第8話

文字数 2,475文字

浦苫太郎が新宿に住み着いてもう二十年になる。今、跨っている自転車も勤続二十年。ホームレスになりたての頃、新宿中央公園の先輩住人からタダ同然で譲り受けた愛車はこまめにメンテナンスが施され、まだ現役を退く気配はない。
 午前六時。交通量がまばらな靖国通りを今日も汗だくで自転車を漕ぐ。荷台に積まれた大量のアルミ缶入りのポリ袋。両脇にも大きな袋がまるで天秤のように均等にぶら下がっており、ペダルの回転と共にカンカンと騒々しい音を鳴らす。
 明治通りと交差した新宿五丁目の交差点を通り抜け、花園神社の前でブレーキをかけると大きく深呼吸して自転車をとめた。鳥居の先に左右鎮座する唐獅子像がいつもと変わらぬ鋭い目で出迎える。昨晩降った雨でまだ濡れている石畳を底の破れかけたスニーカーで時折滑りそうになりながら歩く。手水舎で両手と口を清め、首にかけたボロボロのタオルで拭うと正面の神楽殿をじっと眺める。天気がいい日は屋根の最頂部が光に反射して金色に輝いているのだが曇り空の下では何とも鈍い。
 石段を上って拝殿の前で手を合わせる。「今日も生きられてありがとうございます」、感謝の気持ちを口に出して深々と頭を下げる。この一連の流れも十数年来欠かさず続けている日課だ。唯一途中で変わったことは賽銭を入れなくなったことだろう。
 軽く背伸びをしながら視線を社務所に投げると、地べたに蹲る人影を見つけた。全身が泥まみれで横たわっていたのは玲雄であった。絵梨を逃がした後、阿州とその配下にゴールデン街の裏通りまで連行され報復として完膚なきまでに叩きのめされた。顔は青く腫れあがり、鼻と口から出血した痕が残っている。苫太郎はポケットに忍ばせていたワンカップ酒でタオルを湿らせると玲雄の傷口を消毒した。アルコールが染みた玲雄が唸り声をあげる。
「おい、大丈夫か?」
 朦朧とした意識の中で玲雄は頷いた。しかし全身に痺れが走って動けない。ふと、ズボンのポケットに手をあてる。財布がないことに気がつく。昨晩、阿州達に取られたか、いざこざの最中で落としたか。何も覚えてはいないが、思い出したところで戻ってくる訳でもないと諦めた。
「病院行くか? 誰かに連絡するか?」
 問いかけてみるが金もなく身寄りもない玲雄は何度も首を横に振った。
 苫太郎は玲雄を背負い、ふらつく足取りでゆっくりと階段を下って自転車まで戻ると荷台に積んでいた空き缶の袋を唐獅子像の脇に置き、玲雄に乗るよう促した。最初は躊躇した玲雄だったが有無を言わさない熱量に負け、素直に従った。苫太郎はサドルに跨ると「しっかり掴まってろ」と言い放ち、重たいペダルを懸命に漕いだ。
 西新宿のガード下で苫太郎は自転車を止めた。通路の半分を埋める段ボールとブルーシート。その中に彼の住まいはあった。陽の光が届きにくく、鼻を刺激する悪臭が漂っている。通勤するサラリーマンが顔を顰めながら足早に通り過ぎていく。それを何とも思うことなく、苫太郎は玲雄の肩を抱き、自分の寝床へと誘った。
「ここでしばらく休んどけ。その辺の水も飲んでいいから」
 臭いと汚れが染みついた枕の横には1リットルの薄汚れたペットボトルが何本も並べられている。どれも栓は開封されており、中には公園やトイレで汲んだ水道水が詰まっていた。
「じゃ、俺仕事に戻るわ。とにかく安静にな」
 そう言い残すと慌てて自転車で花園神社に引き返していく。遠ざかっていくその背中を眺めながら玲雄は何とも言えない気持ちになった。

「あの人、誰かに似てね?」
 イタリア製の小洒落たピンストライプスーツを身に纏った稲田凱が尋ねた。
「え、何なに?」
 隣りを歩く楠間千佳が稲田の指さす方向を見る。薄暗いトンネルの先、苫太郎の城で所在無げにキョロキョロと辺りを見渡す玲雄の姿に気がつく。
「あ! 見たことある顔! んと、誰だっけ…… あ、前いた社長に超ソックリ!」
 稲田と千佳は顔を見合わせて大笑いした。二人はかつて玲雄が社長を務めていたホームページ制作会社で働いていた。短い時間ではあったが、クライアントの言われるがままに深夜まで働かされる過酷な労働環境の中で玲雄に対しての怒りと憎悪は決して小さなものではなかった。
「いや、でもまさか、ね?」
「ちょっと答え合わせしようぜ」
 ひそひそと小さな声で笑いを上げながら稲田と千佳は玲雄に近づいた。伸びた髪はボサボサで、肌は浅黒く、顔は腫れている。かつてのスマートな印象は全く消え失せているが、特長的な目鼻立ちで当人に間違いないと確信した。
「大鳥さん」
 揶揄するように稲田が呼びかけると、突然のことで思わず「はい」と玲雄は答えた。ほら、やっぱり、と言わんばかりに目尻に皺を作って笑いを堪える稲田に呼応して千佳が腹を抱えて笑い声をあげた。
「え、ちょっと何してんすか、こんなとこで」
 質問する前から答えは察しているが、それでも聞いてみる。寧ろ相手の口から答えを言わせたかった。何というのか、どう取り繕うのか、それとも開き直るのか。
 しかし玲雄は何も喋らなかった。相手がかつて自分の下で働いていた部下であることは何となく思い出していた。しかしそんなことはどうでもよかった。ホームレスだと思われるのなら別に構わないし、笑われても仕方がない。そんなことより早くどこかへ立ち去ってほしいと願っていた。
「落ちぶれましたね。残念です」
 そう言い放つと、「ちょっと失礼よ」と千佳が建前上フォローを入れる。それでも何も話そうとしない玲雄に二人は見切りをつけ、軽く会釈をしてトンネルの出口へと歩を進めていった。押し殺していたた笑い声が遠くから木霊のように響き渡る。
「何だよ、あれ。失礼な奴らだな、全く。兄ちゃん、トマちゃんの友達かい?」
 向かいの段ボールから顔を出した高齢ホームレスが訝しがりながら玲雄に声を掛けた。
「トマちゃん、って、さっきのおじいさんですか? さっき会ったばかりなんで全然……」
 トンネルを通過する車のヘッドライトが時折眩しかった。この先どうやって生きていこう。急に不安が押し寄せてきた。
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