第4話

文字数 5,367文字

 「この電車は途中高田馬場駅でのお客様荷物挟まりの影響でただいま五分遅れで運行しております。お客様にはお急ぎのところご迷惑をお掛け致しますが何卒よろしくお願い致します」
 ついこの間までこの五分の遅延にイライラしていたのが嘘のようだった。たった五分くらいで謝るなよ、車掌さん。俺は急いでないからさ。車内放送を右から左に受け流しながら玲雄は網棚に残されていたスポーツ新聞を貪る様に眺めた。
 『急募 誰でも出来るカンタンお仕事。正社員登用 月給30万円 寮完備』
 三行広告欄で見つけた魅力的な求人。玲雄は急にそわそわとし始め、指で器用にその個所を破り抜くと三周目に差し掛かった山手線外回り電車での時間潰しを一旦終了する決心を固めた。
「まもなく新宿に到着します」、ブレーキ音と共に減速しながらホームに入線すると、前を塞いでいた通勤サラリーマンの壁が一斉に崩れる。かつて時間に追われていた頃と同じように何年も利用してきた新宿駅のホーム階段を駆け足で下り、東口改札・売店隣りのカード式公衆電話の前で立ち止まった。
 久しぶりに動かした体は想像していた以上に鈍っており、肩を揺らしながら大きく深呼吸して息を整えた。ゆっくりと受話器を持ち上げ、ジーンズのポケットから十円玉を取り出して投入。コインの落ちる音とともにプーッという音が聞こえると、握りしめたクシャクシャの新聞切り抜きを眺めながらボタンをプッシュする。数秒の間があり、コール音が始まった。喉慣らしで小さく発声練習をしてみる。しばらく人と話をしていないこともあり声が出にくい。
 コール数は十回を超えた。不在なのだろうか、諦めて受話器を耳から遠ざけた瞬間、かすかに「はい」という声が聞こえた。
「もしもし、あの、新聞の求人を見てお電話しておりますが、まだ受付されてますでしょうか?」
 この日本語が正しいかどうかも判断つかないくらい玲雄の言語回路は麻痺していた。電話の向こうから「やってますよ」と男性の野太い声が返ってくる。
「詳しいお話伺いたいんですけど」
 玲雄は声を振り絞った。今まではあれほど慎重に転職先の情報を巨大掲示板や情報サイトで入念に調べていたのに、新聞のほんの小さな広告に自分の今後を勢いだけで委ねていいものだろうか。そんな心の迷いを掻き消すための意思表示だった。
「えっと、今日これから来れます?」
 相手の言葉に愛想はない。それでも玲雄はチャンスを一つ掴んだように小さく右手で拳を握った。
 男が指定した場所は新宿六丁目の雑居ビルだった。何度も前を通っているはずだが、どんなビルかは思い出せない。それでも募集が打ち切られていないことに安堵した気持ちのほうが強く、心に幾分かの余裕ができていた。近くだから今すぐ行くことも可能だが、焦っているのを見透かされたくないという思惑も働き、敢えて新宿駅から電話を掛けていることは告げなかった。就職だから当然履歴書もいるだろう。準備する時間も考えて四時間後の午後一時でアポイントを取った。
 駅構内に設置されたラックの無料求人誌から綴じ込みの履歴書を抜きとり、最寄りの銀行へ掛け込む。記載台に備え付けのボールペンで自分の学歴・職歴を書き込んでいく。輝かしい経歴から惨めな経歴へ。隠したい、消したい過去を今ここで反芻する。
 自宅の住所と電話番号は以前のものをそのまま書き込んだ。そうするより他に選択肢がない。あとは顔写真だが、証明写真の金額もバカにならないのでここは開き直って貼り忘れということにする。面接するのだから無くても構わないだろう。これが今の玲雄の思考状態だった。
 東大久保公園のベンチで横になり、穏やかな日差しを浴びながらしばし目を閉じる。もう十分すぎるほど寝ているのに、何故か睡魔が襲ってくる。約束の時間までまだ三時間。隣りではどこかの営業マンが電話の向こうに必死に頭を下げながら誤っているのが聞こえる。大変だな、頑張れよ。そんな言葉を掛けてやりたいと思いながら、今の自分を見つめ直す。働かない自由の先にある働かない不安。俺はちゃんと社会復帰できるのか。自己問答を繰り返しているうちに玲雄の意識はどんどん深い先に吸い込まれていった。

「金城さん、面接の方お見えになりました」
 抑揚のない声で出迎えたアルバイト風の男子学生が叫ぶ。額から溢れ出てくる汗を何度も袖で拭いながら玲雄は辺りを見渡した。
 そのビルは想像していた以上に古く、オフィスは無機質で、殺風景だった。コンクリートの壁は補修痕が目立ち、壁は煙草のヤニで黄色い斑なシミが広がっている。
「すいません、道に迷ってしまいまして」
 奥のドアが開くなり玲雄は神妙な面持ちで深々と頭を下げた。二十分の遅刻。当然昼寝で寝坊したなどとは口が裂けても言えない状況だった。
「まあいい。そこ座って」
 金城と呼ばれた男はスチール製の中古デスクに玲雄を促し、自らもギシギシと音が軋むパイプ椅子に腰を下ろした。
 口元や額の皺、白髪交じりの薄い頭髪からこの男は自分より年上だと確信した。突き出た腹でワイシャツがはちきれそうである。きっと自己管理ができない人なのだろう。全体から漂う煙草の臭いが玲雄の鼻を歪ませた。
「ふーん、昔は社長さんだったんだ」
 履歴書をざっと一瞥して金城は玲雄の顔を眺めた。
「俺より年上には見えないね」
 その言葉に玲雄は驚きの表情を隠せなかった。が、そこは今、相手に問うべきことではない。
「インターネット関連の会社だったら、サイトの更新とか出来たりする?」
 ワイシャツのポケットから煙草を取り出し、百円ライターをカチカチならして火をつける。室内に紫煙が立ち込めると玲雄は堪え切れずに咳をした。
「あんまり複雑なプログラミングとかはもう分からないですけど、HTMLくらいなら」
 玲雄の回答の意味を金城には理解できなかったが、初歩的なことができればそれで十分、という納得の頷きを繰り返した。
「すみません、ここって何の会社ですか?」
 普通の面接では考えられないような質問を玲雄は口走った。広告を偶然見つけてから、ここに来るまで一切何の情報も持たず、調べないまま臨んでいるのだから無理はない。実際、この部屋からも事業内容を感じさせる手がかりは一切見当たらない。
「何も知らずに来たの? ある意味すげーね。うち、競馬予想の会社。たまにネットに広告出してんだけど、知らない?」
「あ、そうなんですか。僕、競馬はまったくわからないんで……」
 目の前にぶら下がっていた正社員・月給三十万円が目の前から消えていく、もう何度も経験してきた土壇場のどんでん返し。これで面接は終了だと玲雄は観念した。
「大丈夫、君にやってもらいたいのは予想じゃないから」

 寮完備、とは名ばかりの事務所監禁生活が始まって三日目。朝六時にクッションの効かないソファーから身を起こし、目を擦りながらパソコンの電源を立ち上げる。ポストに投函された各スポーツ新聞、競馬専門紙を見比べ、一レースから全ての予想印を表計算ソフトに打ち込んでいく。
 受信したメールを開くと同業の競馬予想会社の買い目情報が次々に入ってくる。各社まちまちではあるが、予想が重複したり重い印が多く打たれている馬をピックアップし、自社の本命馬とする。
 これがレース開催時の玲雄の仕事であった。ただの最大公約数。取材もなく、検証も分析もしない他人のふんどしで相撲を取るのがこの『WINDAM』のビジネスモデルである。
 金城は一応取締役という名目だが、金勘定と従業員の管理しかしていない。玲雄と同じように他社の情報をまとめて自社のサイトに予想としてアップするアルバイトは毛村と吉良の二名。それらを競馬歴三十年という初老の元新聞記者・神田にチェックしてもらい正式な買目を決定する。
 社長はバニラという金融会社の人間らしいが、毛村も吉良も会ったことはないという。そんな中、玲雄は正社員、ゼネラルマネージャーという肩書を授かり三十万円の月収を貰えることとなった。
 登録会員は四百人ほどおり、情報提供料として一コースにつきそれぞれ設定された金額を支払う。順位を問わず二着以内に入る馬を予想する『スタンダード』と呼ばれるコースは一日厳選二レースで二万五千円。『トリプル』は一着から三着に入る三頭を当てる三連複用のコースで二レース三万五千円。『プラチナ』は一・二・三着を全て順番にあてる高難易度の予想コースで厳選二レース五万円。それらを資金としてブログなどにアフィリエイト広告を掲載し、新たな会員を集める。印のよい馬は当然勝つ確率も高いため、的中率はそこまで悪くない。当然ギャンブルなので外れることもある。
「神田さん、第一レースこんな感じになりました」
 玲雄がまとめた情報を神田が難しい顔つきでじっと眺める。
「外枠ばっかり。ガチガチの本命・対抗でつまらんな。ちょっと遊び入れてみよか。おまえ、何月生まれや?」
 その質問に玲雄の表情が曇る。意図が全く分からないからに他ならない。
「二月、ですけど」
「よしゃ、じゃ、買目に2を足しとけ。黒三角や」
「そんなんでいいんですか?」
 動揺する玲雄の肩を吉良が叩く。「ここはこんな感じだから」という合図だ。確かに本命ばかりだと的中しても配当は低い。競馬予想の価値はいかに大穴・高配当を獲るかで決まる。競馬に絶対はない以上、適当な買目でもまぐれで超万馬券に繋がることもあるから、と彼らは玲雄にここでしか通用しないであろうフィロソフィーを語った。
 新聞の厩舎コメントなどを引用してさぞかし説得力のあるような予想をまとめ、会員に向けてメールマガジンを配信する。数時間後、レースが始まり、馬たちがゴール板を駆け抜けると出した答えに審判が下される。的中か、不的中か。それだけがこの情報の価値である。どれだけ言葉を並べても当たらなければ何の意味を持たない。
「ま、当たろうが外れようが俺には関係ないけどね、バイトだし」
 新聞から拾ったデータをパソコン画面に入力しながら吉良が呟いた。
「確かに。この程度の作業で給料貰えるなんて楽な仕事だな」
 これまで経験してきた仕事と比較すればただデータを入力するだけで月給が保証されているなんて天国だと玲雄は思った。しかしそれはとんでもない誤りだった。
「何言ってんですか。大鳥さん、ゼネラルマネージャーでしょ。客から何か言われたら全部責任とるんですよ」

 翌日。一レース目から大波乱の展開が続き、提供した予想はことごとく外れた。当然のことながら顧客からは誠意ある対応を要求する電話やメールが殺到することになる。それらは全て玲雄の役目だった。
「ですから、あくまで予想なんで、結果は保証していませんし、返金にも応じれません」
 何十分も怒声が止むことない電話の向こうのクレーマーに何度も何度も謝罪の言葉を述べ、一方で相手の返金要請をはね返す。これが正社員・ゼネラルマネージャーの仕事である。電話回線は一本だから通話が終わった途端に繋がるまで掛け続けた輩がさらに怒りを増幅させて玲雄を口撃する。
「このレース、百パーセント獲れる、ってメールに書いてあったよな、自信満々に。百って言ったら絶対、ってことだよな。違うか?」
 競馬に百パーセントなんてあり得ない。だが、客の射幸心を煽るためにWINDAMでは誇大表現をよく使う。『ほぼ確勝!』、『大金一点勝負!』、それは金城の指示でもあった。
「いや、今日は直線の不利もあって…」
 事実、このレースは不利がなければ予想した二頭で決まりだった。しかしそれは言い訳でしかない。百パーセント獲れなかったからだ。
「詐欺ってことで、訴えるけど、いい?」
 電話の客は語気を強めて迫った。返金は極力食い止めろ。ただしどうしようも無い時はお前の判断で決めろ。そう金城は玲雄に告げていた。
「わかりました。では、返金させて頂きます。この度は本当に申し訳ございませんでした」
これ以上埒が明かないと判断し、返金に応じると相手は途端に怒りを鎮めて最後は「無理言ってすまない」と玲雄に謝った。
 一度開放感を味わうと、その先は連鎖する。ある程度相手の話を聞くと、返金を自ら口にして無難に終わらせる。それは金城が昼食から戻ってくるまで続いた。
「ずいぶん楽な方向に逃げちゃったな。全部でいくらになる?」
 毛村が電卓を叩く。十五人分、合計で六十五万円。金城は返金総額をメモ用紙に走り書きし、憔悴する玲雄の前に置いた。
「これ、全部君の判断だよね。給料から差し引くことになるけど、いい?」
「それじゃ、二か月は給料が貰えない、ってことですか?」
「貰えない、んじゃなんだよ。君が返すんだよ、会社に」
 無慈悲な顔で煙草に火を点け、玲雄に向けて煙を吐く。毛村と吉良は何事もないかのように黙々とパソコン画面に向かっている。体中の毛細血管が切れてしまうんじゃないかというくらい玲雄は息苦しさを感じた。今度こそ本当に鬱病にかかってしまうかもしれない。
「すみません。ちょっとトイレに行かせてください」
 玲雄は立ち上がり、自分のバッグを掴み取ると駆け足で部屋を飛び出した。
「ほら、三日だったろ」、吉良が自慢げな顔で笑った。
「予想当たりましたね」、毛村は呆れた顔で淡々と答えた。 
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