第一章 和泉式部の子5

文字数 2,646文字

 明け方まで、道長は土御門殿の南池にせり出して造らせた御堂に籠もり、考え込んでいた。三十歳前後から風病や痢病という風邪や胃腸病を患い、症状が落ち着くことがあっても、回復することはなかった。
 こうした道長を目の当たりにした阿闍利(あじゃり)頼秀(らいしゅう)は、道長の死期が近いことを藤原実資(ふじわらのさねすけ)に内々に語り、また心誉律師(しんよりっし)は、道長が死去する夢を見た、などと不吉な噂をささやいていることが、道長自身の耳にも届いている。
「……ふん、坊主どもめが……」
 道長は思わず吐き捨てるように呟いた。昨年の長和四年(一〇一五)の秋頃から三条天皇は、遠近の識別が判然とせぬほど視力が衰えていた。道長は、これを理由に今年の一月、彰子が生んだ九歳の敦成親王を後一条天皇として譲位させ、自らを内覧(ないらん)という位に就けた。内覧とは、関白に准ずる朝廷の重職で、奏上及び宣下の文書を内見することから転じて職名になっている。
 三条天皇は譲位の条件として、娍子(せいし)の間にもうけた第一皇子の敦明(あつあきら)親王の立太子を道長に承諾させている。
 道長が見るところ、三条天皇はもう長いことはなく、崩御すれば、敦明親王の立太子など取り消す腹づもりであった。皇后として入っていた次女の妍子(せいし)は、三条天皇が薨去したそのときは皇太后となる。
 立太子を取り消した敦明親王には、側室の明子との間に生まれた寛子を与え、准太上天皇の待遇を与えれば、周囲も納得するだろう。
 次に、彰子の第二皇子である敦良親王を東宮に立て、第一皇子の後一条天皇には、元服の後、三女の威子(いし)を女御として入内させ、いずれ中宮か皇后に冊立させる。
 このように長女の彰子が太皇太后、次女の妍子(せいし)が皇太后、三女の威子(いし)が皇后と、三后独占が道長の野望であった。
 あまりに遠大な計画であったが、既に半ば以上は達している。後もう一息……自らに鞭打つ思いで言い聞かせ、もう明け始めた外の空気でも吸おうと、道長は御堂から出、南池の縁に沿って歩いた。朝靄と野鳥のさえずりの中に、藤原北家の威信の象徴とも言える土御門殿の殿舎が壮観に建ち並んでいる。
 そのまま南池に架けられた平橋を使い、中島に渡った。幸い持病の胸痛は、今朝は起こらず、すうっと大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。早朝の空気には、味があることが改めて解る。
 このとき、何気なく対岸の馬場殿の西側に設けられた西廊に目を向けた。西廊に長い髪を朝風に美しく翻した女人が立っていることに気づいた。女人は、緋色(ひいろ)の袴をはき、(うちぎ)(かさ)ね着しているが、自分一人で着たらしく、今一つしっくりしていない。こんな時刻に一体、誰が……道長は女人に目を凝らした。

 小式部は、土御門殿の馬場殿で教通の胸に顔を埋め、いつしか眠ってしまった。ふと、目が覚め、教通が無邪気に傍らで寝息を立てている姿に微笑み、自分一人で女房装束を整えた。
 白み始めた外の空気でも吸おうと、馬場殿の西廊に小式部が出たそのとき、中島に立つ道長とばったりと目が合ったのだった。
 小式部は、教通との生々しい男女の逢瀬をそのまま見られたような思いに、かあっと頬を赤くし、自分の迂闊さに奥歯を噛み締め、逃げ隠れするように馬場殿に飛び込んだ。

 わずかに朝の陽光が差し始め、土御門殿の馬場殿の西廊に立った若い女人は、邸の主である自分と目が合いながら、会釈もせず、馬場殿に入って行った。無礼な奴め、一体、誰だ…–道長は、女房らしい者の些細な粗相などにいちいち腹など立てていられないが、やはり癇に障り、女人の人相を思い出していると、あっと声を上げ、息を呑んだ。
 土御門殿に出仕している女房たちの間で、三男の教通がここ数か月、夜ごとに女人を馬場殿に連れ込み、朝まで過ごしている、とささやかれていることを思い出したのだった。
 しかも、その女人というのが、一条大宮院の彰子の許へ出仕している和泉式部の娘の小式部らしい、という。教通が身分の低い、つまらぬ女と遊んでいるのでは、と心配に思い、教通に聞いてみなければと考えながらも日がたち、今朝、図らずも道長自身の目で確かめたのだった。
 和泉式部の娘なら、道長自身が請い、彰子に出仕させた経緯もあり、特に不足はない、いや、小式部を三男の側室につけられれば、摂関宗家の威信をますますもって内外に知らしめ、三后独占の野望へ向けて、いい弾みにも繋がるではないか……
 教通(あいつ)め……藤原公任の長女が既に嫁いでいる教通であったが、その後、側室を入れようとはしない。男として物足りなさを感じ、父として、氏長者として不安を抱いていたが、既に小式部を通わせていたのだった。
 このてのことには時間が必要だ、今は騒ぎ立てず、時期を待とう……道長はにやりと笑うと、何事もなかったかのように南庭へ渡り、寝殿に戻った。

 土御門殿の馬場殿を無断で使い、あまつさえ生臭い男女の秘め事を目の当たりにしながら、一言も咎めることなく、道長が去って行ったことを柱の陰から確かめると、小式部はようやくほっと溜息をついた。
 改めて西廊に出ると、朝陽が昇り始め、陽光が南池の水面をまるで金箔を粉状にして振り()いたように、黄金色に照らしていた。
 小式部はその壮麗な光景を見つめ、
「……光の浮き橋……」
 思わず呟いた。それは、紫式部が執筆した『源氏物語』の最終帖『夢浮橋(ゆめのうきはし)』に(なら)った小式部の造語で、朝夕の陽の光が、ほんのひととき河川や湖沼の水面を帯状に照らし出す他愛のない自然現象であったが、小式部には目を奪われる華麗な景観であった。
 すぐに光を失い、沈むように消えてしまう(はかな)い橋、実体はなく、渡ろうとするとずぶぬれになってしまう幻のような橋、そうであっても美しい橋、それは即ち、多くの言葉にならぬ夢や希望を胸に押し抱きながらも、殆どが叶わぬまま過ぎ去ってしまう、物悲しい人の生きる姿にも重なる。
 小式部個人に限って言えば、父の顔も知らぬまま育ち、何を書いても、言っても、全て母である和泉式部の功績とされてしまう、あげくがいくつになっても『母の付属物』として見られ、呼ばれている。
 そうした評価からは、母の大きさを感じるが、母は、道長からは浮かれ()とからかわれ、紫式部はけしからぬ人、と評したという。母は、一体どんな人であったのか、そんな母をもつ自分は何者なのか……もう、何年も心の中で問い続けているが、答えは得られない。
 この疑問が解決せぬうちは、教通との結婚云々は考えられない、しかし、結論は出さねばならない……小式部は、勇気をもって両親の今日までを知ろうと、心に誓った。
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