第18話 ホモ・サピエンス

文字数 2,418文字

 100メートルを九秒台で走れる人間は少ない。けれども、限界への挑戦はとどまることを知らず、微々たるものであっても、記録は塗り替えられ続けている。
 どこまで零秒に近づけるだろうか。
 八秒? 七秒?
 もしも、三秒というとんでもない記録を叩き出せるとしたら。
 それはもう人間ではないだろう。

 命を天秤にかけなくてはならない。
 テイラーの耳に、恐ろしい病気の話が飛び込んできた。
 それは報告者の名をとって、スマイサー型胎盤癌と呼ばれた。妊婦に発症する癌だった。胎盤に発生し、急速に周囲へ浸潤していく。血流に乗って全身に飛び、胎児にも転移する。血管新生が顕著で、激しい出血を引き起こすために手術が難しい。その癌はある地域で発見され、患者数を増やしていた。地域性があることから、なんらかの発癌物質への曝露か、ウイルスによって引き起こされたと見られていた。進行が早く、死亡率は九割近い。事態を重く見た世界保健機構は非常事態宣言を行い、世界中の研究機関と連携して、病原の究明に乗り出した。
 五ヶ月後、悪魔的といわれたこの病に朗報がもたらされる。
 ベネディクタル。 祝福 (ベネディクト)生命(バイタル)という単語を組み合わせて名付けられたその薬には、十分な治療効果が認められた。驚異的な速さで治療薬が開発できたことを、テイラーは神に感謝した。
 この時点で患者は五倍に増えており、亡くなったものを含めれば、その数は倍に上る。感染症であることは疑いがないと思われた。
 緊急承認されたその薬によって、死亡率は著しく減少した。さらには、諦めていた胎児の命までも救うことができた。
 テイラーには奇跡としか思えなかった。そして二十一年後、テイラーは嬉しい再会をする。
 元癌患者、サンドラの息子、アダムが妻と共に会いにきたのだ。ベネディクタルベイビーと呼ばれ、人類の勝利を象徴する存在が、父親になったのだ。妻のトレイシーもまたベネディクタルベイビーであった。
 ベネディクタルベイビーたちが家庭を持つ年齢になったこの頃、気がかりな報告が集まっていた。
 彼らの胎児は身体が大きく高い頻度で逆子であった。それ自体は十分に対処ができた。問題は出産後、生後三ヶ月目に起きる。
 母乳を受け付けなくなり、あらゆる栄養点滴も、その子の命を繋ぐことができなかったのだ。
 程度の差があり、ベネディクタルベイビー同士の子は予後が悪いとみて間違いなかった。
 覚悟したアダム夫妻だったが、思いがけない事実が判明する。
 生まれながらに歯の生えたある子どもが、たまたま親の指を噛み、その血を口にしたことで、体調が回復したのである。
 こうしてベネディクタルベイビーの子どもは週に二回の輸血を受けることで、生きて行けることがわかった。
 ここへきてベネディクタルの副反応が発覚する。ベネディクタルは胎児の生殖細胞に影響を与えていたのである。そして、ラミア症候群と名付けられた。
 伝承の中の怪物の名であるが、発端となったゴシップ記事に見せつけるようにして、患者たちがこの名を選んだ結果だった。
 アダム夫妻は息子、ジョシュアが命を繋いだことを神に感謝し、血液バンクの創設や支援ネットワークの確立に精力的に活動した。
 危機を乗り越えたかに見えた夫妻に、悲劇が襲う。
 ジョシュア一歳の誕生日だった。誕生日ごとにスプーンやフォークを一つずつプレゼントをして、カトラリーを揃える風習に倣って、銀のスプーンが送られた。早速銀のスプーンを口に運ぶ真似で記念写真を撮ろうとしたその時、ジョシュアの身体が崩壊した。小さな灰の山になってしまったのだ。
 銀の悪夢はエウリディケ反応と呼ばれ、以後、事故はほとんど発生していない。
 血液でしか栄養を取れないという不自由さから、血のつながった子どもを諦めるベネディクタルベイビーが多い中、更なる発見があった。
 ラミア症の程度が重いほど、身体能力が高いのだ。加えて、怪我をすることがほとんどない。
 やがて成長した子どもたちがスポーツの分野で目覚ましい活躍を見せるようになる。特徴として明記されてなかったが、医者たちは気づいていた。彼らはそろいもそろって、美しい。親よりも整った顔立ちをしていた。
 喜ばしいニュースは、大きな懸念事項へと姿を変えた。彼らの能力は尋常ではなかった。体格的に不利に見えても、技術で劣っていても、競技歴一日でチャンピオンとなってしまうのだ。
 人権と、協議の公平性が議論を呼んだ。
 ラミア症の選手によるジュニアユースの記録が保留となり、スポーツ競技において別枠を設けるという提案が反発を招いた。
 ラミア症候群患者会が声明を発表する。
「我々は人間だ。人類の記録に含めないのはおかしい」
 ラミア症は偶然手に入れた生まれつきの能力とみなして良いだろう。
 問題は、人工的に引き起こせることにある。遺伝子ドーピングはいずれ問題になると見られていたが、ベネディクタルの薬理を弱めれば、夢のような薬になるかもしれない。
 最新の検査で、ラミア症の人たちは老化が遅いということがわかっていた。
 テイラーは病院を辞め、研究所に職を得た。
 治療法を探すためだ。
 医療の基本から逸脱してでも、ラミア症をなくそうとしていた。
 懸命に研究に励んだテイラーだったが、ついに理解は及ばず、驚くべき事実を目の当たりにしただけだった。
 少量の血液でこれだけの活動ができる根拠は不明のままだ。
 ありえない。どうしてこんな状態で生きていられるのか?
 時は流れ、ラミア症の親を持つ子どもが誕生する。
 彼らは眠らなかった。
 スマイサー型胎盤癌患者のカルテを調べ直していたテイラーはある可能性にたどりつく。
 当時は喜びのあまり見逃していた。奇跡を受け入れたいという気持ちしかなかった。
 ベネディクタルはまさしく胎児の命を救ったのだ。死に損なったどころではない。
 胎児は一度死んでいた……?
 テイラーは命を寿げない自分にゾッとなった。
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登場人物紹介

バート(ハーバート・ヘンダウ)

吸血鬼を根絶やしにするべく気を吐く少年。

有力者一族の誇りを持っている。

ホリー

崩壊したコロニーからカウクリッツの村にやってきた少女。

疑問を見逃さない。吸血鬼胎児に懐疑的。

グレコ

カウクリッツの軍人。

面倒見がいい。

ロブ

ひ弱な青年。

事務の仕事をして過ごしたい。

エルベル

落ちこぼれのラミア(吸血鬼)。

感情豊かで優しい。

シモン

躍進目覚ましい次期領主。

使えるものはなんでも使う。

リシャール

生まれながらの支配者。

迷信に惑わされない合理的思考の持ち主。

ギョーム

愚か者として自由を手に入れた正直者。

バルカン

吸血鬼の国に所属する自称医者。

様々な研究している。

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