第19話

文字数 1,959文字

雨が雪へと変わればあの歌のようにさぞかしロマンティックな夜になっただろう。しかし残念ながら冷たい雨は一向に止む気配を見せなかった。
 赤や緑のイルミネーションが路面の水溜りでゆらゆらと揺れていた。それを酔っ払いのサラリーマンが蹴飛ばすと飛沫がドロップキャンディーのように宙で輝いた。
 歌舞伎町のクリスマスイブ。
 コンビニエンスストアでは店員が皆サンタクロースの格好をして浮かれた客相手に愛想ない顔で接客をしている。
 自動ドアが開く度に往年のクリスマスソングが店内から漏れてくる。
 雑居ビルの壁面に掲げられた『A・KILLER』の巨大な看板も今宵は特別仕様で赤と緑のスポットライトが当てられていた。クリスマス・スペシャル・ナイト。常連客を誘うホスト達も普段とは違う全身白いタキシードの装いである。
 午後九時。満を持しての主役登場。店の前に停車した白のリムジンからワインレッドのベルベッドスーツを上品に纏った悠斗が降り立つと到着を待ち構えていた常連客が一目散に駆け寄った。
「みなさん、メリー・クリスマス」
 悠斗はウインクを安売りしながら愛想を振りまいてみせる。それに呼応するかのように金蔓達はゴージャスにラッピングの施されたクリスマスプレゼントを我先にと彼に手渡す。一度は手にする悠斗だが、すぐに側近が預かり、やがてそれは山となる。
「あの!」
 向かいのビルの入り口から周りを振り向かせるほどの大きな声が聞こえた。
 聞き覚えがあった悠斗が反射的に振り返ると雨でずぶ濡れになった絵梨が体を震わせながら立ち尽くしていた。
「え? 何?」
 状況がよく分からない悠斗に絵梨はじりじりと歩み寄ってくる。雨に濡れた冷たいアスファルトの上を裸足で。
「ちょっと、何なの、気持ち悪い。こっち来ないでよ」
 ミンク毛皮を羽織った金満熟女が怪訝な顔で絵梨をしっしと遠ざける。しかし絵梨は顔に貼りついた髪を掻き上げながら悠斗との距離を近づけた。
 騒ぎ立てる周りを制止して悠斗は彼女に向き合った。
「久しぶりだね。随分変わっちゃったけど」
 ナンバーワンホストは不敵な笑みを浮かべた。
「あの……。これ、僅かですがお返し致します」
 そう言って絵梨はポケットから銀行名入りの封筒を悠斗に差し出し、封筒周囲の目も憚ることなく土下座をした。
「何なの、この女。ねえ、寒いから中に入りましょうよ」
 太客の三倉が悠斗の腕を掴み、店内に連れて行こうとする。しかし、悠斗は丁寧にその腕を振りほどき、先に入店してもらうよう常連客一行に促した。程なくして誰も居なくなると雨でびしょびしょに濡れた封筒を取り上げた。
 中を確認する。水分を含んでくっついてしまった一万円札が二十枚。かつて彼女がこの店で踏み倒した金額の十分の一にも満たない。
「貸しっていくらだったっけ?」
 濡れた指先を純白のハンカチで拭いながら悠斗は絵梨に問いかける。 
「よく覚えてないけど、多分三百万は……」
 車のクラクションに掻き消される程の小さな声で歯切れ悪く答える。
「まあ、いいよ。こんだけ返してくれりゃ」
 空から降り注ぐ雨の滴を受けながら絵梨は唇を噛みしめてじっと悠斗を見上げた。
「借金取り、俺んとこまで来てさ。絵梨ちゃんのこと色々聞いたわ。放浪生活してんでしょ」
 英国王室御用達ブランドの傘を絵梨の頭上に差し、憐れみの表情を浮かべる。
「もうやんないの? タロット占い」
 何故あの晩、雁田と阿州が一緒に来たのか。疑問がようやく解けた。
「事件になっちゃったからね。信頼もなくなったし、もう無理だよ」
 警察を巻き込んだあの一件。占いの順番を待っていた客が一部始終をツイートしたことで短期間で築き上げた彼女の信頼は短期間で全て崩れ去った。たった一手で盤上のオセロが一気に反転するように、借金に塗れホームレス生活を送っているという事実が次々と明るみに出た。長い事情聴取から解放された彼女は再び行き場を失っていたのである。
「すんません。悠斗さん、皆んな待ってるんで早く来てください」
 客からの催促に溜まりかねた若手ホストがエントランスから悠斗を呼んだ。
「もう俺の前に顔見せないで。貧乏神が乗り移りそうだから」
 待たせているホストに合図をした彼は山形訛りのイントネーションで絵梨に言った。そして去り際にスーツの袖を捲り、左腕につけていた腕時計を外して絵梨の前に差し出した。
「これ、返すわ。大事に使ってたからそこそこ高く買い取ってもらえるんじゃないかな。じゃあ、メリークリスマスってことで」
 クロノマット 44 エアボーン。借金を作ってまで彼のためにプレゼントした時計だった。
 ハウスアレンジのクリスマスミュージックが爆音で鳴り響く店内に悠斗は姿を消した。
 幸せに充ち溢れた人達で賑わう街を、帰る場所もない彼女は彷徨い歩いた。
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