第96話 胃がんの告知

文字数 2,994文字

 再び、彼が従前のように私のマンションを訪れるようになり、幸せな毎日が戻ってきていた。浮気じゃないかと不安になったこともあったが、そんな気配もなく私をたくさん愛してくれている。あっという間に浮気疑惑事件から1年近くが経っていた。

 木曜日の夕方、彼が私の家にやってきた。食事を済ませたあとベッドでいつものように愛し合って幸せなひと時を過ごしていた。
 抱き合ったまま、うとうとしたあと、何気なく思い出したように彼が突然、「僕ガンになった」と言った。「え〜っ!」私は、裸のままベッドの上で飛び上がってしまった。

「この前の検診で、胃がんだって診断された」
「大変じゃない! さり気なく言う話じゃないでしょ」
「早期発見だから、手術すれば大丈夫だって」
「そうなの? 良かった~! 心配ないのね? 吃驚(びっくり)したわよ」
 私の目には、涙が滲んでいた。大丈夫だと聞いても、涙が止まらない。彼にもしものことがあったら、どうすればいいの?
「来週入院して手術することになった。だから、当分ここへは来られない」
「そんな大変なことなんだもの、無理なんてしないでね」
「仕事を休む準備とかしないといけない。入院までに、もう一度くらいは来られると思う」
「うん。ベッドで話をする内容じゃないわよねぇ。起きるわ」
「シャワーしてくる」
 二人でシャワーを済まして、着替えるとソファに座った。
「コーヒーは飲まない方がいいわよね?」
「いや、大丈夫。コーヒーがいい」
「じゃ、淹れてくるわね」

「自覚症状は無かったの?」
「特に無かったのよ。シンプルに検診で引っ掛かって、精密検査したら悪性腫瘍だと言われた」
「怖いわね。それで、手術して除去したら心配ないの?」
「転移さえしてなければ大丈夫。まだ、本当に早期発見だから、心配ないと医師が言ってた」
「でも、念のため、抗がん剤とかを注射したりするんじゃない?」
「その場合は、副作用で頭が一時的に禿げるんだよねぇ」
「皆さん、帽子を被るみたいよね。それより、吐き気とかが大変なんじゃないかなぁ」
「そうよねぇ。でも、僕のは早期でリンパへの転移はなさそうだから、内視鏡で済むみたい」
「あ、そうなんだ。良かったね。じゃ、入院は短いの?」
「入院して検査してみないと分からないけど、多分全部で10日くらいじゃないかな?」
「あら、案外短いのねぇ。じゃ、抗がん剤なんて使わないのよね?」
「多分ね。検査の結果次第では、開腹手術になるかも知れない。転移があればね」

「私に何かできることある?」
「大丈夫。特に何もない。本当に早期発見だから、医者からも気軽に告知されたくらいだもの」
「手術が済んでから、お見舞いに行ってもいい?」
「いいけど、一人では来ない方がいいと思う」
「学生たち数人を連れて行くわ。学科長の入院だもの、お見舞いは当然でしょ? 他の先生も行くかもだし」
「学校には、仕事を休むから、当然知らせる。だから、他の先生たちも知ることになる」
「来週の手術だから、明日にも学校へ届けるのよね?」
「うん。その予定」
「私たちに知らされるのは、来週の月曜日だね」
「多分、そうなる」
「私は、その時に初めて知って驚いた振りをするわ」
「見舞に来てもいいとかの判断も含めて、どうやって情報を流すかだよね」
「私にLINEで連絡したなんて言えないものね」
「矢野先生に伝えてくださいなんてことも言えないしねぇ」
「ゼミの子に連絡したら? そしたら、私のゼミにも流れてくる。昔の話だけど、研究会をした仲だからね」
「そうだね。うちのゼミの子に連絡入れる。でも、研究会を知ってるのは一人か二人程度だよ」
「じゃ、その子に連絡を入れて。事務から入院情報が流れたら、近藤ゼミの子に連絡して、お見舞いに行くから情報を流すように頼むわ」
「うん。分かった。嬉しいなぁ。若い子たちと美人の矢野先生が見舞に来てくれるなんて」
「ちょっと、病気を喜ぶようなこと言わないでよ」
「あはは、それくらい軽い気持ちなんだよ」
「良かった。それくらい軽口言えるなら。美女軍団がお見舞いに行くわね」
「ありがとう。入院が楽しみになったよ」
「もう何を考えてるのやら」

 今更なのだけれども、こういうことがあっても、私は何もできないのが辛いと思った。できることは、陰で無事を祈るだけ。
 でも、私が選んだのは、そうした場面を含めて面倒な(しがらみ)(わずら)わしいものとして排除することだった。

 つまり、私はこの恋を始めるに当たって、自分の「自由」を優先したのだ。だから、何も出来なくていいのよ。それを哀しいとか寂しいとか思ってはいけないの。彼とは、私の「自由」の範囲内での恋愛ということ。美味しいところだけ食べさせて貰うという関係だと割り切るべきなのよ。心配はするけれども、彼が元気になったら、また美味しいところを頂く。それでいい。

 恋には違いないけれども、私は結心さんたちとは違って「心の結び付き」でなくていいの。言い方が悪いけれども、極論では「身体の結び付き」だと言っても構わない。勿論、身体だけじゃなくて、愛しているのよ。それは間違いないと思う。愛しているけれども、全てを彼に捧げるのではなくて、自分の許容範囲内での愛なのよね。

 他人から見たら「それは本当の愛じゃない」と言われるかも知れないけれども、本当の愛って何なの? 夫婦だったら、みんな本当の愛? 夫婦だって嫌になったら離婚するじゃないの。献身的に尽くすことが本当の愛なの? そして、その献身的な愛が一生続くのかしら? 世の中の夫婦たちの内、どれだけの人がそんな素晴らしい愛を持っているっていうのだろうか。

 母親が子供に対して持つ「絶対的な愛」はあるかも知れないけれども、男女間の愛が母子の愛と同じだとどれだけの人が言えるのだろうか? だから、というわけでも無いが、愛は(うつ)ろうものなのだ。それを前提として考えるなら、私の考え方も肯定されていいと思っている。その中での、今回の事件なのよね。何もできなくて哀しいし寂しいが、それが自由の対価なのだと思う。


 土曜日の午後。
 彼が、「手術前に来られるのは今日しかない」と言って、午後3時過ぎにやってきた。

「特別なことはしなくていいから、いつものように詩織を抱いてゆっくりしたい」
 と言う。
 何だか、最後の逢瀬みたいに思えて涙が出てしまった。そんなに心配するような手術じゃないのに、不安になる。まだ、明るい時間帯だけど、二人でシャワーをしながらいちゃついて、バスタオルのままベッドに(もつ)れ込んだ。

 暫く愛し合うことはできないのだと思うと、お互いに(むさぼ)るように求め合った。彼は私の何処を攻めればどうなるのかを熟知しているし、私も次は彼が何をしてくるのかもある程度予測できるようになっている。その上で、意表を突きながらタッチの仕方を変えてみたりすると、私は予想外の快感に我を忘れて夢中になってしまう。

 何度も何度も絶頂を迎えて私が息も絶え絶えになってから、彼が(おもむろ)に彼の分身を私に押し付けて焦らしてくる。「もうっ! 意地悪!」と言いながら私は悶えた。彼は、それを楽しみながら、私を翻弄(ほんろう)する。いつの間にか、私は、愛撫されるだけではなく、彼の分身によってしか最後の絶頂を迎えることができなくなっているのかも知れない。

 やっと彼が私の中に入ってきたとき、私の身体中が悦びに打ち震えてあっという間に絶頂を迎え、私は意識を手放した。

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登場人物紹介

矢野 詩織 《やの しおり》

大学准教授

近藤 克矩 《こんどう かつのり》

大学教授

天野 智敬 《あまの ともたか》

ソフトウェア会社社長

森山 結心 《もりやま ゆい》

パン屋さんの看板娘

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