第一章 和泉式部の子1

文字数 1,308文字

 建ち並ぶ摂関家累代の邸宅からは、満開に花開いた桜の枝が二条大路まで覆い、平安京を行き交う多くの人の目を楽しませている。
 小式部(こしきぶ)半蔀車(はんしとみのくるま)の半蔀にした物見窓から堀川院、閑院、東三条院からまるで競い合うように桜が枝を広げ、風に揺れては、大路に音もなく薄桃色の花びらを振りまく幽玄な光景に、暫時、目を奪われていた。
「小式部」
 不意に、牛車に同乗した叔母が、十九歳の小式部を呼んだ。
 小式部は叔母の声に気づかぬ振りをして、二条大路へと舞い散る桜の美しい景色に見入っていると、叔母は溜息混じりに、
小優香(さやか)
 小式部の本名を呼んだ。
 小式部はようやく母の和泉式部譲りで、形のよい卵形の顔を車箱の中へ戻すと、賢そうな黒く大きい瞳を叔母に向け、
「はい、叔母さま」
 再婚し、丹後へ下っている母の代わりとなってくれている人の声に応えた。和泉式部とよく似た面差しの叔母は、
「はい、ではありませんよ。そのように牛車の物見窓から顔を出し、桜に見とれ、ぽかんと口を開いていたら、まるで()れ者のよう。いつ、どこから、誰が見ているのか解らないのだから、きちんとしていなさい」
 窘めるように言った。小式部は楽しそうに笑い、
「はい、はい」
 車箱の中で居住まいを正した。
 長和五年(一〇一六)四月。小式部は、和泉式部とともに中宮時代からの彰子(しようし)の許へ宮仕えして既に七年が過ぎていたが、和泉式部は藤原保昌と再婚し、任国の丹後へ下っている。今日は、小式部はすっかり溜まってしまった自邸の家事を片付けるための七日ほどの里下がりを終え、何か思うところがあるのか、上下の賀茂神社に参りたい、という叔母と牛車を同乗し、一条大宮院の東対(ひがしのたい)を里内裏として用いている彰子の女房として出仕する途中であった。
 不意に、それまでのんびりと進んでいた牛車が停まった。小式部は再び半蔀の物見窓から牛を引く初老の牛飼いに、
「どうしたの?」
 声をかけると、牛飼いは物見窓まで駆け寄り、申し訳なさそうに、
「姫さま、前を行く牛車の従者たちが、大路一杯に広がり、のんびりと桜を見上げちまって……」
 状況を知らせた。小式部は進行方向へ目を遣ると、なるほど、真新しい檳榔廂車(びろうひさしのくるま)の周囲をあきれるほどの数の従者が取り囲み、往来の迷惑も顧みずに立ち止まり、三棟の大邸宅から大路に張り出した桜並木をのんびりと眺めている。
「まあ、何と迷惑な─主は一体、誰でしょう?」
 小式部の傍らから叔母も顔を出し、大路をふさいだ一行に眉をひそめた。小式部は、
「こんな見せつけがましいことをする者など、知れています」
 檳榔廂車(びろうひさしのくるま)檳榔毛車(びろうげのくるま)の一種で、車箱の前後と物見窓の上とに廂または半蔀廂を設けたもので、乗用できるのは上皇、摂関、大臣であったから、すぐに主の見当がついた。
「一条大宮院まではもう間もなくですし、ここからは歩いていきます。叔母さまは賀茂神社にゆっくりと参拝なさってきて下さい」
 小式部は市女笠をかぶり、牛車を降りると、歩き始めた。大路をふさいだ男たちの間をすり抜けて檳榔廂車(びろうひさしのくるま)の脇をとおると、車箱の中から耳障りな男の甲高い笑い声が、筒抜けに聞こえてきた。案の定、藤原定頼が乗っているようだった。
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