第三章 炎3

文字数 1,586文字

 梅雨も明け、例年どおり平安京は酷暑にあえぐ季節になった。
 土御門殿の造替工事が始まると、道長ら摂関宗家は一条大宮院から小二条院に移り、彰子付きの女房たちもようやくに落ち着きを取り戻した。
 小式部は壺装束と呼ばれる外出着に身なりを改めると、朝の早い時刻に東三条院へ足を運んだ。
 二条大路に面した北門の前をうろうろし、門番に怪しまれたが、小式部は帥宮(そちのみや)と呼ばれた敦道親王と母の間に生まれた父違いの弟である石蔵宮を唐突に訪ねる決心がつかなかった。まだ、幼い弟から自分は何を聞き出そうとしているのだろうか……自分の愚かさに溜息をつくと、不意に北門から二条大路にころころと蹴鞠(けまり)が転がり出てきた。
 小式部が蹴鞠を手に取ると、思いもかけず、十一歳になった石蔵宮が、乳母らしい女たち数名に付き添われ、元気に走ってきた。
 小式部は市目笠(いちめがさ)の縁に巡らせて垂らせた藁垂絹(むしのたれぎぬ)と呼ばれる薄い麻布を払いのけるようにして顔を出すと、拾い上げた蹴鞠を石蔵宮に手渡し、
「蹴鞠のお稽古?」
 にこりと微笑みかけた。石蔵宮は唐突に東三条院を訪ねてきた小式部に驚き、
「姉さま、どうされたのです?」
 思わず尋ねたとき、門番が小式部にうさん臭そうな目を向けていることに気づき、
「よい、わたしの姉だ」
 十一歳とは思えぬ敦道親王譲りの威厳をもって門番を制した。和泉式部に連れられ、小式部が東三条院に住まいしていたときから見知っている乳母の一人が、石蔵宮に代わり、
「まあ、小式部さま。一条大宮院は落ち着きましたの? 立ち話も何ですから、どうぞ、お入り下さい」
 小式部を請じ入れた。

 石蔵宮は陽が高くなり、暑くなる前のほんのひととき、北対と東北対が作った日陰で蹴鞠の稽古を続けているのだと、乳母の一人が小式部に話してくれた。
 小式部は、それならば弟の稽古相手になりましょう、と言い、次第に狭くなっていく日陰で弟ともに蹴鞠を楽しんだが、すぐに炎天下になり、打ち切りとなってしまった。
 小式部は使い込んだ蹴鞠を手にし、真新しい殿舎へ引き揚げようとする石蔵宮にさりげなく、
「ねえ、おかあさまは丹後に発つ前に、何か言っていなかった?」
 ようやくに幼い弟に用件を切り出した。石蔵宮はきょとんとして、
「ううん。ただ、おとうさまを早くに亡くされ、おかあさまも平安京を出ることになって、寂しいでしょうが、乳母や女房たちの言うことをよく聞き、よい子でいて下さいって、お話しされたよ」
 無邪気に答えた。小式部は食い下がる思いで、
「わたしのことは、何か言っていなかった?」
 妙にこだわる父違いの姉を訝りつつ、石蔵宮は記憶をたぐり寄せながら、
「ううん、別に、何も」
 頭を左右に振った。小式部は途方に暮れる思いであったが、幼い弟に不安をかけまいと、努めて微笑んだ。
 教通との将来を考えるために、母の足跡を知ろうと石山寺に参籠し、そこで見た悲しみに(ふさ)ぎ、娘に許しを乞う夢とも生き霊ともつかぬ母の心中はまたもつかめなかったのだった。
 それほど切羽詰まったことならば、丹後にいる母に文の一通も(したた)めればそれで済む話であったが、教通との結婚に悩んでいる、解決の糸口を得ようと石山寺に参籠した、などと書けば、母は必要以上に不安を抱えるであろう。また、返信に書かれるであろう父母の足跡の陰に隠された真実を知ることが恐ろしかった。
 そこで、間接的で、なお自分で制御が利く方法で、今の自分が抱えた心の行き詰まりを解決したかったのだが、所詮、誰に何を聞こうが、父母の心の奥底にあったものなど知るよすがなどあり得ようはずがなかった。
 とどのつまりが履き物の底から足の裏をかくようなもので、(まと)を得た結果は得られないのだった。
 東三条院の邸内を北から南へせせらぎとなって、目を射るような白銀の小波を湛えて流れる()(みず)はまぶしく、小式部は見つめていることができず、思わず目をそらせた。
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