第17話

文字数 3,054文字

警察の事情聴取が終わると、空はすっかり明るくなっていた。
「銭湯、行きたいな」
 眠い目を擦りながら文が提案した。この三ヶ月、二人は湯船に浸かっていなかった。多摩川で行水すればそれで十分だったし、食費以外で贅沢をすることを憚っていた。しかし今日は違う。玲雄も即座に乗った。とにかく心身をリフレッシュしたかったからである。
番台で料金を支払い、脱衣所で互いの体を興味深く眺める。華奢に思えた文は裸になると筋骨隆々で、腹筋もしっかり割れていた。一方の玲雄は不摂生もあって下腹部の弛みが顕著であった。
 人も疎らな浴室はカランコロンとちょっとした音でもエコーが響き渡る。それが面白くて二人は未就学児のように奇声をあげて笑いあった。まずは椅子に腰かけて流し湯を何度も浴びた。そして仲良く広い湯船に肩まで浸かりしばし目を閉じた。
「絵梨、大丈夫かな」
文は小声で呟いた。
「どうなんだろうな。あいつも何だかんだ金踏み倒してるし、時間かかるかもな」
 玲雄は両手で顔を何度も擦った。文にはそれが泣いているようにも見えた。
 緩んだ蛇口から滴る水滴がタイルに跳ね返る音は4ビート。シャンプーで髪を洗う音は32ビート。文はリズムに合わせて浴槽の水面を叩いた。
「やっぱ打楽器も欲しいな」
 玲雄はそれが絵梨のことだと瞬時に気がついた。三人で路上ライブをやっていた時、彼女のタンバリンは演奏に厚みを加え、観客のボルテージをあげる役割があった。
 互いに何か言いたげなのを感じていた。どちらが先に切り出すか。十秒、二十秒。息苦しくなった玲雄は壁面に大きく描かれた富士山のペンキ絵に視線を向けた。
「俺さ、最近気づいたことがある」
 文が口を開いたのはそれから四十秒後のことである。玲雄は内心ホッとしながらも惚けた顔で「何?」と聞いた。
「あのさ……、俺、絵梨のことが好きかもしれない」
 パシャパシャと水面を叩きながら文は蓄積していた思いをぶちまけた。当然、玲雄が未だに彼女のことを思い続けていることは知っている。しかし、彼もまた生活を共にしていく中で段々と絵梨に対しての思いが膨れ上がっていくのを抑えきれずにいた。
「あ……。そう、だったんだ……」
 それ以上の言葉を絞り出すことが出来なかった。洗面器が転がる音だけが聞こえる。
 沈黙に堪え切れず文は湯船を出るとタオルで体を洗い始めた。何カ月もこびりついていた全身の垢が摩擦で削り取られていく。そして禊のように何度も洗面器の湯を被りボディーソープの泡を流していった。
『洗いざらいを捨てちまって 何もかもはじめからやり直すつもりだったと 街では夢が』
 玲雄は周囲の視線を気にすることなく大声で歌った。そうでもしないと自分自身を保てない、そう感じていたからだ。

 初台からの着信に気がついたのは脱衣所で身支度を終えた後だった。GODファイナル進出者の発表までまだ二週間ある。きっと前みたいに何かアドバイスをくれるに違いない、そう文は確信した。
 玲雄とはその後も会話がぎこちない。こうなることは当然織り込み済みだ。覚悟の上で話している。しかしカミングアウトした自分の方がこれほどまでにダメージを負うことになろうとは考えてもいなかった。
流れを変えるべく、銭湯を出るなり彼は初台に折り返した。五回目のコールの後、前と同じように彼の妻が出た。
「もしもし、七瀬ですが……。え? それ、今日ですか?」
 文は顔面蒼白になり、言葉を失った。

「こんな格好で申し訳ありません」
 息せきながら葬儀会場に到着した文は喪服姿の麻里に深々と頭を下げた。黒の革ジャンが精一杯のフォーマルだった。少し遅れて到着した玲雄もこの場には似つかわしくない紺色のブレザー姿。それでも故人に最後の別れを言わずにはいられなかった。
 葬列に並び、線香の煙に咽びながら周りに合わせてお焼香をし、祭壇に手を合わせる。文が知っている顔よりもずっと若い頃のポートレートが中央に飾られていた。「この人が俺達を認めてくれたのか」、玲雄は幻のプロデューサーの柔和な顔を目に焼き付けた。今まで文から聞かされ続けた初台とこんな形で会うことが何よりも悔しかった。
「一昨日まで元気だったのよ。あなた達の歌を何度も口づさんで……」
 死因はくも膜下出血だった。突然大きな呻き声をあげて初台はもがき苦しみ、ベッドから転げ落ちたのが一昨日の正午。緊急手術の甲斐も虚しく最後は静かに息を引き取った。
 これまで多くのアーティストを手掛けてきた。期待の新人と言われながら芽が出ず違う道へと進んだ者。成功を自分の力だと過信し、後ろ足で砂を掛けるように他のレーベルに移籍した者。そのどれもに彼は強い愛情を注いだ。そんな中で最後の最後に光を見出していたのが『新宿無宿』だったことを麻里は二人に告げた。だからこそ文をこの場に呼んだのである。
「そうですか……。光栄です」
 唇を噛みしめ、瞼の奥を潤ませながら文は麻里に頭を下げた。

 会場には訃報を聞いて駆けつけた音楽関係者が大勢集っていた。
「随分老けちまったな、おい何年ぶりだよ」
 薄くなった頭と、弛んだ下腹部をそれぞれ触り合う中年達。CDが飛ぶように売れていた時代を知る化石の同窓会だった。一昔前のオールスター。葬儀の運営を手伝うジャックレーベルの中堅社員は今年入社した新人にそうレクチャーした。音楽性より話題性。そう教育されて育ったネット世代にとって過去の栄光なんてどうでもいい話だった。
「しかし初っちゃんも無念だろうな。閑職に追いやられて、自分が立ち上げたGODからも外されてさ」
 ロマンスグレーの顎鬚を蓄えた元同僚が周囲に聞こえるような大声で嘆いた。帰り支度をしていた文と玲雄も思わず耳を傾けていた。
「今のゆとり世代にゃああいう職人気質が目障りだったんだろ。聞いた話じゃ今回のファイナル、すでに優勝内定してるってよ。大手事務所のアイドルグループとか、声優とか、全部代理店がらみだと」
 したり顔で内部事情を暴露する年配ジャーナリストの元に金髪にピアスといったジャックレーベルの若い役員達が険しい表情で詰め寄ってくる。
「あなた方、何しに来たんですか。迷惑ですのでお引き取り下さい」
GODの実質的な責任者となった室地は内通者の言葉を遮るように怪訝な態度を取った。
「失礼だな。誰に向かって言ってるんだ」
 レジェンド集団は傍若無人なその言い方に怒りを露わにした。
「こっちはクソ忙しい中、手伝ってあげてんですよ。なんなら暇なあんた達が受付や香典係やってくださいよ」
 室地は苛立つように吐き捨てた。
「おい、調子乗るなよな!」
 堪え切れずに文は叫んだ。
 ドン!
 鈍い音と共に室地の体は弧を描いて地面に叩きつけられた。瞬時に悲鳴が響く。
「謝れ! 初台さんに!」
 鬼のような形相で文はまだ衝撃が残る拳を震わせた。
「てめえ、誰だよ」
 下腹部を押さえながら室地は立ち上がり、文の胸倉を掴む。文はその手を払い退けた。
「最後の門下生だよ」
 睨み合う二人を参列者が慌てて止めに入る。
「あいつ、あれじゃね? 『新宿無宿』のボーカル」
 騒動を遠巻きに見ていたジャックレーベルの幹部が周りのスタッフに尋ねた。
「あ、ホームレスの」
 GODの審査に参加している若いディレクターが答える。
「だよな。馬鹿だね、ファイナル行けるかもかもしれないって大事な時に」
 ジャックレーベルの社員に腕を引っ張られ、文と玲雄は強制的に会場から追い出された。それはGODの最終審査の対象から外されたことも意味していた。
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