第一章 和泉式部の子2

文字数 2,764文字

 太皇太后彰子が御所として用いている手入れの行き届いた一条大宮院に着くと、小式部はすぐに女房たちの控えの間に使われている寝殿と東対を繋ぐ渡殿に出仕し、外出着の壺装束から十二単の正装に身なりを改め、昨夜以前から勤めている女房たちから申し送りを受けた。
 申し送りが済むと、彰子に仕えている女房たちの中でも古参の大輔命婦(たいふのみようぶ)が小式部に、
「お宅のご用は済みました?」
 小声で尋ねた。小式部はうなずき、
「はい、狭い邸ですが、祖父母と叔母だけでは行き届かないことも多くて、大変でした」
 微笑んで答えた。和泉式部が藤原保昌と再婚し、任地へ下る際、彰子から扇を下賜された。その扇は、天橋立(あまのはしだて)を和歌と絵で表現した大変に優れたもので、和泉式部はすぐに彰子へ返歌を贈っているが、このとき、大輔命婦にも歌を(したた)め、

 たいふの命婦に「とまる人よく教えよ」とて

 別れゆく心を思へわが身をも 人のうへをしる人ぞしる

 と、後に残していく娘をよく教えてやってほしいと懇望し、同時に不安な自身の思いを訴えていた。
 一条大宮院は、一条南、大宮東二町に位置し、東西に二町、南北に一町の広大な敷地をしめている。靫負小路を隔てて本第は西側を指し、付随的ながらも独立した東側の一町は、東町あるいは東院と呼ばれ、区別されている。
 こうした一条大宮院は藤原伊尹(これまさ)が父の師輔から伝領されたことに始まり、東三条院詮子に渡り、居住したが、長保元年(九九九)六月に内裏が焼亡したことにより、改修が加えられ、里内裏として用いられるようになった。一条天皇は修造後もたびたび火災に遭う内裏を嫌い、一条大宮院を里内裏として用いるのが常態化しているのだった。
 ふと、彰子の御座所である東対からどたどたとけたたましい足音が迫ってきた。女房たちが思わず近づいてくる足音へ目を向けると、彰子が生んだ二人の親王たちが、歓声を上げて走り回っていた。
 一人は今年の一月に三条天皇の後を継いで即位した後一条天皇で、もう一人は弟宮の敦良親王であった。
 板張り寝殿造の床は響き、小式部は慌てて敦良親王の肩をつかみ、
「敦良親王、そのように殿舎の内外を走り回ってはなりません」
 七歳の敦良親王に言いながら、さりげなく一つ年上の後一条天皇もしかった。
 兄弟は、五年前の寛弘八年(一〇一一)六月に三十二歳で崩御した父である一条天皇の端正な面差しと学才を受け継ぎ、人望も篤く、将来が期待されている。
 周囲の期待どおり、敦良親王をかばい、後一条天皇は小式部の前に立ち、
「小式部、敦良は悪くない、わたしが敦良を鬼ごっこに誘ったのだ、しかるのなら、まず、わたしをしかれ」
 為政者の子らしい潔さで言った。小式部は感じ入り、言葉を失ったそのとき、十七歳の敦康親王がさりげなく小式部の傍らに立ち、
「これこれ、敦成、いや、お上。小式部は、敦良をしかりつつ、同時にお上もしかっているのだよ。年長のお上を先にしかっては、お上の立場がなくなってしまう、そこで、お上の顔を立てながら、まずは敦良に声をかけたのだ。そうした思慮深い小式部に、お上自らが、女房たちの面前で申し上げては、今度は、小式部の立場を損ねてしまうよ」
 小式部の心遣いを理解し、後一条天皇を(いさ)めた。
 敦康親王は、一条天皇のもう一人の妃である藤原定子の子だったが、二歳で母を亡くし、十一歳で父も失い、頼れる後見もなく、唯一、彰子が我が子のようにかわいがって育てている。
「さあ、間もなくおじいさまも見えられる。母上さまの許でおじいさまをお待ちしよう」
 敦康親王は幼い二人の異母弟の手を引き、渡殿から東対へ連れて行った。小式部ら女房たちはほっと肩の力を抜き、ますます聡明で臣下の信も篤く、笛に練達していた一条天皇に似てくる敦康親王の後ろ姿を見送った。女房たちの誰もが頼もしく思う敦康親王であったが、早くに二親を亡くしていることによって、既に日陰者のような人生が始まっている。
 一条天皇の崩御と三条天皇の即位のとき、彰子が新しい東宮として敦康親王を立てることを強く望んだものの、藤原道長が有力な後見人がいないという理由で、後一条天皇になっている敦成親王を推した経緯があった。
 このとき、にわかに寝殿の方がざわめいた。内覧(ないらん)と呼ばれる関白に准ずる重職にある藤原道長が、彰子と孫たちを訪ね、一条大宮院に参内したのだった。
 一条大宮院に出仕する女房たちは、お互いに身なりを確かめ合い、総出で道長を出迎えた。
 道長は、摂政藤原兼家と藤原時姫の五男でありながら、夭折した親族らを越し、姉であり一条天皇の母后であった詮子の推挙により内大臣に昇り、内覧宣旨を受け、天皇の外戚と併せ、藤原北家の氏長者(うじのちようじゃ)地位にある。
 衣冠束帯と呼ばれる正装に威儀を正した道長は、小柄ながらも、恰幅がよく、存在感があった。道長は寝殿の北庇から東庇へ曲がる辺りまでくると、ふと小式部に、
「小式部、和泉式部は変わりないか?」
 呟くように尋ねた。小式部はうなずき、
「はい、丹後からは何の便りもございませんので、息災に暮らしていることと存じます」
 母の消息を答えた。道長は、うん、と応えると、透殿から彰子や三人の親王たちが待つ東対へ進んだ。
 小式部は、ふと道長の横顔を見ると、精彩に欠けていることに気づいた。聞くところ、道長は三十歳前後から病に悩まされるようになり、疱瘡(ほうそう)などの疫病(えきびょう)が蔓延した事情もあって、長男の賴通がまだ幼いうちから藤原行成に後事を託すほど気力が落ちた。
 最近では、咳病、痢病といった風邪や胃腸病を患い、特に雨が続くと、喘息の発作が起こり、周囲を不安にさせ、医師の勧めにより、貴族が食べる習慣のなかった葛根(かっこん)を食べている、とささやかれている。こうして衰えを見せ始めた道長は、天皇の位に就いた孫たちなどを、毎日のように訪ねるのを楽しみにしているのだった。
 道長が東対の母屋へ入ると、彰子は既に敦康親王、後一条天皇、敦良親王を居並ばせ、折り目正しく祖父を迎えさせた。
 彰子は、父を取り次いだ女房の中に小式部の姿を見つけると、
「小式部」
 思わず呼び止めた。小式部は南庇に手をつくと、
「はい」
 主の言葉を待った。彰子は、
「お母上さまからは、その後、便りはありますか?」
 慎ましく尋ねた。小式部は静かに微笑み、
「いいえ、丹後からは何も便りはございませんので、健勝のことと存じます」
 道長に答えたことを彰子にも言った。彰子が、そう、と安心すると、小式部は深々と一礼し、立ち上がった。
 和泉式部と小式部母子は、彰子にとっては十三歳で一条天皇の許へ入内し、十年がたった寛弘六年(一〇〇九)に揃って出仕していたから印象に深い存在であった。また、小式部にとっても、入れ替わりの激しい女房の中にあって、仕える主から格別に気遣われることは、(ほま)れであった。
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