第2話

文字数 4,320文字

「次の予定もあるんでいい加減決めて欲しいんですけど。売るんですか? やめるんですか?」
 ワンルームの狭い室内に野太い声が響くと大鳥玲雄は怯えるような表情で小刻みに頷いた。交渉を続けてもう五分になろうとしていた。これ以上粘っても上積みは期待できそうに無い。
 震える手で契約書にサインをし、玲雄は不用品買取業者から五万七千八百円を受け取った。二十年近く大事にしてきた宝物の相対価値はこの程度だった。初回限定盤の特典付きレアCDも、現在は絶版で入手困難な写真集も、初めてのアルバイト代で購入した思い出のエレキギターさえも。
 しかし、今の玲雄には食べていくための現金が必要だった。水道も電気もガスも全て止められ、クレジットカードも強制解約。三ヶ月間滞納しているこの部屋の家賃も支払える目処がついていない。
 OA機器のリース会社を辞めてもうすぐ半年になる。契約先から故障の連絡が入るとスクーターで駆けつけ修理を行う、サービスエンジニアというのが彼の仕事だった。担当するエリアは出版の編集プロダクションや消費者金融など一筋縄ではいかない煩い顧客が多く、到着が遅いと毎回怒鳴られ、修理に手間取ると時として蹴りが飛んだ。
 三十五歳での転職。ほぼ毎日がサービス残業の所謂ブラック企業。自分よりも年下の上司に呼び捨てされ、「こんなことも出来ないのか」と罵倒される。かつては学生ベンチャー企業の雄として名声を得ていた男の成れの果て。プライドは深く傷つき、病んだ心は出社することを拒むようになっていた。
「もう三日目よ。いつまで無断欠勤するつもりなの?」
 麻耶は呆れた声で布団を剥いだ。食事も碌に取らず、虚ろな様子の玲雄を心配する素振りはまるで無い。会社の社長と結婚したはずが、まさか平社員に成り下がった夫の薄給を埋めるため自分まで働きに出るとは思いもよらなかったからである。
「身体が痺れて動かない」
 玲雄は声を絞り出して妻に訴えかけた。
「だったら病院行って来なさいよ。どうせ仮病なんでしょ。何でアンタが家に居て、私が仕事に行かなきゃならないの? 甘えるのもいい加減にして!」
 いつものヒステリックが始まると玲雄は布団に潜りガタガタと全身を震わせた。あと五分耐えれば麻耶は家を出ていく。早く台風よ、通り過ぎてくれ。祈るように両手を組んだ。「あれほど私が反対したのに、勝手に話決めたのはどこの誰? だったら四の五の言わず頑張って働きなさいよ!」
 いつも以上の語気で吐き捨てると妻はドアを力任せに閉めて足早に職場へと向かって行った。
 ようやく一人になれた部屋で玲雄はただ天井を見つめた。五分、十分、十五分。時間は経過しても何も変化はない。自分さえ動かなければ無音だ、そう思っていた矢先に携帯電話のバイブレーションが静寂を破った。ジージーと呼び出しが続き、やがて自動応答のメッセージが流れた。もちろん相手が誰だか察しはついている。
「大鳥。てめぇ何で電話出ねえんだよ。仕事を平気でサボるようなヤツ、もう来なくていいよ。給料も出さないから」
 年下の上司は留守番電話に悪態をついた。事実上のクビ宣言。内心、玲雄はホッとしていた。これで会社に行かなくてすむ。そんな短絡的な逃避思考がすっかり麻痺した脳内に蔓延していた。
 あとは麻耶にこの事実をどう伝えるか。次の職の当てもない。かつては億単位だった貯金も底を突きかけている。しかし転職で挫折をしたことでもう彼の働く気力は完全に失せてしまっていた。一度味わってしまった蜜の味、社長の座。それは全くの偶然と類稀なる悪運で手繰り寄せた。
 時はITバブル黎明期。地方の三流大学に通っていた玲雄は同じ学生寮に住む先輩の平戸から相談を持ちかけられた。
「大鳥。お前のパソコン、少しの間借りてもいいか?」
 パソコンの普及率が50%に満たなかった時代である。二十万円以上もする機種を貸すことに玲雄は躊躇いを見せた。
「一体、何に使うんですか?」
 平戸は七並べで塞き止めていた『6』や『8』のカードを勿体ぶりながら出す時と同じ顔で玲雄の肩を叩いた。
「バイト先の店長からな、ホームページ作ってくれって頼まれたんだよ。報酬、これ」
 そう言って両手を大きく開いた。
「十万円?」
 平戸は親指を立てて自信満々に頷いた。
「すげ! 大金じゃないですか!」
「だろ? こんな田舎じゃホームページなんて作れるヤツもそうそう居ないからな」
 実際、平戸も簡単なデザインのものを作れる程度の技量しか持ち合わせていなかった。加速的に増える需要に対して供給がまだ追いついておらず、特に地方に於いては専門の制作会社そのものが少なかったのである。
「で、だ。お前さ、俺と一緒に会社始めないか?」
 突然の発言に玲雄は目を丸くした。
「今後全てのことがインターネットを通じて出来るようになる。でも、ホームページを作るには知識も要るし、金も莫大にかかる。だから俺達はそれを徹底的に安く請け負ってシェアを一気に広げるのさ」
 結局、玲雄は平戸の口車に乗った。わずか二人でスタートした小さなホームページ制作会社は時流にうまく乗ると規模をどんどんと拡大していった。制作を平戸が担当し、玲雄は営業を任された。簡単な企業ページの作成に百万円以上の費用が当たり前だった中、彼らはその半値を提示しどんどんと受注を取ったのである。
 社員が二十名を越えた頃、平戸は過労で倒れ社長の座を玲雄に譲り渡した。地元のマスコミは彼を時代の寵児として紹介し、その名は一躍全国に広がった。インターネット時代の本格的な到来。全てが順風満帆のように思えた。
 しかし、そんなビジネスモデルは長くは続かない。技術革新が進むほどに同業者との競争は激化し、気がつけば大手資本にシェアを奪われていた。ホームページという生温い言葉はウェブサイトと呼ばれるようになり、ブログというツールによって誰もが手軽に自分のサイトを持つことが出来るようになった。僅か五年で玲雄は億単位の金を失い、やがて夢の城は儚く消えることとなる。
 肩書きを失い、借金を背負った玲雄はコネクションを頼りにインターネット関連の会社を渡り歩いた。しかしこの程度の人材はもはや掃いて捨てるほど溢れ返り、取り立てて才能のない彼の定住先はどこにも見当たらなかった。今や採用面接に出向いてもかつての栄光は単なる失敗談でしかない。
「まだ寝てんの?」
 時給九百九十円のドーナツショップで六時間働いて帰ってきた麻耶はそれ以降一言も発しなかった。クローゼットを開け、自分の所持品を次々とダンボールへ詰め込んでいく。
 二人の出会いは十六年前の夏まで遡る。平戸から社長業を引き継いだばかりのこと。納期に間に合わず富山までクライアントへ謝罪に出向いた夜、衝動的に入ったキャバクラでテーブルに着いたのが麻耶だった。
 新人だった彼女は黙って玲雄の話を聞き、彼を精一杯慰めた。そんな彼女に熱を上げた玲雄は富山まで足蹴く通い、見事そのハートを射止めた。それが幸せの絶頂期だった。
 インターホンが鳴ると麻耶はドアを開けて二人の作業員を部屋に招き入れた。
「あ、そこに人がいるけど気にしなくていいから」
 その大きな声は布団を被っている玲雄にもしっかり聞こえた。「失礼します」という声と共に作業員はテレビや洗濯機、冷蔵庫に食器棚、そしてダンボール箱を次々と外へ運び出す。
 いつから決心していたのだろうか? 朝から? それとも昨日? 準備周到な様子はそれよりも前からかもしれない。まあ、そんなことどうだっていいさ。玲雄は麻耶が出て行った後のことを考えてみた。
 辞め方はきれいではないが、失業手当は貰えるだろう。自己都合でも特定理由受給資格者を申請すれば失業手当もより多く支給されるらしい。生活保護は毎月どのくらい貰えるんだろうか? 自分ひとりなら贅沢さえしなければ働かなくても何とか生きていける。一人では広すぎるこの2LDKを引き払い、郊外で安い四畳半でも借りようか。妄想は広がるばかりだった。
 搬出を終えた作業員を玄関で見送った麻耶は何もなくなったダイニングを感慨深そうに見渡し、ハンドバッグから取り出した離婚届をフローリングの床に置いた。
「今までありがと。早く良くなるといいね」
 最後は笑顔だった。最初に出会った時と同じ顔。きっと彼女も重荷が取れたのだろう。そう玲雄は思った。
 一週間後。生活保護の申請のため福祉事務所の相談窓口を訪れた玲雄はケースワーカーとの面談を行った。
「最近多いんですよ、不正受給。こっちの立場としては信じたいんだけど、これだけ問題になるとね」
 初老の婦人は玲雄の様子をじっと観察した。虚ろな目や落ち着かない挙動は精神疾患のように見えなくも無いが、窮状を語るその口調に違和感を覚えたからである。明らかに就労の意思が見られない。そう判断した彼は医師の診断書を提出するよう彼に求めた。
「病院ってお金かかりますよね?」
 かつて年商五億円を稼いだ会社の社長だったとは信じられない発言だった。
「もちろんです。あなたが本当に働けないのであればまずは治すことから始めないと」
 ケースワーカーは毅然とした口調で言い放った。
 この時点ではまだ玲雄は楽観的だった。何故ならば自分は鬱病なのだと完全に思い込んでいたからである。時として襲ってくる眩暈も、掌に浮かんでくる発汗も、そして身体の痺れも全てはその症状だと信じて疑わなかった。実際、自己申告すればそのように診断してくれる医師も居るであろう。
 しかし彼が診て貰った精神科の医師は違った。
「逃げてるだけでしょ、現実から。身体も動くし、日常生活も全く問題なし。あとは気の持ちようだと思うよ」
 そう突き放すと早々に診察を切り上げた。
「ちょっと先生、もう少し調べて下さいよ」
 納得のいかない玲雄は思わず声を荒げた。何も詳しく調べていないのにどうしてそう決めつける。そんな憤りからだった。
「ほら、そこまで熱くなれるんなら大丈夫。それとも、あれ? 生活保護が貰えないって焦ってるのかな?」
 図星なだけに何も言い返せなかった。黙り込む玲雄に医師は追い打ちをかけた。
「何なら待合室見ておいでよ。本当に病気で苦しんでいる人達を。比較にならないから」
 カルテを返され診察室を出た玲雄は待合室で順番を待つ患者達に視線を向けた。そして思い知った。まだ自分はここで治療を受けるような度合いでないことを。
 『就労可』という判定により彼への生活保護は一時的なもので終わった。先の見えない中、心は閉ざされ貯金は半年で完全に底をつく。部屋に残った全てを売り払い、彼は五万七千八百円と共に部屋を出た。
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