終章 父母が託したもの1

文字数 2,446文字

 吹き渡る風の中に、ようやく秋めいた涼しさが含まれ始めた。
 長和五年(一〇一六)十月、小式部は教通に連れられ、道長の別業(別荘)の一つである洛南の宇治殿に一泊し、奈良街道の奈良坂を下っていた。
 宇治殿は、左大臣源融の別邸であったものを、陽成、宇多両天皇に伝えられ、更に朱雀上皇から左大臣源重信に渡った後、重信が長徳元年(九九五)に薨じたので、その未亡人が長徳四年(九九八)十月頃に道長へ売却したものであった。
 道長は土御門殿も重信から譲渡されているが、これは、道長の正室の倫子が、重信の兄雅信の女という関係からであった。
 みずみずしい緑に覆われた若草山に抱かれるようにして拡がる東大寺の伽藍が、樹間に見えてくると、目的地につけた安心感よりも、平城京見物などを言い出す教通の心中がはかりきれず、小式部は溜息をついた。
 教通の求婚を道長の口八丁で承諾させられた小式部は、権勢の絶頂を誇る藤原北家嫡流の一員も同然の身であったが、内外に知らせる式の挙行は遅れていた。
 その理由として、道長が平安京の内外に多くの邸宅を構えていたが、その一つである土御門殿が七月二十日に類焼し、これに続き、九月二十三日に枇杷殿も放火で全焼したためで、再建計画は見直しに次ぐ見直しで、三男のしかも側室との結婚式など、後回しにされ続けているのだった。小式部はたまりかねたように、
「お住まいの方はよろしいのですか?」
 不自由な小二条院に仮住まいを続ける家族を尻目に、自分を連れてのんびりと平城京見物などと言い出した教通に確かめると、
「土御門殿は手斧始(ちょうなはじめ)めも無事に終わり、工事も順調です。枇杷殿(びわどの)は使う機会も少ないことから、造替は先送りする決定がなされました」
 教通は、こともなげに答えた。小式部はじれったい思いで、
「そうではなくて、いいものなのでしょうか、家族が大変なこうした時期に、わたしたちだけ、のんびりと平城京を物見遊山など……」
 後方をつかず離れず遠巻きについてくる数名の従者たちも、普段の仕事もあり、さぞ迷惑に思っているであろうことにも気配りをして言ったものの、教通はますますけろりとして、
「焼け跡を眺めて、家族一同でめそめそしていても仕方がありません。それよりも藤原家累代の氏寺である興福寺と国家鎮護の象徴と(うた)われる東大寺をともに参拝してもいい、と言ってくれた小優香(さやか)が、わたしは嬉しい」
 小式部が興福寺と東大寺に参りたい、と思ったのは、教通との結婚について心の整理を求めたもので、それを婚前旅行としか考えられない教通は、女の心の機微を察せられない気の利かない男で、今一つ頼りがいがない。
 教通はふと立ち止まり、小式部を抱き寄せ、唇を重ねようとしたが、
「嫌です、こんな路傍で、しかも従者が多くいる前で……」
 顔を背け、拒んだ。

 南三条大路に面した南大門から興福寺の境内へ入ると、堂塔伽藍がびっしりと建ち並ぶ寺観に圧倒され、小式部は案内を教通に頼るしかなかった。
 興福寺は、和銅三年(七一〇)、平城の地に都の造営が定められると同時に、右大臣藤原不比等(さだいじんふじわらのふひと)が一族の繁栄を願い、大寺の造営を発願したことに始まったとされている。
 しかし、遡る天智天皇八年(六六九)に大化改新に大功のあった家祖藤原鎌足(かそふじわらのかまたり)の妻であった鏡女王(かがみのひめみこ)が、山背国宇治郡山階(やましろのくにうじぐんやましな)に精舎を建立し、鎌足がかつて蘇我入鹿誅伐を祈願して造立した釈迦丈六像及び脇侍菩薩像、四天王像を安置し、山階寺と称し、後に飛鳥の地に移され、厩坂寺(うまやざかでら)となり、更に平城遷都によって再度、移建され、興福寺と改められ、発展したと考えられている。
 寺域は、平城京の外京左京三条七坊の方四町をしめ、その中心部は、中金堂院あるいは中仏殿院と称し、南北の中軸線上に南から南三条大路に接した南大門、中門、金堂、講堂と建ち並び、中門からの回廊が金堂両脇に繋がっている。
 講堂の三方を囲むようにして東室(ひがしむろ)西室(にしむろ)北室(きたむろ)の三面僧坊が配されている。これら寺院の中核をなす建造物は、不比等が薨じた養老四年(七二〇)以前に完成したと見られている。
 養老五年(七二一)には中金堂、北円堂が建立されていたが、この前年には国営の『造興福寺仏殿司』が設置され、藤原氏の氏寺とした興福寺が実質上、国営の官寺と同じ扱いを受けている。
 以来、南円堂建立までの百年間、興福寺は藤原摂関家の興隆とともに大和を始め、諸国に広大な荘園を得て、経済的な基盤を固め、寺域も拡げられ、発展の一途をたどっているのだった。
 教通は広い境内を歩きながら、興福寺の寺歴を滔々(とうとう)と語り、金堂の東南にある回廊と築地で囲まれた西面に二門を開き、独立した一郭を形成した寺地へ小式部を連れて行った。
「東金堂と五重塔が並ぶこの地は、東仏殿院と呼ばれています」
 教通が言った。普段から堂内を拝観できるのか、教通が前もって手配しておいたのか、小式部には解らなかったが、東金堂は開け放たれ、冴えた秋陽に照らされ、本尊の薬師三尊像がはっきりと拝せる。小式部は目を閉じ、しばし合掌した。
 ……教通さまと結婚して、それでいいものでしょうか? 父母の足跡を考えると、とても不安になるのです、どうか、自分の今の心の行き詰まりから救って下さい……
 御仏に訴え、小式部は目を開けると、合掌を解いた。教通は再び口を開いた。
「東金堂は、神亀三年(七二六)七月、聖武天皇が叔母の元正太正天皇の除病延命を祈願して建立し、五重塔は、光明皇后の御願によって建てられました。こうしたことから東仏殿院は、夫婦和合を意味していると言われています。わたしは、あなたとなら上手くやっていけると思う……」
 小式部を東金堂院に連れてきた真意を語ると、小式部は何も答えず、五重塔内初層に安置された東方薬師、南方釈迦、西方阿弥陀、北方弥勒のいわゆる四方四仏の他に主な仏像だけで、八十三体にも及ぶ精緻を極めた浄土変群像を見渡しながら、よかれと思って結婚したのであろうにもかからず、早くに別れてしまった父母の姿を自分自身に重ね合わせた。
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