第52話 ラヴレター

文字数 2,982文字

 木曜日の夕方。もう皆帰ったあとなので、私は教授室のデスクに座っていて、ぼちぼち帰ろうと身支度をする直前だった。
 近藤先生が真剣な眼差しで、研究室の隣にある教授室のドアをノックしてやってきた。今度は何だろう?

「先生、先日は美味しいコーヒーをありがとうございました」
「いえ、あんなもので失礼しました。ここには、あれしかないので、お許しくださいね」
「すごく美味しかったですし、幸せな時間でした」
 
「今日は、なんでしょうか?」
「こうやって何度もお邪魔して申し訳ありません」
「そんな邪魔だなんて思っていませんよ」
「そう言って頂けると嬉しいです。ありがとうございます。何度もお邪魔するのはご迷惑だろうと判っているのです」
「迷惑ではないですが、まあ、確かに、頻繁だと色々と支障がでるかもしれませんねぇ……」

「そうなんですよ。それで、色々と考えてみまして、言いたいことを手紙として書いてきました。読んで頂けたら幸いです」
「え? 手紙ですか?」
 私は吃驚(びっくり)した。前に、手紙のことは想定していたけれども、まさかこのタイミングでとは考えてもいなかった。
「はい。これもご迷惑だとは分かっているのですが、どうしても伝えるだけはしたかったのです」
「何が書いてあるのですか? 伝えるって何を?」
「後で、ご自宅に帰ってからでいいですので、是非とも読んでください。お願いいたします」
 近藤先生が頭を下げた。

 押し問答するわけにもいかず、仕方ないので、中身はラヴレターだと想像したけれども、受け取ると近藤先生は帰っていった。
 今、ここで読むと動揺したときに(まず)いから、帰ってから読むことにして、取り敢えず天野さんに電話してから部屋を出た。
 結心さんには、天野さんから連絡してくれるから、今日は真っ直ぐ帰る。

 帰宅して、食事の前に読んだ。だって、気になるから食事より先になるのは当たり前よね。
 手紙は、やはりラヴレターだった。この下に全文を写しておく。
 ちょっと、どきどきしながら封を開けたのだけど、ちょっとラヴレターにしては、事務的な感じがして感動はしなかった。

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 突然このような手紙を書くことをお許し下さい。
 また、この手紙に宛名も差出人の名前が無い非礼についても、お詫び申し上げます。

 手紙につきましては、私がさしたる用件も無いのに頻繁にお邪魔させて頂くことにより、周りの人たちに何某(なにがし)かの臆測を抱かせることがあれば、貴方にご迷惑を掛ける行為だと思ったからです。お互いに最善策では無いと思いました。

 そして、現時点では、直接お会いする以外に電話か手紙しか私の気持ちを伝える手段が無いことも理由となっています。

 宛名の名前が無いことについても、もしも他人の目に触れるようなことがあった場合、貴方にご迷惑をお掛けすることになりますから、これも配慮すべきだと思いました。勿論、私にとっても重大な影響の発生する可能性がありますので、差出人も伏せています。なにとぞお許し頂きたいと思います。

 では、このような手紙を出さなければいいではないかとお考えになるかも知れませんが、この点については全く私の一方的な行為であり、返す言葉もありません。ただ、私は失恋してもいいから私の想いを伝えたいと思ったからであり、断られた場合でもストーカーのような真似をするつもりもありませんので、(いさぎよ)く諦める覚悟をしております。諦めがつくように冷たく扱っていただいて結構です。勿論、その場合でも恨んだりなどしませんので、道ですれ違ったときには挨拶程度はよろしくお願いいたします。

 初めて貴方にお会いしたとき、私は身体が震えるような感激に襲われました。生まれてから感じたことのない感覚です。それでも、私は既に結婚しており子供もおります。交際したいと申し出る資格がないのは当然ですし、そもそも私などに見向きもして頂けることはないと最初から諦めていました。

 ときどき擦れ違う時に挨拶をするだけで満足していたのですが、男として自分の気持ちを伝えもしないままでは後悔すると思うようになり、自分の心の中を整理しました。私の気持ちを伝えたとき、もしも受け入れて貰えたとしたら自分はどうするべきなのか? この決意ができましたので、今回、私の気持ちをお伝えすることとしました。甚だ一方的で勝手なやり方なのですが、こうして私の気持ちをお伝えするには、この手紙を書くしかないと思った次第です。

 私は貴方のことが好きです。愛していると言うと重いと思われるかも知れませんが、私の一生を掛けて貴方を守り続けたいと願っています。勿論、貴方がそれを望まないならば、私の愛を押し付ける積もりは全くありませんので、ご安心ください。私は、貴方の希望する形で貴方を愛し続けることができれば、それで満足なのです。

 もし、貴方が結婚を前提だと思われているならば、私は身辺を整理してから愛の告白をさせて頂こうと思っています。決して貴方のせいで誰かを不幸にするようなことは考えていません。身辺整理を誰かのせいにはしたくないのです。でも、逆に、貴方が結婚はしたくないと考えておられるのであれば、この身辺整理は却ってマイナスになるかも知れません。その意味では、先に貴方の意向を聞いてから判断するのが最善手だと考えています。

 これからの私の人生を貴方に捧げてみたい。貴方が、もしも私に少しでも興味を持ってくださるならば、私は、貴方の望むように私の全てを捧げたいと思っています。もしも、私で良いと思ってくださるならば、私の全てを捧げます。その根本にあるのは、私が貴方を愛する心です。

 人生は、決して長いことはありません。この世に生まれ、生きて、そして愛する人に出会った。全てを捨ててでも、今、この愛を手にしたいのです。何度も言いますが、私はストーカーのようになることはありません。それは、私の知性と教養が、きちんとコントロールしてくれます。だから、嫌われているのに追いかけるような真似は決してしません。交際したあとで、別れたいと言われれば愛の終わりを告げられたのですから、貴方の要望に従います。私は、貴方が望むようにいたします。それが私の愛なのです。誓約書を作れと言われれば、それも従います。もし貴方に捨てられることがあっても、一度でも私の愛を貫いたことが、私の生涯の喜びと誇りになると思っています。

 私は貴方を愛しています。そして、貴方の邪魔には決してならないと約束いたします。叶うならば、貴方に受け入れて頂けることを夢見ています。
 でも、この手紙に返事は要りません。私の一方的な申し出なのですから、貴方にご迷惑を掛ける積もりは全くありません。
 もし、検討の余地があるのであれば、貴方のご要望を聞くチャンスをください。
 
 ――――――――――――――――――――――――――――――

 結心さんから電話があって「大丈夫? 二人で行こうか?」と心配してくれた。

「ありがとう! 貴方たちのデートの邪魔ばかりしているから気が引けるのだけど、ちょっと相談したいかな」
「もうご飯の用意しているから、食べてから今夜にでも行こうか? 天野さんも一緒に」
「デートの邪魔してない?」
「大丈夫よ、そこでデートするから」
 結心さんがいつものように笑う。

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登場人物紹介

矢野 詩織 《やの しおり》

大学准教授

近藤 克矩 《こんどう かつのり》

大学教授

天野 智敬 《あまの ともたか》

ソフトウェア会社社長

森山 結心 《もりやま ゆい》

パン屋さんの看板娘

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