第5話

文字数 7,196文字

 その電話は昼休憩を狙い澄ましたかの様に掛かってきた。
 五反田駅前のセルフうどん店で一杯290円のかけうどんをすすっていた絵梨はスマートフォンの着信に気がつくと動転したかのように噎せ込んだ。セミロングの茶髪をワックスで逆立てた端正な顔立ちの男の画像と共に『悠斗』の文字が画面に浮かび上がる。
 口の中の麺を慌てて噛み砕き水で喉に流し込んだ絵梨は大きく深呼吸して通話ボタンを押した。
「もしもし、絵梨ちゃん。悠斗だけど」
 受話器の向こう側から甲高い声が響いた。
「わ。悠斗から電話くれるなんて、嬉しい」
 絵梨は目を輝かせた。それもそのはず。相手は最近熱を入れているホストである。歌舞伎町『A・KILLER』で最近頭角を現してきた若手注目株。メールの返信はあっても、向こうから直接電話してくることは未だかつて無かった。
「最近忙しいの? もう三週間も遊びに来てくれてないじゃん」
 甘えた口調でグイグイと押してくる。
「ゴメンね。私も悠斗に会いたいんだけど、なかなか……」
 奥歯に物が詰まったような言い方で絵梨は伸びていくうどんの麺を見つめた。お金が無いなんて絶対に口に出来なかった。実際、最近の飲み代は全て悠斗のツケにしており、月末には支払わなければならなかった。
「覚えてる? 俺さ、今日誕生日なんだけど」
「え、あ、今日だっけ。おめでとう!」
 誕生日を忘れられたことを拗ねている様子の相手に絵梨はすっかりペースを乱されていた。
「ありがとう。でも、言葉だけじゃ物足りないな。今晩さ、店来れる?」
 山形訛りの人懐っこい口調が絵梨のハートを侵食していく。少しの間躊躇した彼女は目を瞑ると決心したように頷いた。
「うん。じゃ、行くね。あ、そうだ。プレゼント、何か欲しいものとかある?」
 同じ東北でもこちらは青森のイントネーション。甘ったるい喋り方は三十路を目前に控えているとは到底思えない。
「あるある! えっとね、クロノマット 44 エアボーン。知ってる?」
「え、何それ?」
「腕時計。前から狙ってるんだけど、結構するんだよね」
 もしこれがテレビ電話なら仕掛けた罠に獲物が掛かる様子をニヤニヤと楽しんでいる下衆な顔に幻滅するだろう。しかし恋する乙女の心境に浸りきっている絵梨には相手の本心など見抜く余裕など全く無かった。制服の胸ポケットからボールペンを取り出し紙ナプキンに品名をメモするとその横に幾つもハートマークを書き足した。
「いいよ、買ったげる。その代わり今晩は私から離れないでよ」
 新加 絵梨、二十九歳。彼女の職務経歴書は全て非正規社員のキャリアで埋め尽くされる。長くて一年、短い時は一ヶ月。色んな職場を転々として今日まで東京で生き延びてきた。
 千八百円の時給、と言っても人材派遣会社に四割のマージンを抜かれているので実際は大した手取りにはならない。しかし周りからはあくまで千八百円分の戦力として見なされる。短期ということもあり人間関係も築けず、定時の間は息の詰まる思いで業務をこなすだけの毎日。
 そんな心の拠り所がホストクラブだった。
一人で飲むのも寂しいからと、何となく入った店が『A・KILLER』で、その時たまたま着いたのが悠斗だった。最初こそその軽いノリに戸惑ったが、ホスト特有の気配りと絶妙な話術にすっかり乗せられ、気がつけば永久指名をしてしまっていたのである。
 それからというもの週に二~三回のペースで通い続け、給料の殆どをその店で費やした。当初は現金払いだったが、悠斗の名前で売掛が出来ることを知ると、いつしかそのシステムに頼り切っていた。今月も二十万円以上のツケが残っている。
 今いる保険会社のアシスタントも三ヶ月の契約期間がまもなく終了。次の派遣先はまだ決まっていない。銀行の口座残高もとうとう一万円を切り、コンビニのATM手数料すら惜しくなってきた。
 ツケを支払ったらしばらくホストクラブ通いはやめよう。そう決めていた矢先だけに彼女の迷いも大きかった。
 いつものように定時で仕事を切り上げ、山手線で新宿駅まで出ると、彼女は百貨店の宝飾品売り場に向かった。
 悠斗がリクエストしたその腕時計はガラスケースの中に眠っていた。ブライトリング、七十四万七千円。もはや思考回路は木っ端微塵にショートしていた。給料三か月分のその品をケースから出してもらうとここ数ヶ月自重していたクレジットカードを店員に差し出した。二十四回の分割払い。月にして三万千百二十五円、さらには手数料が新たに発生することになる。それでも買う、と決心した。
「お客様、大変申し訳ありませんが、こちらのカードはご使用になれないようです」
 フロアマネージャーがマニュアルに沿った丁寧な応対を見せる。ローンの支払いが度々滞り、収入も不安定な顧客に対して信販会社は当然の判断を下した。もちろん絵梨もこの事態は大方予想していた。
「すみません、ちょっとお金を下ろしてきますので三十分ほど待ってもらえますか」
 そう告げると、彼女はエスカレーターを駆け下り、百貨店を出ると通り沿いの雑居ビルへと向かった。テレビCMでよく目にする消費者金融会社のロゴが各階の窓に踊っている。
 その中でも比較的審査が緩いとされているキャッシング会社を見つけ、無人契約機の自動ドアを開けた。
「おかあさん、ゴメン。私、やっぱりダメな子です」、心の中で天国にいる母親に手を合わせる。
 僅か三畳ほどの個室にはタッチパネル式の大きなモニターが鎮座しており、絵梨はとてつもない圧迫感を覚えた。
 ドアに鍵をかけて椅子に座り中を見渡す。しばらくすると設置してある契約の申込書に必要事項を記入するよう音声ガイダンスが流れた。
 絵梨は言われるがまま空欄を埋めていく。氏名、住所、電話番号、勤務先、年収。嘘を書いたらちゃんと見抜くのかな、と思った。今住んでいるアパートは再来月が賃貸契約更新となっており、退去も考えている。携帯電話も一旦解約し、別の会社に新規で申し込めばキャッシュバックもある。勤務先といっても所詮は派遣元だし、仕事もあったり無かったりだから年収も適当だ。そもそも非正規社員にホイホイと融資などしてくれるものなんだろうか。色んな思いを巡らせながら申込書と運転免許証ををスキャナーにセットした。
 待つこと数分。店内の時計はちょうど午後七時を告げた。
「お客様、ちょっと宜しいでしょうか?」
 店内に備え付けのインターホンから男性の声が聞こえてきた。
「ただいま審査を行っておりますが何点か確認事項がございまして」
 不安は的中していた。正規雇用ではない彼女への審査は当然のように厳しく、クレジットカードの返済遅延を起こしていることや年収に大きなバラつきがあることを理由に当日中の融資は困難であることを告げられた。
 このまま諦めて家路に着けば彼女の人生は全く違っていたかもしれない。しかし、悠斗と交わした約束を守ることがプライオリティになっていた絵梨はどうしても今日中にクロノマット 44 エアボーンを贈り届けたかった。その資金を確保するためにもう手段は選んでいられない。
 『無審査 即金融資 諦めていた方 ご相談ください』、契約機の脇にさりげなく置いてあった白黒コピーのチラシを彼女は見つけていた。
 バニラクレジット。所在地も電話番号もそこには書かれていない。記載されたメールアドレス宛てに空メールを送ると場所が伝えられる仕組みだった。
 藁にもすがる思いで携帯電話からメールを送信するとすぐさま返信があった。ちょうどこのビルの七階ではないか。
 彼女はすぐさまエレベーターに乗り込んだ。相当長い年月酷使されているのかモーター音は異常なくらい大きい。雑居ビル特有の濁った空気を鼻腔に感じながら絵梨は表示ランプが一つづつ上昇するのを目で追った。
 チン、という鈍い音と共にドアが開くと薄暗い蛍光灯が出迎えた。通路の向かいは四つの扉が並んでおり、右端にバニラクレジットの看板が見えた。
 静まり返った廊下にハイヒールの足音を響かせながら店の前に立つ。ノックをする間もなく、室内からドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
 紺色のスーツを纏ったオールバックの男が絵梨を中へと招き入れる。事務机と応接用テーブル、そして革張りのソファーがあるだけの殺風景な室内。窓際ではもう一人の男が眼下に広がる新宿の街を見下ろしながら携帯電話で何やら話している。
 オールバックの男が指で合図を送るともう一人は軽く頭を下げて退室した。いずれにしても尋常ではない雰囲気。堅気ではないことは勘の鈍い絵梨でも粗方察しがついた。
「あのさ、今すぐ百万円って貸してもらえるの?」
 単刀直入に切り出した。完全な開き直りである。
 男はこの会社を経営する社長であった。本名不詳・通称は阿州 虎次、四十四歳。新宿区を拠点とする指定暴力団の傘下組織に所属し、場所を転々としながら違法な金融業を営んでいる。もちろん貸金業協会には加盟していない。
「ウチ、トゴですけどそれで良ければ」
 トゴというのは10日で5割の金利を払う契約を指す。年利にして実に1,825%。法定金利を遥かに上回る完全な違法行為だ。
 もちろん絵梨にはその意味が分からない。ただ利子が他の消費者金融よりも高い、という程度の認識だった。
「もう何でもいいから早く貸して。急いでいるから」
 あまりの生意気な口の利き方に阿州は睨みを効かせた。
「これ全部書いて。あと身分証明と携帯電話出してよ」
 荒々しい喋り方で本性を現すとテーブルの上に契約書と金銭借用証書、さらに誓約書を置いた。そして絵梨から免許証と携帯電話を預かると中のデータをパソコンに全てコピーした。
 日付も借り入れ金額も利率も記載の無い契約書に自分の連絡先や実家の住所・電話番号を書き入れていく。誓約書には『弁護士を頼まない』、『債務整理をしない』といった言葉が並んでいる。そこにも絵梨は何の疑いも無くサインをした。
「はい。これでいいでしょ。急いでるから早く貸してよ」
 興奮するとつい出てしまう青森のイントネーションで彼女は作成した書類を突き返した。
 阿州は一通り内容を確認すると金庫から百万円の束を取り出し、テーブルの上に積み上げた。
「先に利息分引いて渡すところもあるが、うちは良心的だから全額貸す。じゃ、再来週の火曜日までにここへ百五十万円振り込んで。まさかとは思うけど遅れるとヤバイよ」
「はいはい。どうも」
 挨拶もそこそこに絵梨はテーブルの百万円をバッグに詰め込み、百貨店へと急いだ。蛍の光のメロディーに乗って閉店のアナウンスが流れる館内を走り、宝飾品売り場で先ほどのフロアマネージャーを呼び寄せる。そしてバッグからこれ見よがしに札束を取り出し、七十五枚を数えて渡した。
 そして三千円の釣り銭とラッピングの施された腕時計の入った手提げを受け取ると一目散に店内を後にした。
 サラリーマンやOLでごった返す靖国通りを何度も転びそうになりながら走り抜け、華やかな夜のネオンが煌く歌舞伎町に着くと、膝に手をついてハァハァと息を切らした。そして思い出したように近くの生花店へと立ち寄った。
「あれ、ひょっとして悠斗君?」
 この店で何度か花を買っていることもあり、主人は絵梨の顔を覚えていた。
「そう。今日は彼の誕生日なんです」
「知ってるよ。さっきも別の子が話してたから」
 つい口を滑らせた主人の一言で絵梨の表情はみるみる曇っていく。
「彼、バラが好きなんだって? さっきの子は五十本買っていったよ」
「あ、そう。じゃ、百本お願いします」
 絵梨は負けじと真紅のバラ百本と白いかすみ草の花束を注文した。まだ二十五万円もの大金が財布に入っているだけに即決である。
 ここで七万円を支払い、自分の顔が隠れるほどの花束を抱えた絵梨は一ヶ月ぶりに『A・KILLER』の入り口を潜った。暗い店内をカクテル光線が飛び交い、まるで地鳴りのようにトランス系の音楽が重低音を響かせている。
「お待ちしてましたよ、新加さん。さ、どうぞこちらへ」
 受付の内勤ホストに案内され中に入ると、既に店内はドレスアップした常連客で溢れ返っていた。
 ホールに設置された大型ディスプレイには『悠斗 バースデースペシャルナイト』と映し出され、本来なら客をもてなす立場の彼が完全に主役として持て囃されていた。
 後輩ホストの雁田から耳打ちされた悠斗は他の客との会話を切り上げると絵梨に手を振って出迎えた。
「絵梨ちゃん、ありがと、来てくれて」
 昼間も聞いた甲高い声。一番端のテーブルにエスコートすると一瞬肩を抱き寄せる素振りでサービスした。
「すごい花束だね」
 たくさんのお祝いの花束が並ぶ中、そのボリュームは確かに群を抜いていた。
「でしょ。真紅のバラが好きだって聞いてたから。百本」
 絵梨は得意そうな顔を見せた。何だか久し振りに人前で笑った気分だった。
「あとさ、これ。欲しいって言ってたヤツ」
 手提げからラッピングされた小箱を取り出し両手で大切に抱えるとそれを渡す素振りを繰り返す。完全に純情な少女時代へと戻っていた。
「ちょっと何なに。もしかして……」
「はい。お誕生日、おめでとう」
 七十四万七千円の腕時計、ブライトリングのクロノマット 44 エアボーン。今までの人生の中で一番高い買い物である。とにかく悠斗の喜んでくれる顔が見たい、それだけのために紆余曲折を経て借金まで背負った。
「わ、ホントに買ってくれたんだ。サンキュー」
 感想はこれだけだった。同じテーブルに着いた後輩ホストが追い打ちをかける。
「おー、今日四本目。悠斗さんて本当に腕時計好きですね」
「まあな」
 二人の談笑に絵梨は切なさを隠し切れなかった。こっちは客で来てるのにどうしてこんな気持ちにならなければいけないんだろう。タンブラーの氷をマドラーで音が立つくらいに攪拌し、自分の気持ちを表現した。しかし主役は忙しい。彼女に構う余裕も無く、呼ばれるがままに次のテーブルへと移動する。
「はい、三倉様のご来店です」
 先ほどまでには無かった一際大きなアナウンスが店内に響く。絵梨が持参した花束のさらに上をいく五百本の真紅のバラの花束を複数のホストが店内へと運び入れる。その後から毛皮を纏った厚化粧の中年女性が入ってくると悠斗は両手を広げて彼女を抱き締めるパフォーマンスを見せた。
 この業界では月に百万円以上の金を店に落としてくれる顧客を太客と呼ぶ。さらに上玉は極太として絶対的な扱いを受ける。この三倉という女性はまさにそれだった。
「悠斗、誕生日おめでとう」
 耳元で囁くように呟くと、彼女は用意してきたプレゼントを差し出した。
「え、いいの? これ俺が欲しかったヤツじゃん。うわ、嬉し」
 そう無邪気に騒いでクラウンマークが刻まれたベージュ色のボックスを開き、ロレックスのコスモグラフ デイトナを誇らしげに周囲に見せびらかせた。光を受けて艶かしく輝く18金イエローゴールドとステンレスのボディ。市価で百四十万円はする人気モデルだった。
「気に入ってもらえてよかった。じゃ、ご祝儀にゴールド頼もうかしら」
 三倉はこの店で五十万円するドン ペリニヨン ラ・ベイ、通称ドンペリ・ゴールドのボトルをオーダーした。
「はい、金ドン入りました!」
 店内は大きな拍手で包まれ、やがてそれは手拍子となって激しく盛り上がっていく。
 テーブルに一人取り残されたオンリー状態の絵梨はその様子を唇を噛み締めながらじっと眺めていた。ここに居る誰もが麻痺している、と思った。私だけの悠斗はもう居ない。
見えるのはスポットライトを浴びて気配りも出来なくなった勘違いホスト。大切な何かが音を立てて瓦解していくのを感じた。あんなに楽しいと思えたこの場所が今は苦痛で仕方がない。ドンペリコールも醒めてしまえば単なる乱痴気だ。
「ねえ、プラチナって置いてる? 皆んなで悠斗に乾杯しよ」
 場内の熱気が一旦静まるのを待っていた絵梨は隣りに座る若手ホストの雁田に呼び掛けた。
「え、マジっすか?」
 案の定、そのリアクションは凄まじいものがあった。
 白・ピンク・ゴールドの順で値段が跳ね上がるドンペリの中でも最高級なのがプラチナと呼ばれるエノテークの年代もの。その金額はボトル1本で七十万円になる。
 その話を聞きつけて悠斗も再び絵梨の隣りに戻ってきた。
「絵梨ちゃん、おしょうしな」
 ここぞとばかりに山形弁で感謝を告げると悠斗は立ち上がって周りのホストを絵梨のテーブルに集めた。完全にスター気取りだ。自分は主役で、他のホストは脇役。客は所詮自分のファン程度にしか思っていないんだろう。客を楽しませるのではなくて、客に楽しませてもらっているんじゃないか。煽るだけ煽っておいて、毟り取る。いったい何なんだ、ホストって。
「さあ、プラチナの登場です」
 店内には再び手拍子が巻き起こった。運ばれてきたプラチナを8オンスタンブラーグラスに注ぐ。絵梨と悠斗、そしてホスト全員。計十二杯。
「え、では。悠斗さん、誕生日、あ、おめでとうございま~す」
 若手ホストが威勢良く音頭を取り、グラスをぶつけ合う激しい乾杯が行われ、全員が一斉に飲み干した。
「調子ぶっこいてんじゃねえよ!」
 その瞬間。絵梨は卓上のアイスペールを掴むと氷ごと悠斗の顔にぶっかけた。そしてその場に居合わせた全員が呆気に取られる感に猛スピードで店の外へと飛び出して行く。
「おい、何してんだ! 捕まえろ!」
 面子を潰された悠斗の怒声が店内に響き、ホスト連中が一斉にその後を追い掛ける。
 中学・高校と六年間陸上部で鍛えた彼女の脚力は柔なホスト連中には捕まらない絶対の自信があった。さながら夜の歌舞伎町で繰り広げられる大運動会。こうして絵梨は新宿の街の中で姿を消した。
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