第9話 メイド
文字数 2,948文字
メアリーは心配で眠れなかった。遠征でシモンを亡くしてからというもの、エルベルはすっかり気力を無くしてしまった。食事を取ろうとしないのだ。
吸血鬼たちに相談を持ち掛けてもにべもない。本人の選んだこととして、受け入れるように勧告されてしまった。
この一大事の最中でも、メアリーはメイド長の勤めを果たさなくてはならない。
新人メイドが、メアリーの様子を静かにうかがっている。
先日、大勢の新しい人間が領民に加わった。その中に容姿端麗で、なおかつ心の落ち着いたものがいた。凛とした佇まいにこれはと思った。
吸血鬼の使用人を務めることは簡単なことではない。主人に不快な思いをさせてはならないし、また、あまり親しくしては他の吸血鬼に悪評を流されてしまう。吸血鬼を適度に恐れ、敬い、その美しさに浮かれない心が必要である。目障りにならない程度の容姿も求められた。たとえエルベルが気にしなくとも、周りの吸血鬼に嗤われるだろう。
娘が軍人であったことは気にかかるが、勤務歴は浅く、戦闘員ではない。吸血鬼への敵意も感じられなかった。
こうしてエルベルの邸宅のメイドに採用されたホリーは、初日の研修を終えると、早速口を出した。
「エルベル様の救命を私に任せていただけませんか」
メアリーは首を横に振った。
「あなたに務まるようなことではありません」
「以前、ガーデンのギョーム氏から血液との関係について、お話を伺ったことがございます」
「何を聞いたのですか」
「血液の摂取を怠ると、なんの前触れもなく死が訪れると」
メアリーは気が動転した。
「どれくらいの日数で危険なのかしら?」
「個人差が大きいそうです」
考え込むメアリーにホリーは畳み掛けた。
「救命法を教わっております。無理にでも血液を飲んでいただく手段がございます」
「どのような?」
「エルベル様の意識が朦朧とされていた場合、反射的に払い除けようとなさるでしょう。我々に怪我を負わせることは、きっとエルベル様にはお辛いことかと存じます。私は軍隊の訓練を受けていました。私にお任せください」
猶予がないかもしれない。メアリーはいてもたってもいられなくなって、許可を出した。
グラスに血液を用意して、急ぎエルベルの部屋に向かう。
寝台に横になっているエルベルの顔は、さらに青白くなっている。呼吸は微細で、遠目には死体と変わらない。
ホリーはエルベルの脇に立ち、サイドテーブルにグラスを置いた。危険だと言ってメアリーを下がらせると、自分の右手の親指の腹を噛み切った。そして素早くエルベルの跨ると、血の滴る指をエルベルの口へと突っ込んだ。
肝を潰したメアリーが叫ぶ。
「なんて無礼な! やめなさい!」
ホリーはかまわず左手でエルベルの頭を抑え込んだ。喉を満たす血で溺れそうになったエルベルは身を捩った。両手でホリーを突き放そうとするが、ホリーはびくともしない。弱っていても吸血鬼。閉じられた口に指を捩じ込めたこと自体驚きであり、ホリーは引き剥がそうとするメアリーにも動じなかった。
「誰か!」
というメアリーの声に、部屋の外で心配していた使用人たちが雪崩れ込んだ。
喘ぎながら、血を飲んでしまったエルベルは目を見開いた。
ーーやめてくれ! 僕は死にたいんだ!
ホリーと目が合う。
エルベルの鋭敏な味覚が、不思議な感覚を呼び覚ました。
なんだ? 少し、懐かしい?
驚愕するエルベル。気がつけば、普通に血を飲んでいた。十分に飲ませられたと判断したホリーは、取りつく使用人たちを身体に乗せたまま身を引いた。
メアリーが半狂乱になってエルベルに謝罪した。
「申し訳ございません! かような破廉恥な行為を許してしまったのは、ひとえに私の過ちでございます」
「いや、いいよ」エルベルはホリーの顔をまじまじと見た。「彼女は?」
メアリーは冷や汗を流した。
「カウクリッツという村から来た娘でございます。まさかーー」
「メアリー、大丈夫だよ。僕は彼女に聞いているのだ」
ホリーはうっすらと笑った。
「私はホリー。何か感じ取ったようだな。説明はいらないだろう」
エルベルは問うた。
「どういうことだい? 君、その力は……」
「私は探している。どうやら答えは人間側にはないらしい」
「僕たちが持っているというのかい?」
「持っていないのか?」
エルベルの脳裏に、日記の存在がよぎった。
逡巡するエルベルに、ホリーは確かな感触を得た。
「持っているのだな?」
「……いいや、でも、可能性はあるかもしれない」
口周りが血まみれになったエルベルを気づかって、使用人たちがタオルと水の入った容器を持ってくる。衝立が広げられ、世話を受けるエルベル。その間にホリーを遠ざけようとするメアリーを、エルベルは呼び止めた。
「彼女に話があるのだ」
気を揉むメアリー。
エルベルは憂慮するメアリーたちをなだめて、ホリーと二人で部屋に残った。
さっきまで衰弱していたというのに、血を口にしたせいですっかり回復している。
ホリーが切り出した。
「私の祖母の一人は吸、ラミアだ。その娘である母はなかなか歳を取らないように見えたらしい」
「夢にも思わなかったよ。そのようなことがあるとは」
「国においても、ラミアと人間の間に子どもが生まれていると聞いたが?」
「まさか」面食らうエルベル。「そのようなことはないだろうね」
「エルベルの父親と母親はどうしている?」
エルベルは呼び捨てにされてたじろぎ、質問の内容に首を傾げた。
「僕らは神様がおつくりになったんだよ」
「それはありえない」
「どうしてだい?」
エルベルの顔には微塵も疑いが浮かんでいない。
「まあいい。何か心当たりがあるようだったが」
「ああ、そうだね……。とてもデリケートなものなのだけれど、シモンが遺したものだから、きっと何かあるのだ」
そう言って、エルベルは涙ぐんだ。どうせ死ぬのなら、読んでから死んだ方がいい。
エルベルは机の引き出しの中から、日記を取り出した。
ホリーが身体を寄せてくる。
「これはなんだ?」
「に、日記だよ」
距離を取るエルベルに、ホリーはピッタリとついてくる。
「古そうだな。名前が出たシモンというラミアの日記か?」
「違うよ。彼の前に領主、イノサン侯爵の日記だ」
「私は文字が読めない。読んでくれ」
「も、問題のない部分なら」
いざ読むとなると、気が咎めた。
彼女が文字を読めなくて良かったと安心しつつ、エルベルは表紙をめくった。
手が止まり、再び視線を走らせたエルベルは、恥ずかしさで頭が真っ白になった。
「……はあ」
「どうした?」
言わなければならない。エルベルは告げた。
「読めない……」
「古い文字なのか? 暗号か?」
「わ、わからない。変な感覚だ。シモンが僕に勧めたんだ。読めないわけがないのに」
落ち込むエルベルを見て、ホリーは悟った。
忘れてしまったのかも知れない。よりにもよって、文字を読む能力が欠落してしまうとは。
国で使われている言語と文字はホリーたちと大して変わらない。だが、メアリーたちに吸血鬼の日記を読ませるのは難しそうだ。
ホリーは独り言を呟いた。
「ロブは別の領地だ……」
文字が読めて、なおかつ協力させても平気な人間。
なんとしても探し出さなくてはならない。
なんとしても。
吸血鬼たちに相談を持ち掛けてもにべもない。本人の選んだこととして、受け入れるように勧告されてしまった。
この一大事の最中でも、メアリーはメイド長の勤めを果たさなくてはならない。
新人メイドが、メアリーの様子を静かにうかがっている。
先日、大勢の新しい人間が領民に加わった。その中に容姿端麗で、なおかつ心の落ち着いたものがいた。凛とした佇まいにこれはと思った。
吸血鬼の使用人を務めることは簡単なことではない。主人に不快な思いをさせてはならないし、また、あまり親しくしては他の吸血鬼に悪評を流されてしまう。吸血鬼を適度に恐れ、敬い、その美しさに浮かれない心が必要である。目障りにならない程度の容姿も求められた。たとえエルベルが気にしなくとも、周りの吸血鬼に嗤われるだろう。
娘が軍人であったことは気にかかるが、勤務歴は浅く、戦闘員ではない。吸血鬼への敵意も感じられなかった。
こうしてエルベルの邸宅のメイドに採用されたホリーは、初日の研修を終えると、早速口を出した。
「エルベル様の救命を私に任せていただけませんか」
メアリーは首を横に振った。
「あなたに務まるようなことではありません」
「以前、ガーデンのギョーム氏から血液との関係について、お話を伺ったことがございます」
「何を聞いたのですか」
「血液の摂取を怠ると、なんの前触れもなく死が訪れると」
メアリーは気が動転した。
「どれくらいの日数で危険なのかしら?」
「個人差が大きいそうです」
考え込むメアリーにホリーは畳み掛けた。
「救命法を教わっております。無理にでも血液を飲んでいただく手段がございます」
「どのような?」
「エルベル様の意識が朦朧とされていた場合、反射的に払い除けようとなさるでしょう。我々に怪我を負わせることは、きっとエルベル様にはお辛いことかと存じます。私は軍隊の訓練を受けていました。私にお任せください」
猶予がないかもしれない。メアリーはいてもたってもいられなくなって、許可を出した。
グラスに血液を用意して、急ぎエルベルの部屋に向かう。
寝台に横になっているエルベルの顔は、さらに青白くなっている。呼吸は微細で、遠目には死体と変わらない。
ホリーはエルベルの脇に立ち、サイドテーブルにグラスを置いた。危険だと言ってメアリーを下がらせると、自分の右手の親指の腹を噛み切った。そして素早くエルベルの跨ると、血の滴る指をエルベルの口へと突っ込んだ。
肝を潰したメアリーが叫ぶ。
「なんて無礼な! やめなさい!」
ホリーはかまわず左手でエルベルの頭を抑え込んだ。喉を満たす血で溺れそうになったエルベルは身を捩った。両手でホリーを突き放そうとするが、ホリーはびくともしない。弱っていても吸血鬼。閉じられた口に指を捩じ込めたこと自体驚きであり、ホリーは引き剥がそうとするメアリーにも動じなかった。
「誰か!」
というメアリーの声に、部屋の外で心配していた使用人たちが雪崩れ込んだ。
喘ぎながら、血を飲んでしまったエルベルは目を見開いた。
ーーやめてくれ! 僕は死にたいんだ!
ホリーと目が合う。
エルベルの鋭敏な味覚が、不思議な感覚を呼び覚ました。
なんだ? 少し、懐かしい?
驚愕するエルベル。気がつけば、普通に血を飲んでいた。十分に飲ませられたと判断したホリーは、取りつく使用人たちを身体に乗せたまま身を引いた。
メアリーが半狂乱になってエルベルに謝罪した。
「申し訳ございません! かような破廉恥な行為を許してしまったのは、ひとえに私の過ちでございます」
「いや、いいよ」エルベルはホリーの顔をまじまじと見た。「彼女は?」
メアリーは冷や汗を流した。
「カウクリッツという村から来た娘でございます。まさかーー」
「メアリー、大丈夫だよ。僕は彼女に聞いているのだ」
ホリーはうっすらと笑った。
「私はホリー。何か感じ取ったようだな。説明はいらないだろう」
エルベルは問うた。
「どういうことだい? 君、その力は……」
「私は探している。どうやら答えは人間側にはないらしい」
「僕たちが持っているというのかい?」
「持っていないのか?」
エルベルの脳裏に、日記の存在がよぎった。
逡巡するエルベルに、ホリーは確かな感触を得た。
「持っているのだな?」
「……いいや、でも、可能性はあるかもしれない」
口周りが血まみれになったエルベルを気づかって、使用人たちがタオルと水の入った容器を持ってくる。衝立が広げられ、世話を受けるエルベル。その間にホリーを遠ざけようとするメアリーを、エルベルは呼び止めた。
「彼女に話があるのだ」
気を揉むメアリー。
エルベルは憂慮するメアリーたちをなだめて、ホリーと二人で部屋に残った。
さっきまで衰弱していたというのに、血を口にしたせいですっかり回復している。
ホリーが切り出した。
「私の祖母の一人は吸、ラミアだ。その娘である母はなかなか歳を取らないように見えたらしい」
「夢にも思わなかったよ。そのようなことがあるとは」
「国においても、ラミアと人間の間に子どもが生まれていると聞いたが?」
「まさか」面食らうエルベル。「そのようなことはないだろうね」
「エルベルの父親と母親はどうしている?」
エルベルは呼び捨てにされてたじろぎ、質問の内容に首を傾げた。
「僕らは神様がおつくりになったんだよ」
「それはありえない」
「どうしてだい?」
エルベルの顔には微塵も疑いが浮かんでいない。
「まあいい。何か心当たりがあるようだったが」
「ああ、そうだね……。とてもデリケートなものなのだけれど、シモンが遺したものだから、きっと何かあるのだ」
そう言って、エルベルは涙ぐんだ。どうせ死ぬのなら、読んでから死んだ方がいい。
エルベルは机の引き出しの中から、日記を取り出した。
ホリーが身体を寄せてくる。
「これはなんだ?」
「に、日記だよ」
距離を取るエルベルに、ホリーはピッタリとついてくる。
「古そうだな。名前が出たシモンというラミアの日記か?」
「違うよ。彼の前に領主、イノサン侯爵の日記だ」
「私は文字が読めない。読んでくれ」
「も、問題のない部分なら」
いざ読むとなると、気が咎めた。
彼女が文字を読めなくて良かったと安心しつつ、エルベルは表紙をめくった。
手が止まり、再び視線を走らせたエルベルは、恥ずかしさで頭が真っ白になった。
「……はあ」
「どうした?」
言わなければならない。エルベルは告げた。
「読めない……」
「古い文字なのか? 暗号か?」
「わ、わからない。変な感覚だ。シモンが僕に勧めたんだ。読めないわけがないのに」
落ち込むエルベルを見て、ホリーは悟った。
忘れてしまったのかも知れない。よりにもよって、文字を読む能力が欠落してしまうとは。
国で使われている言語と文字はホリーたちと大して変わらない。だが、メアリーたちに吸血鬼の日記を読ませるのは難しそうだ。
ホリーは独り言を呟いた。
「ロブは別の領地だ……」
文字が読めて、なおかつ協力させても平気な人間。
なんとしても探し出さなくてはならない。
なんとしても。