第三章 炎5

文字数 1,706文字

 小式部は、教通との逢瀬の最中に公任女に怒鳴り込まれたとき、一条大宮院への出仕停止あるいは解雇を言い出され、三条の自宅に戻ると、今後の身の振り方を考えていた。
 もしも、太皇太后付きの女房を解雇になれば、しばらくは摂関家嫡流の若君をたぶらかした女として後ろ指を指され、とても平安京内に住んではいられなくなるだろう、そのときは、今の生活を捨て、母がいる丹後にでも下ろう……
 教通と結婚し、当たり障りなくやって行ければ、摂関宗家の一員として、天皇の外戚として、見た目は輝くばかりの将来が待っているものの、自分が探し求めていた心の整理や区切りといったもの、人の親になることとはどういったことか、まるで理解できないうちに環境に流されていくことになる。
 男女の恋愛とは両刃の剣も同然で、うまくいっても失敗しても、何かを犠牲にしなければならない。
 堂々巡りの考えを繰り返しているうちに小式部は、小二条院に呼び出され、虎か熊の穴にでも入っていく思いで寝殿に進み、道長と対座した。
 とっさに道長の傍らに目を遣ると、倫子、賴通、教通と宗家が揃い、嫡流に恥をかかせた女として小式部に白い目を向けられるかと思えば、誰の表情も朗らかで、かえって戸惑いを覚えた。
 小式部は床に指先をつき、
「先般は、わたしの至らなさから若君とそのお方さまにまでご不快をおかけし、お詫びの言葉もございません、この上は……」
 言いかけると、道長は小式部の言葉を遮り、
「小式部。お前の父・橘道貞には、家族がそれは世話になっていたのだよ。わたし自身も道貞には亡くなられた今も大変、感謝している。だから、小式部のことは、実の娘のように思っているのだよ」
 小式部の亡父のことを話題にし始めた。小式部は、道長自身が道貞の葬儀に参列できなかったことを悔いているのかと思っていると、道長は倫子を振り返り、
「それ、倫子、見てみい。小式部と教通、並べて見ると、なかなかに似合いの若夫婦であろう。お前だって、いたことさえつい先日まで知らなかったような内親王をこれ以上、嫁に迎え、あれこれと気を揉むよりは、彰子によく仕えてくれていた和泉式部の娘ならば、何も案ずることはあるまいに」
 今度は母・和泉式部を賛美し始め、小式部が教通に嫁ぐことが、もはや既成事実であるかのような話し方をした。
 賴通も教通も父母の傍らで慶事を迎えたかのように、にこにこと微笑んでいる。
 やられた……家族ぐるみで教通との結婚を小式部に督促しているのだった。権勢の絶頂を誇る摂関宗家にここまで言われ、迎えられれば、自分も大切にされるだろう……小式部は、もはや教通の求婚を承諾する他はなく、
「母には到底、及ばぬふつつか者にございますが、どうか、今後とも慈しんでいただけますよう、よろしくお願い申し上げます」
 自分は、一体、何を言っているのか……まるで下手くそな恋愛物語の台詞を棒読みしている自分の姿を、もう一人の自分がすぐ傍らで悲しく見つめているような、不気味な光景を想像し、逃げ出したい衝動に駆られながらも、小式部は必死に平静を装っていた。

 その後、わざわざ車で送られ、一条大宮院に出仕すると、小式部はすぐに東対へ呼ばれた。
 小式部は、東対で彰子から小二条院へ呼び出された道長の用件を聞かれるのかと思い、受け答えを頭の中でまとめていると、彰子の方から、
「教通をよろしくお願いします」
 深々と頭を下げられた。周囲に控えた太皇太后付きの女房たちからの複雑な視線が背中に向けられていることを、痛いほど感じられながらも、小式部は、
「受領の娘の身でありながら、この度は摂関宗家の一員に迎えられ、感謝の言葉もございません。今後ともますます太皇太后さまにお仕えさせていただきたく、お願いいたします」
 嫁となる者の挨拶をした。彰子は微笑み、大きくうなずいたが、心に何の整理も区切りもつけられぬまま、急かされ、なし崩しに教通と結婚させられてしまう我が身は、丁度一か月前、土御門殿を焼き払った炎が、今度は我が身を圧倒的な力で呑み込もうとしているかのように思われ、現実の前になすすべもなく、小式部は、ただ、床にへたり込むより他なかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み