第7話

文字数 8,255文字

 どんな劣悪な環境でも三ヶ月も滞在すればさすがに慣れてくる。リクライニングチェアーで熟睡するコツも掴んでいた。
 ナイトパックで一泊千五百円。新宿中のまんが喫茶やインターネットカフェを一通り試したがここが一番リーズナブルで使い勝手がいい。フリードリンクでシャワーも無料。金曜日の晩などは部屋が埋まっているが、毎日宿泊している会員の玲雄にとっては関係の無い話であった。
 日本一の歓楽街と称される新宿。色んなサービス業が集まり鎬を削る激戦区域である。駅前では必ず何かのクーポン券が配られていて、ワンコインで充実したランチが味わえる。
 玲雄はそんな新宿の有りと有らゆる激安でお得な情報を自ら隈なく歩いて調べ、それをブログ上にアップした。
 タイトルは『新宿無宿』。住まいが無くても確かな情報さえあればこの街では生きていける。リアルな日常生活を赤裸々に語っていることもあり、インターネットカフェ難民と呼ばれる同じような境遇からの支持は高く、タイムセールや節約術などの役立つ情報に対する感謝のコメントも数多い。クチコミから徐々にアクセス数も増え、今ではアフィリエイトでちょっとした小遣い稼ぎが出来るまでになった。
 この晩も新たに見つけた惣菜パンの廃棄場所をヒントを交えて作成に取り掛かった。彼自身はプライドもあり袋から漁ることはしないが、切羽詰った人への助け舟である。
 いつもなら一気に書き上げアップするのだが、なかなか文章がまとまらない。気分転換でシャワーを浴びに席を離れた。
 同じ頃、絵梨は初めてのインターネットカフェに戸惑っていた。利用システムが全く分からない。受付ではテーブル席の二十五番と告げられたが、それが一体どこなのか。簡易的な間仕切りが並ぶ店内をうろうろとしながら、取り敢えず二十五番を見つけ中に入った。
 既にパソコンが立ち上がっており、モニターからは青白い光が発せられている。絵梨はリクライニングチェアーに腰掛け、画面をじっと見入った。
 『新宿無宿』、タイトルに興味を持った彼女は編集中であるそのページを無心に読み耽る。
 『東新宿から抜弁天通りを直進し、Y字路を医科大に向かって歩く途中に手作りパンの店を発見したよ。毎週水曜日の営業終了後に売れ残ったパンを廃棄している様子。一応、中も確認したけど全然食べれるレベル。サンドイッチ、チーズフランスにやきそばパンもあったよ。収集前にも見に行ったけど、ホームレスに荒らされた形跡はない模様』
 携帯のカメラで撮られた写真付きのレポートにすっかり見入ってしまった彼女は過去の記事にもアクセスする。
「ちょっと、何勝手に入ってんの?」
 シャワーを浴びて戻ってきた玲雄が慌てて飛び込んできた。そして保存していなかったブログの編集画面が別のページにに変わっていることにも気がついた。
「え、何やってんだよ!」
 玲雄のあまりの剣幕に、絵梨はゴメンなさい、と小声で謝り席を立った。
「おい、俺の財布どうした?」
 テーブルの上に置いていた財布が無いことに気がついた玲雄はその肩を掴む。しかし絵梨には全く身に覚えがない。 
「他のお客様の迷惑になるので大きな声でのお話はご遠慮ください」
 騒ぎに駆け付けた店員が憤る玲雄を諌める。
「いや、この人が俺の財布を……」
 途中でハッと言葉を飲み込む。雑誌の下に隠れていた財布を見つけたからである。
「すみません。ありました」
 恥ずかしさと申し訳なさで気が動転しそうになるほど真っ赤な顔でひたすら頭を下げる。「ならいいんですけど」と小声で店員が立ち去ると、絵梨との間に気まずい時間が流れる。
「ちょっと、納得いかないんですけど」
 泥棒呼ばわれされた絵梨が玲雄に詰め寄る。その瞬間、彼女の空腹が悲鳴を上げた。
「おなか減ってる? お詫びに何かご馳走します」
 隙に乗じて玲雄が冗談めかしく提案すると、絵梨はまんざらでもない顔で頷いた。背に腹は代えられない。交渉成立である。
「あ、僕は大鳥って言います。お名前は?」
 中古ショップで購入したフェイクレザーのショルダーバッグに貴重品を詰めながら玲雄は尋ねた。
「私、新加って言います」
「それ、名字? 名前?」
「いや、あなたの大鳥ってのも名字でしょ」
「じゃ、名前は?」
「絵梨ですけど」
「では絵梨さん、何食べたいですか?」
 ネットカフェを出たところで玲雄は絵梨に尋ねた。
「何でもいいんですか?」
 爛々と目を輝かせて絵梨が笑う。
「あ、予算千円まででお願いします」
「やっぱそうですよね。そもそもネカフェ暮らしの人にそこまで期待してなかったですけど」
 上機嫌の絵梨だったが新宿大ガードに近づくにつれ、急にそわそわと辺りを気にし始めた。
「どうしたの?」
「歌舞伎町はやばい人いるんで、別のとこ行きましょう」
「やばい人?」
「うん。見つかったら殺されちゃう」
「何それ? どういうこと?」
 絵梨の警戒モードが一層強くなる。通りを行き交う人の中にあの男がいるんじゃないか。そう思うと途端に息苦しくなった。玲雄は異変を感じ取り、目の前の中華料理店で足をとめた。
「ここ、入ろうか」
 見るからに年季の入った店構えだが、店頭に飾れたメニュー写真は種類が豊富でどれも食欲をそそる。絵梨が頷いたのを確認して玲雄はドアを開けた。
「いらしゃいましぇ」、チャイニーズ独特のイントネーションで威勢のいい声が響く。
 店内は思いのほか広く、四人掛けのテーブル席が十組並んでいる。仕事帰りのサラリーマンや大学生グループで店内は笑い声と議論が渦巻いており騒々しい。ちょうど片付け終わった奥のテーブル席に二人は案内され、向かい合って着座した。出されたレモン風味の水道水で口を潤し、スタンド式メニューを裏表交互に凝視する。
「好き嫌いとかあったりする?」
「いえ、昆虫やゲテモノ以外はなんでも。あ、タコも見た目NGなので食べれません」
「へぇ、じゃあタコ焼きも食べれないんだ」
「ガワは好きなのでタコ抜きで頼みます」
「何それ。ただのネギ焼きじゃん」
 顔を見合せて笑うと、玲雄は店員を呼び瓶ビールと回鍋肉定食、絵梨は肉野菜定食をそれぞれ頼んだ。程なくして冷えた瓶ビールが届き、玲雄はグラスに注ぎ分けた。
「はい、では改めまして絵梨さん。先ほどは大変失礼致しました。謹んでお詫び申し上げます。乾杯!」
 若干照れながらグラスを重ね、喉元に一気に流し込む。節約生活を続ける玲雄にとっては二週間ぶりのアルコール。絵梨に至ってはプラチナドンペリの一件以来である。
「さてさて。さっきの話の続き。見つかったら殺される、って言ってたよね」
 玲雄の問いかけに絵梨はまた口を噤む。隣りのテーブル席では中年サラリーマンが同僚に泣きながら上司の悪口を愚痴っているのが聞こえる。俺が聞きたいのはあんたの話じゃないよ、と玲雄は心の中で呟きながら絵梨のリアクションを待った。
「お待たしぇ致しました、ホイコーロと肉野菜です」
 絶妙のタイミングで店員が重たい空気を遮断する。慣れた手つきでてきぱきと配膳し、二人を気遣うように「ごゆっくりどうぞ」と微笑んで立ち去る。
 鼻孔を刺激する胡麻油とソースの絶妙な香り。沸き立つ湯気に食欲は抑えきれない。玲雄は絵梨に「どうぞ」と告げ、自らも豆板醤が絶妙に絡まった分厚い豚バラ肉をかき込んだ。
「えっと、歌舞伎町にA・KILLERってホストクラブがあるんですけど、私そこのツケ踏み倒してて」
「へぇ。ホストクラブとか行くんだ。で、いくら?」
「多分、二、三百万円くらいかな」
 想定していたよりも遥かに大きな額に玲雄は絶句する。
「ちょっと、二百万と三百万じゃ百万も違うけど、そんなアバウトなもんなの?」
「もうよく分からない。最後、ナンバーワンホストに水ぶっかけて逃げてきたし。あんときプラチナって最高級のドンペリ頼んだからそれだけで七十万くらい行ってるかも」
 堰を切ったように絵梨は飄々と語る。玲雄はもうただただ黙って聞くしかなかった。
「で、ホスト連中が私のこと探し回ってるってツイッターで流れてんの見て。もう家財から何から全部リサイクルに売っぱらって部屋解約して逃げ回ってんの」
 徐々に酔いも入り、絵梨はブレーキが利かなくなっている。
「にしちゃ、近くない? 渋谷とか、池袋とか、蒲田・赤羽とか遠い方が見つかんないんじゃないの? いや、実家に帰って親に相談してみるとか」
「親? そんなのに頼れるんなら安月給で派遣なんてやりませんよ。父親は借金たくさん作って私が高校生の時に蒸発。母は心労たたって五年前に死んじゃいました」
「あ、そうなんだ……」
 まずいことに触れてしまったと玲雄は神妙な顔をした。
「私、こっちに友達いないし、中学校ん時にクラスでそこそこ仲良かった子が甲府に住んでるんで昨日まで泊めてもらってたんだけど、その子も金無いし、酒飲まないし、向こうの彼氏からも『おまえいつまで居るの』みたいな感じで見られるし。はは……喧嘩して戻ってきちゃいました。ま、なんだかんだ新宿便利だし」
 だんだん絵梨の本性が見えてきた玲雄から先ほどまでの遠慮が消えていた。
「で、どうすんの、この先。ずっとネカフェ暮しって訳にもいかないでしょ、俺みたいに」
 確かに一見すると身綺麗ではあるが、ポロシャツは薄く色褪せてチノパンは膝の部分が擦れてヨレヨレの玲雄をみるとネカフェ生活の悲惨さを痛感する。
「もうお金ないんでネカフェ戻ったら仕事探そうかな、と。風俗はさすがにやだけど、キャバクラくらいだったら、どっか雇ってくれるとこあるでしょ」
 キャバクラという響きに玲雄の脳内でかつての妻、麻耶と出会った日の記憶が再生された。富山のキャバクラ、あの頃の麻耶は優しかったな、とふと感傷に浸る。一方で目の前にいる絵梨を何とかしてあげたい気持ちも昂っていた。キャバクラで見ず知らずの客の手垢につけたくない、という独占欲的な想いからかもしれない。
「キャバ嬢はやめときな。手っ取り早く稼げるかもしんないけど、上下関係厳しいし、変な客につきまとわられて大変らしいよ。なんか話聞いてると絵梨さん絶対トラブル起こしそうだし」
「いや、もうすでにトラブルだらけだから。いざとなったら辞めればいいし」
「そういう安易な考えが駄目なんだよ。もっとさ、手堅い仕事見つけようよ。ほら、ここも時給千円だって」
 レジ横に貼られたアルバイト募集の告知を指さしながら、自分だって手堅い仕事から逃げていることに改めて気がつく。そう、仕事なんて世の中いくらでもある。食べるためだけの金ならどうにかして稼げる。でも、それを出来ない自分が今、他人を説教している。
「じゃあ、大鳥さんはどうして働かないの? お金無くなったらどうすんの?」
 本当のことを話そうか彼は迷った。何度も対人で神経をすり減らし、職場放棄してきたことを。次の職を見つけようとする度にOA機器リース会社の年下上司や、インチキ競馬予想会社の金城の怒声が脳裏をかすめる。お金が無くなったら公園で野宿でもしよう、そう考えていた。ブログ『新宿無宿』はそのためのシュミレーションを無意識にやっていたのかもしれない。
 以前として隣りのテーブルでは中年サラリーマンが自分のことを棚に上げて職場環境を嘆いているのが聞こえた。そうそう、俺もあんたと同じだよ。玲雄はグラスの底に溜まった泡を飲み干して時計を確認した。午後十時。まだ話足りない気もしたが、この場所から立ち去りたいと思った。
 伝票を持ってレジに向かい、打ち込まれる金額を確認する。二千四百円。瓶ビールを追加した分予算をオーバーしたが、久しぶりの酔った身体に夜風は心地よく、大きな声で叫びたい気分になった。
「これからどうする?」
 そう聞いてはみるが、夜の繁華街はどこへ行くにも金がいる。
「カラオケとか行きたいな」
 絵梨は赤ら顔で答えた。玲雄に金がないことを知っていて言っている。二人きりでカラオケか。玲雄は薄くなった財布の中身を嘆いた。
「歌、けっこう歌うの好きなんだ」 
「前はストレス発散でよく行ったよ。だいたい一人でだけど」
「へえ。聴いてみたいな。歌声」
 駅東南口のエスカレーターに差し掛かったところでギターの音色が流れてきた。16ビートのオルタネイトストロークで繰り広げられるリズムにハスキーな歌声が被さる。
『洗いざらいを捨てちまって 何もかもはじめからやり直すつもりだったと 街では夢が』
 その歌詞は玲雄もよく知っていた。尾崎豊の『路上のルール』。まだ中学生の頃、十歳年上の従兄から貰ったCDの一曲目がこの歌だった。
 広場に植えられた二本のタカトオコヒガンザクラの木の下。髪は肩まで伸び、薄く黄ばんだTシャツの袖を肩まで捲りあげて歌う文がそこに居た。
 三週間前、初台の『本気でやるんなら俺は応援する』という言葉を信じ、もう一度夢を追ってみようと決めた。狛江の木造アパートでは大きな音が出せないので都内の繁華街を転々としながら雑踏の中練習している。不摂生をやめ、腹の底から声を出してみるが、静岡にいた頃の状態には程遠い。何よりギターの腕前が依然としてアマチュアレベルである。
「知ってる歌?」
 急に立ち止まって文の歌をじっと聞いている玲雄に絵梨は尋ねた。
「うん、何か下手だなーと思って」
 黙々と歌い続ける文の傍に玲雄は歩み寄った。
「ね、ちょっとギター貸して」
 疎ましい酔っぱらいを無視するように文は歌い続ける。
「ちょっと、行きましょう」
 雰囲気を察した絵梨は玲雄の手を引っ張った。しかし玲雄は動かない。
「俺の方が上手いから」
 その言葉に反応した文の演奏の手が止まった。
「ゴメン、邪魔なんで向こう行ってくんないかな」
 苛立ちを押さえるように文は小さな声で吐き捨てた。
「チューニング、合ってないよ」
 思いがけぬ指摘に動揺する文を傍目に玲雄は半ば強引にギターを奪い、慣れた手つきでハーモニックス・チューニングを行った。
 調弦されたギターは先ほどまでと別次元の音を奏でる。軽くアルペジオを披露した玲雄はA、Bフラット、Cシャープマイナーセブンスとコード進行を確かめた。
「じゃ、俺弾くから一緒に歌って」
 エッジの効いた華麗なストロークで奏でられる『路上のルール』のイントロ。
「彼、ミュージシャン?」
 文に尋ねられた絵梨は首を傾げた。
「いや、今日あったばっかだから詳しくは……」
『洗いざらいを捨てちまって 何もかも初めから やり直すつもりだと 街では夢が』
 透き通るような声で玲雄が歌いだすと、通りを歩く人たちが一斉に視線を向けた。
「うゎ、歌うまいじゃん!」
 内心、冴えない中年だと思っていたが、颯爽と歌う玲雄の姿に絵梨は目を輝かせる。負けまいと文もキーを変えてコーラスを入れる。異なる声質が絶妙なハーモニーとなって広がると通りすがりのサラリーマン達が一人また一人と足を止め二人の歌声に酔いしれた。やがてそこに大きな人の輪が出来、調子に乗った酔っ払い達が一緒に歌い出す。
 溜まっていた鬱憤を晴らすかのようにシャウトする玲雄に手拍子が沸き起こり、その騒ぎに何事かと新たな人たちが集まってくる。
『今夜もともる 街の明かりに 俺は自分のため息に微笑み おまえの笑顔を捜している』
 サビ部分まで一気に歌いあげ、最後は派手なストロークで締める。大きな拍手とともにギターケースには五百円玉や千円札が次々と投げ込まれた。
「ね、あれやってよ。盗んだバイクで、ってヤツ」
 玲雄より年上と思われるギャラリーから次々とリクエストが飛んだ。
「次はこのお兄さんが歌うから」
 玲雄はギターを文に返し、その肩をポンと叩いた
「じゃ、あとは頑張って」
 大勢のギャラリーの視線が文に集中する。
「何だよ、ハードル上げんなよ」
取り残された文は恨めしく呟いた。
「待たせてゴメン。じゃ、行こうか」
 すっかり歌に魅了された絵梨は玲雄の腕を組んだ。高揚した玲雄はその唐突な行動を臆することなく受け止る。久しぶりに感じる他人の体温。心臓の鼓動は明らかに早まっている。平常心、平常心。そう心の中で呟いてみるが意識すればするほど身体の震えが止まらない。それは絵梨も同じだった。これは恋なのか。こういうのが恋だったっけ。しばらく忘れかけていた胸の高鳴りを押さえるように二人は歩き出した。
「なんかいい感じじゃん。新加さん」
 野太い声が背後から聞こえた。玲雄が振り返ると、紺色のスーツを纏ったオールバックの男が肩を揺らしながら近づいてきた。
「俺の顔は忘れても、借りた金返すのは忘れないでよね」
 その言葉に絵梨の顔から血の気が失せる。バニラクレジットの阿州だった。彼から借りた百万円とその利子の返済期限は優に過ぎていた。十日で五割、三週間が経ったこの時点で二百二十五万円に膨れ上がっていた。借りた翌日に今までの携帯回線を解約していた絵梨に催促の電話は通じることもなかったが、阿州は全てお見通しだった。しばらく泳がせておいて利子が大きくなった時点で一気に締めあげる。絵梨のバッグに取り付けられていた小型GPS装置はずっと居場所を通知し続けていたのである。
「電話繋がらないんで心配してたんだよ」
 全身から漂う夥しいまでの圧力。阿州は眉間に大きな皺を寄せながらじわじわと絵梨に近づいた。絵梨は玲雄の腕を振りほどき、走って逃げるつもりだった。しかし両足はまるで石のように固まって動かない。
「この人がナンバーワンホスト?」
 状況を飲み込めない玲雄はこれが悠斗だと勘違いをした。
「お兄さん、彼氏? 歌うまかったね。プロの歌手かなんか?」
 睨みを利かせながら阿州は玲雄の肩を掴んだ。絵梨から回収できなければ玲雄に肩代わりしてもらう魂胆に他ならない。
「はい。彼氏ですけど、何か? あ、歌手じゃないけど」
 震える絵梨の背中をやさしく擦り落ち着かせながら玲雄は毅然とした表情で阿州と対峙した。どう見ても堅気ではない相手に恐怖心がない筈はない。しかし、それ以上に絵梨を守らなければという想いが彼を一層強くした。
「君の彼女さ、貸した金返してくれないんだよね。お兄さん、代わりに払ってくれる?」
「いくら?」
「二百二十五万円。あと一週間もしたら三百三十七万五千円になっちゃうけど」
 金額の大きさに玲雄は驚く。絵梨はしゃがみこみ、両手で顔を隠している。玲雄は事の重大さを理解した。これは、どう考えても無理だ。
「嘘だ。絵梨が借金なんかする訳がない」
 玲雄は敢えて虚勢を張ってみた。認めたくない、という気持ちも大きく働いている。認めるわけにはいかなかった。絶対に。
「あるよ、借用書。ここじゃなんなんで事務所行きましょうか」
 阿州は玲雄の背中を掴んで強引に連れて行こうとする。百八十五センチの腕力はそう簡単に振り解けない。高校時代にアメリカンフットボールで鍛え上げた阿州の肉体は四十四歳の今でも衰えを知らず、痩せ細った玲雄は従うほかなかった。
 ジャーン。
 Aマイナーの和音がけたたましく鳴り響いた。阿州が思わず振り返った隙に玲雄は渾身の力で払いのけると座り込む絵梨の手を掴み一目散に駅の改札方面に逃げだした。
 不意を突かれてその場に倒れる阿州を見下ろしながら文が声高に尾崎豊の『愛の消えた街』を歌い始める。
『道端に倒れた様に眠る人がいるよ 一度は目にするが すぐに目をそらして通りすぎる』
 すぐに起き上がった阿州は「るせんだよ!」と怒りに任せて文の脇腹を思いっきり殴った。そして猛ダッシュで逃げる二人を追い掛ける。かつては百メートルを十一秒フラットで走った快速クォーターバックは賑わう夜の人混みを掻き分けながら徐々に差を縮めていく。いつもなら走りには絶対に自信がある絵梨だが、まだ全身に血が通っておらずなかなか思うように足が動かない。懸命に手を引っ張ってリードする玲雄も脚力は知れていた。二十メートル、十メートル、五メートル。そして手を伸ばせば絵梨は射程圏内。もう駄目だ。直感的に玲雄は絵梨の手を離し、Uターンして阿州と正面衝突した。勢いよく突っ込んでくる阿州に自らの頭をぶつける。衝撃で双方は倒れ込み、帰宅する人で溢れる改札前が突然の出来事に騒然とした。
「絵梨、逃げろ!」
 一旦は立ち止まった絵梨だが、その言葉に反応して再び走り出した。車が往来する甲州街道を無数のクラクションを浴びながら横断し、雑踏の中に姿を消していったのである。その頬には大粒の涙が流れていた。
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