第二章 母の足跡4
文字数 3,515文字
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兼通を継いで関白となった頼忠は、兼家に同情し、翌年には右大臣職を与えている。
再び政の中央に戻った兼家には、冷泉女御となった娘の
永観二年(九八四)、円融天皇は二十五歳の若さで退位し、懐子の子の師貞親王が十七歳で花山天皇として即位した。関白は引き続き頼忠が就き、東宮には五歳の懐仁親王が立った。この立太子により、兼家に光明が差したかに見えたが、障害があった。
花山天皇は兼家から見ると、長兄・伊尹の孫で、外戚としては弱い関係であった。これに対し、花山天皇の母の兄である
義懐を補任したのは左中弁・
義懐と惟成は、兼家にとって脅威であったが、花山天皇自らが兼家につけ込む機会を与えている。
花山天皇は、即位後、間もなく藤原為光の娘・
兼家は、こうした花山天皇に
元慶寺で、道兼に置き去りにされた花山天皇は、剃髪し、法名を入覚として出家させられてしまった。
同時に、兼家は嫡男・道隆と次男・道綱に命じ、天皇の象徴である
一条天皇は七歳という幼さであったから、関白・藤原頼忠に替わって外祖父という関係から兼家が摂政に就いた。寛和二年(九八六)六月二十四日のことであった。
このとき兼家は右大臣で、上位には左大臣・源雅信と太政大臣・頼忠がいて、政権を握ったことにはならない。
これを打開しようと、兼家は太政官体系から脱却するため、右大臣を辞している。これは、摂関は必ず大臣と兼務、という形態を破り、
五年後、兼家は病を理由に摂政と氏長者を嫡男道隆に譲り、六十二歳の生涯を閉じた。
兼家の跡を継いで摂関となった道隆は、父の先例にならい、翌年に内大臣を辞め、摂政のみとなっている。
四十歳にならずに関白となった道隆は、既に一条天皇に入れていた十五歳の娘・
こうした道隆の家系は
長徳元年(九九五)四月二十七日、関白は道隆の実弟で右大臣であった道兼に引き継がれたが、この道兼も七日後に急死し、「七日関白」と噂された。道兼他四人の公卿の命を奪ったのは、都を中心に猛威をふるっていた流行病で、生き残った公卿のうち、摂関となり得る可能性をもっていたのは道隆の子息で内大臣の伊周と道隆、道兼の末弟で権大納言の道長であった。
一条天皇は中宮・定子の兄である伊周を、と考えていたが、天皇の生母で皇太后である詮子は、実弟の道長を強く推挙し、道長に内覧宣旨が下った。
道長は、内覧宣旨から一か月後、右大臣、氏長者となり、信の篤い者を起用し、天皇の周辺を固めた。しかし、伊周との争いは続いていた。
長徳二年(九九六)、花山法皇は、出家の理由であった女御・
たちまち公卿会議の
長保三年(一〇〇一)十月、道長は姉の女院・詮子の四十歳の祝賀を自邸土御門殿で一家を挙げて盛大に催したが、二か月後、女院は崩御した。
ときの一条天皇には、伊周の妹の定子が后としてあったが、道長は十二歳の娘・彰子を女御として入れ、中宮になったことにより、定子は皇后に冊立され、一人の天皇に皇后と中宮が並んで立つ『二后並立』の初例となった。
こうした定子も女院・詮子崩御の一年前の冬の日、二十五歳で早世している。
しかし、一条天皇には右大臣・
同五年、彰子に待望の敦成親王が、更に翌年には敦良親王が誕生した。同八年、三条天皇が即位し、敦成親王が東宮に立った。
三条天皇は道長に関白職も要請したが、道長は固辞し、内覧の立場を堅持している。三条天皇は在位五年で譲位し、敦成親王が後一条天皇として即位した。同時に、道長は外祖父として摂政に就任し、ここに名実ともに権力を掌中とするに至ったのだった。
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小式部は多くの私日記の写本を丁寧に積み重ねると、一息入れようと本堂の庇から境内へ出た。
境内の高台からは、鏡面のように白銀にきらめく琵琶湖が間近に臨める。三日をかけ、賜姓源氏と藤原北家の権力争い、そして藤原北家の同族間に覇権闘争を自分なりに識者の記録から要点を学ぶことができ、充実した思いであった。
身内同士の闘いは、摂関家という家柄にあっては必要悪で、兄弟、従兄弟、伯父と甥とは、自分に最も近い存在であって、いつ、何が起きて財産も地位も名誉も根こそぎ奪われかねない
女の身である小式部には到底、受け入れがたい世界であると同時に、人生を翻弄される厳然とした現実でもあった。
こうした厳しい事実の中を生き、今日を築いている道長を敬う心が、小式部の胸にあった。
ふと、傍らに人の気配を感じ、陽の光を受けてきらめく琵琶湖から黒目がちな大きな瞳を転ずると、
「随分とご熱心に書き物をされて。何を学ばれていらっしゃるの?」
気品のある女性が、小式部を見つめ、立っていた。女性は、母の和泉式部と同年齢かそれよりも三、四歳年下の三十歳半ばから四十歳ぐらいに見えた。その背後には、女房と思われる女たちがかしずくように控えていることから、相当に身分のある者であることが容易に察せられる。
「……はい、摂関家の来歴を。母が仕えていたものですから。自分も少しは知っておかなければ、と思いまして……」
小式部が
「そう、ものを読み、書くことにご熱心になられ、おかあさまもきっとお喜びでしょう」
控えた女たちを連れ、小式部に気を利かせるようにして去っていった。小式部は、父の葬儀の日、わずかに言葉を交わした左京命婦とは全く異なる品位のあるたたずまいの女性は、誰であったかまるで思い出せずにいると、それまで境内の植栽を
「小一条の中の君さまですよ」
小式部の怪訝そうな瞳に答えた。小式部は、
「小一条の中の君さま?」
女性の名を聞いてもやはり解らずにいると、
「聞くところ、さる親王さまの妃に入られていたものの親王さまが
座主は小一条の中の君という女性の身上を話した。高貴なその人は、小式部の母を見知ったように話していたが、小式部はその人の名と