第9話

文字数 1,224文字

上空を覆っていた分厚い雲から突如として激しい雨が降り出すとサラリーマン達は悲鳴を上げながら小走りにビルの中へと避難した。一瞬、辺りが明るくなり重低音のアンプに繋いだように雷鳴がサラウンドを響かせる。東京オペラシティの屋外広場。大粒の雨に濡れながら文は発声練習を続けた。周りに人がいなくなった分、思う存分大きな声が出せる。丹田を意識して、腹の底から呼吸するように。今まで出せなかった高いキーが耳に届く。錆ついていた喉もケアを入念に行った成果もありかつての艶やかな伸びが戻ってきた。
 これならいける。ようやく手応えを掴んだ文はびしょびしょのままガラス張りのエントランスに入った。ポケットから名刺を取り出し、スマートフォンに番号を震える指でゆっくりと入力する。
 プププ。電話の呼び出し音が続く。5コール、6コール、7コール。相手は出ない。忙しいのかな、そう諦めようとした時、「もしもし」という聞き覚えのない女性の声が漏れてくる。
「あの、初台様の携帯でしょうか?」
 不意打ちを突かれた形に声を上擦らせながら尋ねると、電話の向こうでは少々慌てた様子が聞こえてきた。
「すみません、私、初台の妻です」
 自分の母親にもよく似た少し嗄れた声。
「あの僕、七瀬って言います」
 頭の中で続く言葉を探してみるが、人とのコミュニケーションが欠乏している彼には難しかった。
「どのような御用で」
「えと、前に名刺貰って。で、歌を聴いてもらいたくて……」
 小学生でもそれなりの語彙力はあるだろう。しかし今の文にはこれが精一杯である。
「すみません、主人は今、入院してまして」
「え、どこか具合でも?」
 少し間が空いた。
「頭部を強打して……。しばらくは安静にしていないと」
 彼女が話している後ろで「誰からだ? 代われ」という聞き覚えのある声がする。
「ちょっと待ってくださいね、主人が代わると」
 受話口からベッドの軋む音が漏れてくる。よいしょっと、という声。文は目を瞑ってじっと聞いていた。
「もしもし。初台ですが。どちらさまで」
 寝起きのような張りの無い口調。
「すいません、前に新宿駅の下で名刺頂いた七瀬です。覚えてますか?」
「七瀬……。ああ、『失敗作』の子か。どうだ、あれからちょっとは上手くなったか?」
 覚えてくれていた。それだけで文は胸が苦しくなり、目頭が熱くなった。
「はい。歌、聴いてもらいたいんですが、無理ですよね」
「今、どこにいる?」
「へ? えっと、初台の……」
 彼のいる東京オペラシティは都営新宿線 新宿駅から一つ目、京王線初台駅に直結していた。通話先の相手の名前を呼び捨てしているみたいで文は必要以上に恐縮してみせた。
「今から桜上水まで来れる? タクシー代は出すからさ」
 まさか、今から? 文は面食らった。この豪雨、病室の彼は知らないのだろうか? 様々なことが脳裏を過ったが、チャンスは逃したくなかった。二つ返事で、初台から告げられた行き先を目の前の曇りガラスに指でメモした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み