終章 父母が託したもの4

文字数 2,038文字

 興福寺と東大寺を訪ねるに当たり、自分なりに学び、懸命に知識を得ようとした、その努力を小式部に馬鹿、と罵られ、教通の目に涙が浮かんだ。同時に、小式部の聡明さに惹かれ、憧れ、人生を共にしたいとまで思った自分の人格までも無慈悲に蹴散らされたような絶望感に打ちのめされた。
 教通は、小式部をにらみ返すと、
「こんな……こんな女だとは思ってもいなかった……ひどい、ひど過ぎる!」
 絞り出すような声で言い、涙がしたたり落ちる顔を振り切る思いで逸らせると、小式部の邸を逃げるように去っていった。
 小式部は遠ざかっていく教通の後ろ姿を見つめ、権勢の絶頂を誇る藤原摂関家の一員になる夢も、主として仕える彰子の義妹になる喜びも、自ら一瞬にして打ち壊したことを思い知った。
 小式部の頬に涙が伝わり落ちた。自分で孤独のどん底に飛び込んでいながら、泣き始めたことが滑稽で、嘲笑(あざわら)った。泣いては(わら)い、嗤っては泣いた。
「……小優香(さやか)……」
 叔母の声が自分を呼び、小式部は頬を涙で濡らした顔を慌てて(うちぎ)の袖で拭いたが、拭いても拭いても涙が目にあふれた。
「どうしたの? 大きな声を出して。若君は……?」
 母とよく似た面差しの叔母が、ひどく思い詰めた様子で、小式部のすぐ傍らに立ち、のぞき込むように見つめていた。教通を感情にまかせて怒鳴り散らした小式部の声が、邸中に聞こえたのであろう。小式部は、事情を話さぬわけにもいかず、
「……解らない、解らないの……おとうさまとおかあさまのことを考えると、教通さまと結婚だなんて……不安で、怖くて、だから、桜のころから、ずっと、おとうさまとおかあさまが本当は何を考えていたのか、自分だけで調べようとしたけど、結局は何も……」
 半年間、考え続けていたことを吐き出す思いで言った。叔母は、
「小優香、あなたがそれほどまでに苦しんでいたなんて、知らなかった。おねえさまからは何も知らせないように念を押されていたけれど、やはり、話すことにします」
 ぽつりと呟くように言ったが、瞳だけには何事かを思い定めた強さがあった。
 ふと、微かな風が吹き込み、母が書き留めた料紙の束をめくり、過去、母が叔母に何事かを打ち明けたと思われる歌が、小式部の足許に現れた。

  人しれずおもふ事あるを、はらからにかくなむいふとて

 いはつつじいはねばうとしかけていへば もの思ひまさる物をこそ思へ

 叔母が、一体、何を知っていて、何を話し出すのか、恐ろしい思いがしたが、もはや聞かないわけにはいかなかった……教通をたたき出した小式部の心が、すっと冷静を取り戻したとき、桜が舞い散るころ、小式部が七日ほど里下がりをして邸の雑事を片づけた後、元通り一条大宮院へ出仕しようとした日、叔母は上下の賀茂神社に参拝したいからと、小式部と牛車に同乗して出かけたことが思い返された。
 叔母の決然としたまなざしに、小式部が気を呑まれていると、叔母は、
「村上天皇の多くの皇子の中から、憲平親王(のりひらしんのう)守平親王(もりひらしんのう)が、それぞれ冷泉天皇、円融天皇としてお上に即位された後、冷泉系と円融系がかわるがわる天皇に就かれたということは知っていますね?」
 ゆっくりと話し始めた。小式部は石山寺で調べたことを思い出した。冷泉天皇の次が円融天皇、次は冷泉系に戻って花山、次は円融系の一条、それから冷泉系の三条天皇と続いた。こうした流れは、偶然ではなく、人為的に天皇の系譜を操作している。
 これは、藤原北家が摂関家として権勢を振るったとはいえ、天皇家の血筋や威光といったものを重んじたことに他ならない。小式部がうなずくと、叔母は話を続けた。
「その間、摂関家では、兼家さまと御堂殿(道長)が、円融系の特に一条天皇の外戚としての基礎を築かれました」
 兼家が子の道兼らと(はか)り、花山天皇を山科の元慶寺で出家させ、懐仁親王を一条天皇として七歳で即位させた後、摂政、関白となった。次いで、道長が長女の彰子を一条天皇の許へ入内させ、女御をへて中宮とし、これを要として現在の地位を確固としたものにしたのだった。叔母は話を続けた。
「一条天皇の後の三条天皇までは、冷泉系と円融系が交互に天皇に即位する、という慣習が守られていましたが、三条天皇は眼病を理由に御堂殿(道長)に譲位を迫られ、中宮彰子さまがお生みになられた敦成親王が後一条天皇として帝位に就かれ、三条天皇の第一皇子の敦明親王が東宮となられています」
「でも、我が家では、冷泉天皇の后であった昌子内親王に仕え、その縁でおとうさまとおかあさまは出会い、結婚されたのですね。でも、おとうさまは御堂殿(道長)の家司のような働きを繰り返し、これがおかあさまには受け入れられず、為尊親王に心のよりどころを求め、結果、おとうさまと離婚されたのでしょう?」
 小式部が自分なりに石山寺で調べたことを叔母に確かめると、叔母は首を左右に振り、
「そこが違うの。おねえさまはお義兄(にい)さまの処世が認められなかったのではありません」
 思いもかけないことを言った。
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