平親王に期待していた賜姓皇族の(みなもと)高明(たかあきら)は、師輔の娘・三宮(さんのみや)愛宮(あいのみや)を妻に迎えており、為平親王の妻は、三宮か愛宮のいずれかを母にしていると言われている。
 師輔が亡くなった後、為平親王の後見人は高明一人となった。為平親王が東宮となり、次いで天皇になったとき、政界を牛耳れるのは高明で、即ち、源氏ということになる。そこで、藤原北家は為平親王の立太子を阻止しようと企てたのだった。
 後に安和の変と呼ばれる事件で、安和二年(九六九)の春、源連(みなもとのつらね)橘繁延(たちばなのしげのぶ)らは東宮である守平親王を廃位し、兄宮の為平親王の擁立を図っている、と源満仲(みなもとのみつなか)が朝廷に密告した。
 朝廷の命を受けた検非違使(けびいし)は、事件に関与した繁延、僧・蓮茂(れんも)藤原千晴(ふじわらのちはる)らを捕らえ、土佐や隠岐に配流とし、次いで、左大臣にあった高明も捕らえ、太宰権帥(だざいのごんのそつ)に降下した。高明は、翌日には出家の身となり、検非違使らに護送され、西宮邸を後に遠国の太宰府に向かったのだった。
 こうして藤原北家は賜姓源氏の排斥に成功し、これ以降は同族間の争いへとなっていく。
 安和の変から四か月後、冷泉天皇は東宮の守平親王に譲位し、円融天皇となった。十一歳の円融天皇は幼少に過ぎる、として大伯父の実頼が後見のため摂政となったが、翌年に薨じてしまい、故師範の嫡男で天皇にとっては伯父に当たる藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)が摂政になった。
 伊尹は、四十七歳の働き盛りで、娘の懐子(かいし)が女御となって生んだ師貞親王が東宮にあったが、この伊尹も二年後に亡くなってしまった。
 伊尹には一歳年下の藤原兼通(ふじわらのかねみち)と四歳年下の兼家(かねいえ)がいた。
 兼通は、安和の変が起きた年の正月に四十五歳で参議に任ぜられ、その半月後に、弟の兼家は参議を経ずに中納言に補任され、兄を超えてしまった。
 伊尹の死後、権中納言兼通は大納言兼家をさしおいて関白の宣旨を受け、同時に大納言を経ずに内大臣に進むという番狂わせを起こし、用意周到振りを窺わせている。
 兼通の邸宅は堀川院と閑院、兼家のそれは東三条院で、ともに二条大路に北面し、南北二町を誇る広壮なもので、大内裏とも近い。
 関白職に就いた兼通は、従兄弟の右大臣藤原頼忠を政務のよき相談相手に選んだ。
 こうして六年が過ぎたころ、兼通は重病にかかった。ある日、兼家は、兄が死んだものと思い込み、行列を連ねて参内し、円融天皇に関白職拝命を奏上しようと堀川院にさしかかった。
 病床の兼通は余命幾ばくもない自分の容体を知って、弟が今日までの不仲を兄に謝罪し、併せ病気見舞いのために邸に訪れたと勘違いし、迎え入れる準備をさせていると、兼家の行列は堀川院の北門を素通りし、大内裏へ入ってしまった。
 この報せを受けた兼通は激怒し、病身に装束を整え、両側から支えられるようにして円融天皇の前に出ると、蔵人頭を呼び、除目を行い始めた。
 まず、兼通の関白職を頼忠に譲り、兼家が兼任していた右大将を取り上げ、名ばかりの治部卿に降格させた。取り上げた右大将を従兄弟の権中納言(ごんのちゅうなごん)藤原済時(ふじわらのなりとき)に与えたのだった。
 この一か月後、兼通は五十三歳をもって堀川院で薨じている。

          ※

 小式部は普段から目にしている二条大路に北面し、桜の枝を張り出して建ち並ぶ摂関家累代の邸宅で、三十九年前の貞元二年(九七七)十一月に、こうした兄弟相克劇があったことを知り、醜さよりも微笑ましさを覚えた。
 そこには、一人っ子として生まれ育った小式部にとっては、この上もなくうらやましい兄弟の存在があった。しかし、最も自分自身に近い兄弟や従兄弟という存在は、いつ我が身に取って代わられるか、全く油断の許されない(かたき)も同然、という宿命をも負っていることを小式部は理解していた。
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