第10話

文字数 1,602文字

桜上水駅の改札を出て徒歩二分。目的地はわかりやすい場所にあった。おそらく自分が生まれる以前に建てられたであろう時代を感じさせる外観のビル。開業医が営む脳神経外科の個室ベッドに初台は横たわっていた。傍では妻の麻里がグレープフルーツの皮を剥いている。
「失礼します、七瀬です」
 ゆっくりとドアを開け、周りを見渡しながら文は入室した。
「早かったな、道、空いてたか?」
 壁時計を眺めながら初台が声をかけた。先ほどの電話から十五分も経っていない。
「いや、タクシー代もったいないんで電車で来ました」
 全身ずぶ濡れの文に麻里は慌ててタオルを差し出した。
「そんな気にしなくていいのに。今、働いてるのか?」
「いえ、無職です。部屋も、引き払いました」
 水の滴る長い髪をゴシゴシとタオルで拭きながら文は平然と答えた。
「それでも夢を追い求める覚悟はあるのか?」
「はい。チャンスだと思ってるので」
 二人の会話を麻里は黙って聞いている。これまで何百人もの若い才能を彼女も見てきた。しかし初台が素質を開花させることが出来たのはほんの数人。残りは皆、夢破れて道を諦めた。彼くらいの年齢ならまだ働く先もあるだろう。『生きていくための優先順序が違うのでは』、初台と結婚するまで大手食品メーカーのOLだった麻里には未だに夢追い人の心情が理解できない。
「じゃあ、歌ってみて」
 こんな場所でギターを掻き鳴らして大丈夫なのだろうか。緊張も相まって掌から汗が噴き出す。まあ、いいや。禁止された場所で歌うのも慣れている。ハードケースからギターを取り出し、弦をチューニングしながら彼は腹を括った。ジャーン。Gコードを奏でてみる。綺麗な和音が出た。
『おとうさん ごめんね 僕は失敗作です あなたの期待に そえることなく ここまできました』
 発声練習の成果もあり、自分でも驚くほど歌えている。初台は目を瞑り黙って聴き入っていた。
『優秀な人間には なれませんでした 胸を張るような仕事にも つけませんでした』
「初台さん、ちょっと何の騒ぎ?」 
 案の上、年配の看護婦が血相を変えてドアから入ってきた。文は一瞬躊躇したが初台は黙って聴いている。麻里は両手を合わせて「ごめんね、一曲だけ」と目配せする。長い付き合いなのだろう。看護婦は仕方なく頷き部屋を出た。
『おかあさん あなたの 期待に反した 失敗作のまま おとうさん あなたの 意思に背いた 失敗作のまま』
 アルペジオで締めた文は歌い終わると深く頭を下げた。すると廊下からパチパチと拍手が聞こえてきた。先ほどの看護婦が、何事かと駆けつけた他の病室の患者が、そして医師達までもが彼の歌声を讃えた。
 麻里も柔和な笑みを浮かべている。それは辛口で鳴らす初台の感想を代弁するものでもあった。
「もうノイズではないな」
 真っ白な天井を見つめながら初台は呟いた。
「これ、応募してみろよ」
 ベッドの脇に置いていた愛用のショルダーバッグから一枚のチラシを取り出して文に手渡した。『ゲートウェイ・オブ・ドリーム 出場者募集』、カラフルな色遣いでロゴが踊っている。
「あ、これ去年も応募しました。一次で落ちたけど」
 文は苦笑いを浮かべた。前年の応募総数は主催者発表で千二百三十八組。以前に比べて権威は下がったとは言え、プロを目指す登竜門であることに変わりは無い。全国から実力のあるアマチュアミュージシャンが応募してくるだけに予選の壁は例年厚い。
「去年俺と知り合ってたら推薦枠で予選は免除できたんだけどな」
「そんなのあるんですか?」
「ああ。決勝に残ったBAXIMってバンドいただろ。あれ、俺がプッシュしたんだ」
 決勝に出れる八組のうち、三組は審査員特別枠である。これまで名残で初台にはその一枠が与えられていた。しかし、運営側から外された今、その枠も消滅してしまった。
「自力で掴み取れ。今の君ならきっと出来る」 初台は文の肩をギュッと掴んだ。
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