第3話

文字数 3,990文字

お腹の鳴る音は誰にも聞こえていない。錆ついた弦から奏でられるメロディーですら、雑踏は掻き消していく。
 新宿駅西口の地下広場。金曜日の二十時から観客のいないショーが始まる。七瀬文、二十六歳。静岡の高校を卒業後、担任の紹介で地元の中古車販売店に就職。セールス業務を任されるが、口下手で機嫌取りもできず、愛想笑いすらまともに作れない彼に失格の烙印が押されるのはそう時間がかからなかった。
 その後、整備に配属されるも職人気質の先輩から些細なことで怒られ続ける毎日に嫌気がさし、初めての辞表を書く。その後はファミリーレストランの厨房や宅配ピザのデリバリーなどアルバイトを転々とするが長くて半年、短いときは二日で職場を放棄した。
 目的も、目標も、生きるべき指標が何も見えなかった二十三歳の夏。すっかりニート暮らしが染みつき、昼間は部屋から一歩も出ず、夜になるとコンビニで棚にある雑誌を片っ端から立ち読みして無意味に時間を費やす。そんな中、店内放送で流れていた男性フォークシンガーの歌に文はハッとする。
 『君は思うように生きているかい』、叫ぶようなメッセージが外耳道のバイパスを通り、側頭葉で何度も反芻する。「これって、俺に言ってんの?」、何かの暗示にかかったかのように読みかけの雑誌を棚に戻し、両耳で歌詞を追うと携帯で検索してみた。
 自分が生まれるずっと前に作られた曲。文はネットでその歌の動画を何度も繰り返し聴き、あわせて口ずさんでみる。「俺の、歌だな」、そう直感で思った。
 翌日、駅前の楽器店に出向き、母親から借りた五万円で入門用のアコースティックギターと教則本を購入した。家に帰り、真新しいハードケースを開けるとラッカー塗装で浮かび上がったスプルース材の美しい木目が目を引いた。
 店員に教えてもらった通りにピックを持ち、六弦から一弦へと順番に音を鳴らしてみる。「楽しい」、ネックを握りしめ、適当なフレットを押さえて音色を確認する。夢中になった。その日は母親にうるさいと注意される夜十時まで延々とギターと戯れた。
 母親に返す金を工面するため九か月ぶりに始めたアルバイトは宅配便の配送センターだった。ただ黙々と指示通りに荷物を仕分けるだけの単純作業。最初は一カ月で辞めるつもりだったが、煩わしい人間関係もなく、時給も悪くはないので取りあえず続けてみた。
 思いのほか頑張る文を周囲も受け入れ、仕事が終わると同じ班のメンバーから飲みに誘われることも多くなっていった。普段は口数が少ない文もアルコールが回ると一転して饒舌になる。班長行きつけのスナックで、くだらないことに一緒に笑い、時にカラオケで歌声を披露してみせた。
 誰に教わった訳でもないが歌は昔からうまいと言われた。ビブラートの効いたハイトーンボーカルは生まれつきの音感の良さも相まって抑揚のある音階も的確に表現してみせる。
「すげーよ! なんか震えた」、「文、おまえオーディション受けてプロ目指せよ。応援するから」、バイト仲間が喝采を浴びせられると文は屈託のない笑顔を浮かべる。
「いや、そんなプロなんて無理っすよ」
 そう照れながらも顔はまんざらでもない。根拠のない自信が芽生えたからだった。その日を境に彼は将来の目標設定をミュージシャンになることに定めた。日頃感じたことをノートに書き留め、メロディをつけて曲を作った。カラオケボックスにギターを持ちこんで一人録音し、デモテープをレコード会社に郵送する。そんな毎日が続いた。
「七瀬さ、おまえにいい話があるんだけど」
 休憩時間、班長がにやりと笑って文を部屋の外に呼び出した。
「何すか、時給十円アップっすか?」
 総菜パンをコーヒー牛乳で流し込みながら文は尋ねた。
「十円でいいの?」
「だって上がんないでしょ? 俺より先に入った人たちですら変わんないんだから」
 今の時給でもこの地域では水準以上なので特に文句はない。物流業界も今苦境に立たされているだけにそうそう上がらないことも分かっている。
「あのさ、おまえ来月から正社員な」
 おめでとう、と言わんばかりに班長がポンポンと文の背中をたたく。
「え、それ俺だけですか?」
 もっと喜ぶと思っていただけに、冷静な顔のリアクションに班長は些か拍子抜けした。
「あ、まぁ、そうだけど」
 急にトーンを落とした班長の声に文の表情も曇る。
「普通に考えたらありがたい話なんですけど。多田さんとか、目平さんとか俺よりずっと長くやってる人たちを差し置いて……」
 多田も目平もずっと正社員を目指して真面目に働いている。そのことは会社も十分に評価していた。しかし共に四十代を過ぎ、今から社員登用するには遅きに失する感もあった。
「おまえはまだ若い。伸びしろもある」
 班長はポケットから煙草を取り出して使い捨てのガスライターで火をつけようとする。しかし突風でうまく着火しない。カチャ、カチャとボタンを連打する音が空しく響く。
「いつか言わなきゃと思ってたんですけど…」
 観念した様に文が重たく息を吐いた。
「行くのか? 東京」
 班長の言葉に文は戸惑う。
「まだ諦めてないんだろ、音楽」
 依然治まらない突風が肩まで伸びた文の髪を掻き乱す。垂らしていた長い前髪が靡き、潤んだ両目が露わになった。
「俺らはさ、七瀬と一緒に仕事がしてんだよ、これからもずっと。でも、おまえが自分の夢を追うのなら、それは尊重する。残念だけど」
 しばらくの沈黙があって、文はゆっくり頭を下げた。
 それから一年。東京二十三区を少し外れた狛江駅から徒歩十五分、築三十年の安アパートで最低限の生活を送っている。片っ端から応募しまくったオーディションも周りのレベルが高すぎることに気がつくとエントリーすら無駄に思えるようになった。デモテープを何本も作ってレコード会社に送ってみたが何の成果も得られなかった。ただ一社、手書きの感想が封書で送られてきたが、そこに書かれていた内容は自分の期待したものと違っていた。
 音楽へのモチベーションは失われ、根拠のない自信は貯金と同じ速度で目減りしていく。食べていくためだけの日給五千円のビル清掃アルバイト。稼いだ金は馬券に変わり、気がついたら何も残らない。「たら、れば」ばかりの毎日。『もし班長が力強く引きとめてくれていたら、ちゃんとした毎日を送っていただろう』、責任転嫁は今日も頭の中を駆け巡る。

『おとうさん ごめんね 僕は失敗作です あなたの期待に そえることなく ここまできました』
 力任せのストローク。早い時間から煽った安いハイボールのせいでリズムは破綻し、メロディーは崩れている。かつてバイト仲間を魅了した声はここにない。あるのは葛藤や迷いを曝け出したいという鬱憤晴らしだった。
 ただの酔っ払いの歌。慌ただしい金曜日の夜に彼の存在を気に留めるものは誰もいない。後方の大型マルチビジョンに流れる楽しそうな若者たちの映像が哀れな文とコントラストを描く。
『優秀な人間には なれませんでした 胸を張るような仕事にも つけませんでした』
 文が声を張り上げると、近くにいた週末を謳歌する四人組のサラリーマンが何事かと視線を浴びせる。
「これ、おまえのこと歌ってんじゃね」
 三十代半ばの男が一人の新人を指さしてからかう。
「いやいや、俺ちゃんと胸張って働いてますから。いいっすね、いい年こいて夢追ってる人は」
 言われた新人は蔑むように文を見る。当然その声は文の耳にも届いていた。間違いを正してやりたい、俺はもう夢すら追っていない、と。見世物にすらなっていない今の自分。歌詞の通りかもしれない。
 スマートフォンに何度も「え? え? 聞こえない」を繰り返すタクシー待ちの三十路OLは「ちょっと待って、掛け直すわ」と電話の向こうに告げると怒りの表情で文に近づいた。
「うっせーよ! 一人でカラオケでも行けよ、この下手くそ!」
 物凄い勢いで罵声を浴びせるとハイヒールを鳴らしながら動く歩道方面へと消えていく。
 ショックで一気に酔いが醒めた文はギターを弾く手をとめ、その場に大の字に寝転がる。スロープ状の二重螺旋ロータリーが切り取る楕円形からは高層ビルが美しい夜景を生み出しているのが見える。これから電車で三十分かけて狛江に帰る気力もないし、切符代すらもったいない。いっそこのまま新宿で野たれ死んでやろうか。自暴自棄が頭をよぎる。
「いつもここで歌ってんの?」
 低い声に反応すると、薄ベージュのジャケットを羽織った初老の男が文を見下ろしていた。
「あ、いや。たまに、です。今日で、三回目……」
 突然の呼びかけにしどろもどろになりながら身体を起こす。初老の男はネックの反りかかったギターの錆びた弦を軽くつま弾いた。
「昔プロ目指してたとか、そんな感じ?」
 今の醜態でプロを目指していたなんていくらなんでも答えられないだろう。「いや、そんな訳では」と口籠り、文はギターをケースに片づける。
「聞いたことあんだよね、君の歌」
「え? いつですか?」
 動揺する文に男は胸ポケットから名刺を取り出し、文に差し出した。『ジャックレーベル シニアアドバイザー 初台 満』、その名前は文も知っていた。
「前に、手紙くれた方ですよね」
 立ち上がり両手で名刺を受取った文は深く頭を下げる。
「あのさ、率直に言うけど、前CDで聞いた時の方が胸にぐっときた。さっきのは、ただのノイズ、雑音だ。響かない」
 返す言葉がない文は恥ずかしそうに俯いた。
「何があったか知らないけど、こんなところで恥晒すくらいなら辞めた方がいい。もし、まだ夢が捨てきれないのなら死ぬ気で練習しろ。前にも書いたけど、君の歌詞は好きだし、声だって錆を落とせばもっと出るだろう。本気でやるんなら俺は応援する」
 初台は淡々と話し、そして駅の改札へと消えていった。週末の新宿は慌ただしい。
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