第二章 母の足跡5

文字数 4,376文字

  小式部は、参籠四日目からは父母の来歴を調べ始めた。
 母方の祖父大江雅致は、昌子内親王の大進であり、祖母の平保衡女は内親王の乳母であったことから、母の和泉式部も御許丸(おもとまる)という幼名をもって、幼いときから宮仕えをしていたようであった。父の橘道貞は内親王の権大進であり、この縁から両親が出会ったことは、以前にも調べた。
 父は、天平時代から続く賜姓氏族だったが、今や中級以下の貴族であった。
 両親が出会い、結婚した当時の世相は、円融天皇の時代で、藤原頼忠の女・遵子(じゅんし)と藤原兼家の女・詮子(せんし)がともに入内し、遵子が立后している。これより先、兼家の女・詮子の姉・超子(ちょうし)が冷泉女御となっており、昌子内親王と寵愛を争っていた。
 超子は天元五年(九八二)正月二十八日に崩御したが、その皇子に為尊(ためたか)敦道(あつみち)という二人の幼い親王が遺され、昌子内親王はこの六歳と二歳の遺児を養育していかなければならなかった。
 小式部が生まれたのが長徳三年(九九七)であり、父が和泉守に任じられていたのが長保元年(九九九)から同四年であるから、母の和泉式部と父の橘道貞の結婚は、長徳元年ぐらいで、両親がともに昌子内親王への宮仕え中だったのだろう。
 長保元年九月から十二月にかけて、昌子内親王の病は深刻となり、占いの結果、他所に移ることとなり、祖父の雅致宅が選ばれた。下臈の宅であったが、太皇太后の御領としたようだった。この宅は、父の道貞が祖父に貸していたものらしい。
 この年の十一月七日、一条天皇に第一皇子の敦康親王が誕生し、同じ日に道長の長女である彰子が、一条天皇女御となっている。道隆の中関白家は没落期にあった。
 昌子内親王は、さまざまな御修法の甲斐もなく、長保元年十二月一日、和泉守で権大進であった父の三条宅で崩御したのだった。
 このとき、小式部ははっとして自分が抜き書きしたものを読み返した。
 村上天皇の後、その皇子である冷泉、円融天皇が即位し、その後、冷泉天皇の皇子の花山天皇、円融天皇の皇子の三条天皇が帝位に就き、それから一条天皇の皇子の後一条天皇へと継承権がまるで以前から約束してあったように戻っている。
 加えて、現在は、東宮とも皇太子とも呼ばれる皇位を継承すべき皇子に、三条天皇の第一皇子である敦明(あつあきら)親王が立太子している。敦明親王の立太子は、三条天皇が譲位の条件として道長に提示したもので、将来的に、後一条天皇が譲位する際には、敦明親王が次期天皇となり、帝位は円融天皇の流れに戻るのだろう。
 小式部は目を戻し、父母の来歴を追った。両親の不仲は、父が和泉守として任国に下っていたときに生じたらしく、その理由の一つとして、弾正宮(だんじょうのみや)と呼ばれていた為尊親王が母の許へ足繁く通い始めたことにあるようだった。
 これが祖父の知るところとなり、祖父は母を勘当している。母は、

   正月七日、おやの勘事なりしほどに、若菜やるとて

 こまごまにおふとは聞けどなき名をば いづらはけふも人のつみける

 と、祖父の勘当は無実の罪であると言い、祖父は、

 なき名ぞといふも人もなく君が身に おひのみつむと聞くぞくるしき

 と、道貞の赴任中に不貞の事件を引き起こし、それが単なる疑惑や噂ではなく、事実と言わざるを得ない、と弾劾している。
 このころの母は、歌人として貴族たちから注目され、性空上人を歌ったものに、

 くらきよりくらき道にと入りにけり はるかにてらせ山の端の月

 は、著名で為尊親王を通わせたのは、母を歌人として尊敬する思いからで、単なる色好みとは異なる印象を小式部は受けた。
 父母が別れたもう一つの理由は、道貞が次第に道長の圏内に取り入れられ、父がそれを出世の糸口にしているかのように、母には感じられたのだろう。
 小式部は鳥辺野で父の葬儀に参列した日、道長の嫡男の賴通と三男の教通から聞いた話を思い出した。
 賴通が春日祭使に立ったとき、道貞が諸事の世話をしたり、賴通が病の療養のために道貞が邸を提供している。
 母は、幼いときから冷泉天皇の庇護の許で育ち、その后である昌子内親王に仕え、この縁で父と出会い、結婚しているにも関わらず、円融天皇や一条天皇の外戚になることに懸命になっている道長に父が従っていくことは時代の必然であったにしても、母には認めがたかったのだろう。
 父は、道長から格別の餞別を受け、寛弘元年に陸奥守として妾子を伴って下向しているが、この妾子とは、父の葬儀のときに声をかけられた左京命婦とその娘であった。どこか小式部を見下した義理の妹の態度を思い出すと、小式部はむっと不機嫌になる。
 為尊親王は、周囲の制止も顧みず、夜遊びが過ぎ、流行病にかかり、母とは二年も交際せぬまま薨じている。
 兄宮の夭折から一年もたたぬうち、実弟で帥宮(そちのみや)と呼ばれた敦道親王が、母の許へ通い始め、八か月余りも過ぎたころ、母と小式部を東三条院に迎え入れた。小式部が六歳のときであった。
 東三条院は、平安左京三条三坊一、二町をしめる広大な大邸宅で、藤原良房により創建され、累代の摂関家嫡流に伝領されている。無論、道長も道隆から相続していたが、なぜか道長はこれほどの大邸宅を用いず、土御門殿を常用している。
 長保五年(一〇〇三)十二月、母と小式部が東三条院に迎えられたことにより、藤原済時(ふじわらのなりとき)の娘である敦道親王妃は、小一条の里へ帰ってしまっている。
 敦道親王は妃に対し、和泉式部は東三条院においては仕女、召人と言い訳をしていたし、小式部はその連れ子として、白い目を向けられて、肩身の狭い思いをした記憶が微かに残っている。
 小式部の脳裏に、当時の自分と母の姿が鮮やかによみがえり、それが、父とともに陸奥国へ下った左京命婦とその娘の姿に重なり、黒目がちの大きな瞳が複雑に小波(さざなみ)だった。
 敦道親王は、翌年の春(寛弘元年)、母を連れ、白河の左衛門督藤原公任の家へ桜見物に行っている。
 小式部も連れて行かれたはずであるが、周囲の大人たちの説明は曖昧で、何とかいう偉い方のお邸へ、牛車を連ね、母に手を引かれてお花見に行くのだ、という程度の話しか聞かされなかった。こうして改めて史料に触れると、理解が深まるものであった。
 その翌年、敦道親王は、賀茂祭還立の行列を兄の花山院とともに、わざとらしいほど華やかに着飾らせた母と小式部を連れて行き、牛車に同乗させて見物し、衆目は祭そっちのけで敦道親王と和泉式部を見物した、という。 小式部は思わず吹き出しそうになった。こうしたきらびやかな生活も長続きはせず、敦道親王は寛弘四年(一〇〇三)十月二日薨去し、和泉式部と小式部は宮家を去ったのだった。
 それから一年余り後、中宮・彰子が敦成親王を出産し、引き続き、敦良親王を身ごもったころ、道長は中宮付きの女房の拡充を計画し、歌人として名声の高い和泉式部と十二歳になり裳着(もぎ)と呼ばれる成人式を済ませた小式部に出仕を懇望した。和泉式部と小式部は、母子が邸に引きこもり、無情を嘆き、無為に暮らすよりは、と新しい環境に身を置くことを決めたのだった。
 彰子の御所は、一条大宮院の東対で、母子ともに仕えているうちに、道長の仲立ちで、母は藤原保昌と出会い、再嫁し、任国の丹後へ下ったが、小式部は都に残り、太皇太后となった彰子に仕え、今日に至っている。

         ○

 ふと、庇を区切った屏風のところに人の気配がし、小式部は、先日、琵琶湖が臨める境内の片隅で声をかけられらた女性が訪ねてきたのかと、目を向けると、母の和泉式部が一人きりでぽつんと佇んでいた。
 いつの間に丹後から戻ったのかと、小式部は怪訝な思いで、
「おかあさま、いつ平安京へ戻ったの? 帰ってくるのなら、知らせてくれればいいのに……」
 母に語りかけると、和泉式部は悲しそうに目を伏せ、
「小優香、ごめんね……ごめんね……」
 床にぽたりぽたりと涙を滴らせ、娘に詫びると、逃げるように走り去っていった。小式部は驚き、
「待って! どうしたの、何があったというの! おかあさま、ちゃんと話をして!」
 母の後を追おうとしたそのとき、小式部ははっと目が覚め、母が不意に帰京したと思ったのは、夢であったことを知った。
 夢、今のが夢?……小式部はあまりの生々しさに、しばし、茫然とし、辺りを確かめてもやはり自分しかいない。
 いつしか明け方が近づいているのか、障子の外が明るくなっている。母の足跡を夢中で調べているうちに、眠り込んでしまったようであった。
 屏風で仕切られた石山寺の庇の中は、参籠中の七日七晩、借り切っているとはいえ、取り散らかしたままで、女として恥ずかしく、小式部は片付けているうちに写本の一冊をばさりと音を上げて床に落としてしまった。
 小式部は(かが)み、床に落ち、開いた『大鏡』の写本を拾おうと、手を伸ばしたそのとき、あっと声を上げた。開かれた紙面には、敦道親王の身上が語られているのだった。

 冷泉天皇第四皇子、母女御藤原超子、

 外祖父・藤原兼家の邸宅である東三条院で育てられた旨、記されており、この後に正暦四年(九九二)二月、東三条院で元服と同時に藤原道隆の三女と結婚し、妃はこの他に小一条殿と呼ばれた藤原済時(ふじわらのなりとき)の二女があった、
 二日前、鏡面のような琵琶湖が臨める境内の一角で、小式部に声をかけた気品に富んだ女性は、小一条の中の君、と呼ばれており、母と小式部が東三条院に入ったとき、里へ帰ってしまった敦道妃とは、この女性に他ならなかった。
 小一条の中の君にしてみれば、十三年も過去の話とはいえ、和泉式部は夫を奪った憎い(かたき)であった。その連れ子であった自分とばったりと再会し、恨み言の一つや二つを言われても仕方のない立場であるにも関わらず、小一条の中の君は小式部に対し、母に習い、書を読み書きする習慣を身につけていることは、よいこと、と()めたのだった。
 人は生きていく上で、無意識のうちに多くの人から影響を受けているが、自分自身もいつの間にか多くの人に影響を与えている。他者との関わり合いがあって、良きにつけ、悪しきにつけ、人生は形成されていくが、その関わり合いをよりよいものとしていくことで、人生は良質なものとなる。一見、当然のことのようであるが、なかなかに実践できないことを小一条の中の君は、小式部の目の前で平然とやってのけたのだった。
 ふと、本堂の外が騒がしくなり、小式部は境内に出てみると、小一条の中の君が参籠を終え、従者たちに付き添われながら牛車に乗り込もうとしていた。
 小式部は牛車の中の人に何かを言おうとしたが、言うべき言葉が何も見つからず、ただ無言で一行を見送った。
 去って行く小一条の中の君を乗せた牛車に重なり、夢の中で幼女のようにぽろぽろと涙を流していた母の姿が、小式部の目には、はっきりと見えていた。
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