第64話 今日も自宅でデート

文字数 2,972文字

 木曜日の夕方。彼からLINEが入った。
「もう帰る?」
「うん」
「じゃ、10分後にいつものところで」

 車で送って貰うのは楽だからクセになりそう。
 家に着くと、いつものように私が先に上がって、彼は車を置いてから上がってくる。

「同じタイミングで帰ってくると、お料理する時間を待たせてしまうわね」
「気にしないで。こうしてじっと見ているのも楽しい」
「ご飯が炊けるまで少し待って貰わないといけないので、食事の下準備だけ済ませてしまうわ」
「でも、バスで帰るより早く家に着くから、結局は速いよね、このほうが」
「そうなの。それに楽だし。買い物に行けないから、毎日は無理だけどね」

「でも、今日でデートは7日連続達成ね」
「あはは、そうなったね。明日のデートは、お休みにしようか?」
「そうね、買い物とかもしたいし。家事が溜まってしまったからねぇ」
「土曜日に、またデートしようか? 日曜日はお休みにして」
「いいわね。毎日会ってると、会わない日はどんなふうに思うのだろう?」
「ほっとする?」
「分からないわ。会わない日を経験してみないとね」
「これからは、だんだん落ち着いたペースになってくるかな?」

「下準備できたから、ご飯が炊けるまで、ちょっとソファでゆっくりする?」
「うん、そうしよう」
 彼がソファに座ると、今日は私も隣に座った。彼が肩に手を回して抱き寄せてくれた。
 身体が密着しているのにも大分慣れてきた。というか、基本的に、これ嬉しい。何も喋らなくても楽しい。

「ねぇ、私たちこうして抱き合ってるけど、手を握ったことないわよね?」
「え? ……そうか、……何で手を握ってないのだろう?」
「そりゃ、貴方がすぐに抱き寄せるからじゃない」
「……1つ手順を飛ばしてしまったのか」
「手順て……」
 と言いながら私が手を出したら、彼が肩に回していた手を外したので、私は身体を起こして彼の手を握った。

「手を握って貰った感想は?」
 と彼に聞く。
「抱き寄せるのも嬉しいけど、手を直に触るってちょっとセクシーかも」
 と彼が笑う。
「もう! ……でも、もしかしたら、そうかも知れないわね。身体と身体が触れ合うのだもの」
「握手と違って、手の甲にも触れるし」
「ちょっと! 手のあちこちをそんなに触らないでよ!」
「少し感じる?」
 笑いながら彼が聞く。
「そんなはずないでしょ。くすぐったいのよ」
「あはは、やっぱり抱き締めているほうが、ムードが出るわ」
「そうかもね。無駄な話をしなくなるものね」

 彼が握った手を離して、また私を抱き寄せた。うん、確かにこっちのほうが落ち着く。
 そんなことを思っていたら、ご飯が炊けたので、食卓に移動してご飯を食べることにした。
 今日のメニューは「ナスと鶏肉のみぞれ煮と冷奴」。昨日は中華だったので、和食にした。

「これ、あっさりしていて美味しいね」
「油で揚げてるのに、あっさりしてるでしょ? 鶏肉だし、大根おろしも入ってるからね」
「ああ、それでか。南蛮漬けもいいけど、こういうのもいいねぇ」
「昔の人は、色々と工夫して、美味しい料理を考えてくれたよね」
「テレビなんかで新しい料理が一杯作られるみたいだけど、新しくなくても十分だと思うな」
「料理は新しい工夫で発見もあるけど、基本は昔のが中心だと思うわ」

 何気ない会話を楽しんで、食後のコーヒーはソファに並んで飲んだ。手を握ったり、肩を抱き寄せられたり、楽しかった。
 他人が見たら、いちゃいちゃしてたことになる。恋愛って、これが楽しいのだと分かってきた。やっぱり、触れ合いは大切。
 ぼちぼち、次のステップに進んでもいいかなぁと思い始めた。慣れてくると、そうやって心の準備が進むのだと驚いた。

 次のステップって、やっぱりキスだよねぇ? 前に、不倫の境目は「キスが境界」みたいなことになったと思うのだけど、いよいよ身体の関係へ一歩踏み込むことになるのだろうか。離婚してから恋愛というのが、私にとっては「不倫」と言われなくて好ましいのは間違いない。でも、私は結婚したいとは思っていないのだから、彼の家庭を壊したくない。

 家庭を壊さないのかも知れないけれど、それは外観の話であって、奥様から見て私が憎むべき仇敵であることは論を待たない。でも、世に言う「亭主元気で留守がいい」と思っているなら、別に問題ないのではないだろうか? かと言って、それを直接本人に確認するわけにはいかない。彼の言葉を信じるしかない。こういう時、男は大抵そういう風な話をするものらしい。つまり、「自分には家庭に居場所がないから慰めてほしい」とか言って、母性本能を(くすぐ)って口説くらしい。

 いやいや、仮に「留守がいい」と思っていたとしても、浮気されているとなれば心穏やかであるはずがない。「いいよ、どうぞどうぞ」なんて言う妻がいるはずない。じゃ、浮気する前に離婚するとして、それは浮気よりもマシなことなのだろうか? これは、その夫婦によって意見は分かれると思う。私は、彼の浮気がばれたら、すっきり別れると決心して恋愛に踏み込んだ。

 最後には彼を返すのだから「少し貸してください」という意味だ。でも、やっぱり貸してくれる太っ腹の妻がいるとは思えない。――そうすると「無断借用」ということになる。だから、妻が夫の浮気相手に「泥棒猫」と言うのだろうなぁ。私も、その立場だったらそう思うだろう。

 この問題は、私にとって有利な話になることはない。でも、私は彼の奥様の立場だけは守らなければいけないと思っている。専業主婦が離婚したら、生活は大変だと思う。僅かな慰謝料くらいで、そのあとの人生を豊かに暮らしていけるはずがない。だから、やっぱり離婚はしないでいい。このまま、私は前に進んでいくのだ。

「無言になってるけど、何を考えているの?」
 彼が、私を抱き締めたまま言った。
「何も考えてなかったよ。こうして抱き締められているって、すごく幸せなの。愛されているって実感が湧く」
「僕もそうだよ。ありがとう」
「ねぇ、男の人って、こうして抱き締めたりしていると、ムラムラしてくるの?」
「そりゃ、するよ。もう、最後まで走っていきたいのよ。理性で抑えてるだけ」
「そうなんだ、……ごめんね。少女なものだから」
 と言って笑った。

「少女で処女ね」
「もう! もっと上品に言ってよ」
「ごめん、ごめん」
「処女って嫌なものなの?」
「とんでもない! 男にとって処女はロマンだよ。すごく嬉しいものだから」
「そうなの?」

「あのね、男というのは、征服欲みたいなものがあるのだと思う」
「それが処女なの?」
「そう! 初めての男になれる喜びみたいな……」
「私、抱き締められるのも、手を握られるのも、全部、貴方が初めてよ」

「そんな光栄な経験を、それも僕にとっては天使のような詩織さんと体験できるなんて、夢のようなこと」
「まあ、こちらこそ、ずいぶん光栄ですこと」
「いや、本当にそうなの」
「ありがとう。少しずつ教えてね。少しずつよ。一度には進めないからね。怖いの」
「今日はだめ?」
「今はまだ、心の準備が間に合ってないから、だめ」

 彼は、私を強く抱き締めた。いつもより強く。私も、ぎゅっと強く抱き締め返した。
 もう抱き締めるだけでは私も満足しなくなっていた。女だって、そういう気持ちになるのだ。

 いよいよ、不倫に突入するのだと覚悟を決めた。

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登場人物紹介

矢野 詩織 《やの しおり》

大学准教授

近藤 克矩 《こんどう かつのり》

大学教授

天野 智敬 《あまの ともたか》

ソフトウェア会社社長

森山 結心 《もりやま ゆい》

パン屋さんの看板娘

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