第82話 彼の手術は成功

文字数 2,983文字

 水曜日の午後。彼からLINE電話が入った。
「検査の結果は、安全レベル達成」
 病院を出る前に、知らせたかったんだって。
「おめでとう! 良かったね!」
「きっと昨夜のが効いたんだよ。ありがとう」
「ふふふ。嬉しい」
 
 今週は彼が(うち)に来ないから、結心さんは来られるかな? LINEしてみよう。
「今夜はデート? 別に大した用事ないけど、遊びに来る?」
「今夜は暇だよ。ごはん食べてから行くわね」
「は~い。待ってるわね」

 夕方、彼からLINE電話があった。昼間にLINEで結果を聞いていたけれども、やっぱり嬉しそうな声だった。
「もしもし。良かったわねぇ」
「うん。これで僕のやるべきことが1つ達成できたよ」
「そうだね。お疲れさまでした。……って、言ったら良いのよね?」
「あはは。確かに。毎日、頑張ってたからねぇ」
「詳しくは聞かないけれども、毎日だったら、大変だったと思うわ」
「それもあって、今週は英気を養わないといけない。週末に備える、というのも理由の1つ」
「あ、そういうことか。そうだよね。肝心な時に疲れてたらいけないものね」
「そうなんだよね。って、何の話やら」
「うふふ。ほんと。……今夜は、結心さんが遊びにくるの」
「家に送っていってあげようか? 上がらないけど」
「無理しなくていいわよ。昨夜会ってるんだから」
「毎日でも会いたい」
「じゃ、本当に送ってくれるだけよ」
「分かった! 何時頃帰るの?」
「ぼちぼち、帰るわよ」
「じゃ、10分後に」
「ありがとう」

 こんなに頻繁に会ってたら、その内誰かに見つからないだろうか? いくら、秘密の場所だと言ってもねぇ。せめて、最悪の場合に備えておかなくっちゃ。学校を出てから注意深くマスクを着けて歩き、待ち合わせ場所に到着すると後部座席に座った。
「いつもありがとう。お仕事大丈夫なの?」
「大丈夫。今日は嬉しいから特に会いたかったよ」
「本当に、結果が良くて安心したね」
「うん。仮に8回分が残っていたとすると、10回出せば0.875の10乗となって約25%程度に減る」
「難しいのね」
「基準値が約4千万とすると妊娠に必要な1千6百万は約40%に当たる。25%なら余裕で安全圏。10回分の量としても9回で達成できる」
「凄い計算。それ、自分で考えたの?」
「そう。素人の理屈だから、まあ、自己満足の理屈かも知れないけどね」
「あは。貴方らしいわ」
「そもそも精子の有効期間は基本的には3日ほどらしいから、手術後2週間もあれば安心」
「なんだ。じゃ、無理することなかったんじゃない?」
「完全に安全でないと安心できないから、減らした上で検査を受けたわけ。――これが病院の証明だよ」
 検査結果を見せてくれた。絶対安全を確保するって、やっぱり彼の性格がそうさせるのね。
「分かったわ。本当にお疲れさまでした。そして、ありがとう」
 彼の執念のようなものを感じた。きっと、この理屈を私に説明したかったのね。彼は研究者なのだ。

 マンションの傍のいつものところで車から降ろして貰ったら、彼はそのまま帰って行った。

 食事が終わって暫くしたら、結心さんがやってきた。
 コーヒーを飲みながら、ゆっくりと話をする。今日は、結心さん達の進展具合を聞くのだ。私の話は、そんなにないものね。

「貴方たち、その後はどう?」
「どうって、いつも仲良く楽しくデートしてるわよ」
「まあ、言わないだろうとは思うけど、少しは進展してるのよね?」
「うん、それなりに」
「微妙な言い回しというか、思わせ振りな表現をするわねぇ」
「うふふ」
「まあ、そこは、想像しておくわ」
「詩織さんレベルの想像はしないでね」
「もう、なんて言い方するのよ」
「だって、詩織さんたちの話は、私には刺激が強すぎるんじゃが」
「私たちは進展が本当に速かったからねぇ。『これでいいのか?』って悩むことがあるのよ」
「そうじゃろうなぁ。私は、そういう悩みはないんよ」

「話は変わるけど、貴方たちはお互いをどんな風に呼び合ってるの?」
「名前で呼び合ってるわよ。詩織さんは?」
「私は、彼を『あなた』と読んでるわ。私のことは『詩織さん』と呼ばれてる」
「『あなた』って夫婦みたいじゃない?」
「いや、そうじゃなくて、一般的な『あなた』なのよ。最初は『近藤さん』も使ってたけど、最近は『あなた』」
「下の名前で呼ばんの?」
「まだ、呼んでない。ぼちぼちそれも考えるかなぁ。今度の旅行で話し合ってみるわ」
「私たちは、彼が『ゆいちゃん』とか、たまに『ゆい』って言ってくれる」
「前に天野さんが『ちゃん』て言ってたことあったわね」
「あれ? そうだった? 気が付かんかったわ」

「『ゆい』って、呼び捨てはどんな気持ちになる?」
「嬉しいわよ。『ちゃん』て呼ばれるよりも、何か一歩近づいた感じがする」
「そうだよね。結心さんは、何て呼んでるの?」
「私は『ともたかさん』だけど、『ともちゃん』とかもええなぁ」
「『ちゃん』で呼ぶ方が親しみあるよね」
「今度、『ともちゃん』て言ってみようかな」
「そうね。喜んでくれるかもよ」

「詩織さんも『かつのりさん』とかにしたら?」
「私たち、身体の親密さは進んでいるかも知れないけど、名前の呼び方は遅れてるかも」
「あは、変なの」
「だから、心の親密さは少し遅れてるのよ」
「そうよねぇ、デート2日目で家に入れたんじゃもの、吃驚(びっくり)だわ」
「自分でも驚いたわ。そのときは、何も考えてなくて、食事を何回もご馳走になって家まで送って貰ったから、つい言ったみたいな」
「魔が差したの?」
「そんな言い方しないでよ。でも、そうかも知れないわよね」
「だから、数日で抱き締められたんよね」
「そう。でも、家で話をするって、やっぱり落ち着いてしまうのよ」
「そうじゃろうなぁ」

「なぁ詩織さん。彼との交際、後悔しとらん?」
「え? 後悔なんてしてないわよ」
「そう。良かった」
「どうして?」
「この前、付き合い方に疑問持ってたじゃない」
「あゝ、あれね? あのときは、毎回会ったらキスしたりエッチなことに必ずなるものだから、なんかねぇ、エッチが目的で付き合ってる訳じゃないはずなんだけど、どうしてこうなるのかなぁと少し疑問に思ったの。でも、天野さんの話を聞いて納得したから、もう迷わないわよ」
「そうなんだ。解決して良かった」

「結心さんは迷ったりしないの?」
「私は自分で口説いたくらいだから迷うはずないじゃろ」
「自分で口説いたって認識あるんだ」
「まぁ、同時に双方が好きになったみたいだけど、私から先に告白したからなぁ」
「あゝそうだったわね」
「だから、彼が私に求めるものは何でもあげるんよ」
「エッチなことも?」
「そうだよ。全部貰って欲しいってこの前言ったもん」
「大胆よね」
「う~ん、そうかも知れんけど、愛を確かめ合うのだから、何でも嬉しいと思う気がする」
「私も、この前の話で、それが分かったわ」

「そもそも、彼にヴァージンをあげなかったら誰にあげるん? こんなに感性も何もかも合う人なんて滅多に会えんわ。だから、私は天野さんしかおらん」
「そうよね」
「考えてみられぇ、女に生まれて面倒な生理があって、女の悦びを知らずに歳を取っていくん? 悲し過ぎない?」
「確かに」
「彼に全てあげて、何を後悔するん? あげないほうが後悔すると思うわ」

 結心さんの心は最初から少しも揺らいでいない。激しい恋の炎が静かに燃え(たぎ)っているのだ。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

矢野 詩織 《やの しおり》

大学准教授

近藤 克矩 《こんどう かつのり》

大学教授

天野 智敬 《あまの ともたか》

ソフトウェア会社社長

森山 結心 《もりやま ゆい》

パン屋さんの看板娘

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み