第28話

文字数 3,508文字

(せっかくここまで社会構造の話に踏み込むことができたんだ。やっぱり社会学的アンビヴァレンスにも言及しよう)

 苦手意識があるからと適当に流したりせず懸命に理解しようとし、最後は独力で解説してみせた愛に感化され、カンナギは考えを変えた。流れはできている。自分の能力不足を言い訳にしている場合ではない。大切に残しておいた最後のひとくち――クラフティをぱくっと食べて、気合を入れ直すように鼻から息を深く吸い込んだ。

「――役割葛藤のように、相反するものに引き裂かれることをアンビヴァレンスと言うんだけど」
「アンビヴァレンスって、心理学用語の?」
「お、やはり蓮は知っていたか。アンビヴァレンスっていうのは、ある対象に対して正反対の感情や思考が存在するような状態のことを指すんだけど、これは個人の心的な問題として、主に心理学の分野で扱われてきたんだよ」
「へぇー。でも、どうせあんたのことだから心理学と言いつつ社会学に関係ある話なんでしょ?」

 愛の目がいたずらっぽくきらりと光った。すっかり先を読まれているというわけだ。

「ご明察だよ、久野さん。マートンは個人の心理的な問題として扱われてきたアンビヴァレンスを、社会構造との関係から考えるべく、『社会学的アンビヴァレンス』の概念を提唱したんだ」
「出たわね、社会構造! もう以前の私とは違うわよ、どんと来いだわ!」

 高揚した声で愛が言う。学術的な色彩の強い言葉に対する心理的抵抗が軽減されたのだろう。愛の堂々とした様子にカンナギは「それは頼もしいな」と歓迎し、話を進める。

「マートンが提唱した役割群の理論から、役割葛藤が個人的な問題ではなく、社会構造上の問題であるということがわかったよね。これは、『アンビヴァレンス』を社会学の理論として扱おうとしたマートンならではの理論と言えるんだ。というのも、マートンは、アンビヴァレンス――すなわち『葛藤』を、個人の内側にある問題ではなく、社会関係や社会構造に内在するものとして捉えていたからね」

 カンナギの言葉を、蓮が猛烈なスピードで記録している。この社会学的アンビヴァレンスの概念は、蓮にとってはとくに耳新しく、かつ重大な情報なのだろうと思われた。カンナギは、より一層の慎重さをもって解説の言葉を選ぶ。

「じゃあ、アンビヴァレンスは社会関係や社会構造に内在していると考えたマートンが、社会学的アンビヴァレンスをどのようなものとして捉えたかというと、
 社会的な役割や地位に内在している〝この役割についているならこうすることが望ましい〟〝いや、こう振る舞うべきなんだ〟といった相矛盾する期待、と捉えたんだよ」
「相矛盾する期待が、社会的な役割や地位に内在している……」

 社会学的アンビヴァレンスが指し示す内容を咀嚼をするかのように、蓮がつぶやいた。カンナギは、蓮の理解の助けになればと言葉を換えて説明する。

「そう。相矛盾する期待――つまり葛藤(アンビヴァレンス)は、社会的な役割や地位にもともと備わっているってことなんだ。だから、役割内葛藤、役割間葛藤はともに社会学的アンビヴァレンスの一形式なんだよ」

 愛がああ、と声をあげた。
「役割や地位自体に葛藤を引き起こすような矛盾や対立がもともと備わってるんだったら、個人が葛藤を無くそうとしてどうにかなるもんじゃないわよね。だって、役割構造……社会構造に関係した矛盾と対立なんだからさ」
 
「そうなんだよ。個人の問題と思われていることも、視点を変えてみるとこうして社会構造が関係している問題であるってことがわかる。役割とか地位によって築かれる社会関係に身を置くことで大なり小なり感じざるを得ないのが役割葛藤――構造上の葛藤である、とでも言おうか。まぁ、葛藤のように、個人が経験する心的な悩みをいきなり『社会』と関連づけて考えるのは難しいかもしれないけど――」

 考え方のコツさえ掴めば誰でもできる、と続けようとしたところで、ほんのわずかに嘆息する蓮の気配に感づき、カンナギはあえて「僕は言い終えたぞ」ということを示すように紅茶を啜った。実際、そろそろ喉も渇いていたのでちょうどよかったのである。

「たしかに、難しいよね」
 察し良く、カンナギから会話のバトンを引き継いだ蓮が実感のこもった口ぶりで言った。

「葛藤みたいな心理的な悩みを、個人から切り離して――さらには社会とか、大きな視点で捉えようとすることって、いざ実際にやろうと思ってもすごく難しい。異なる視点から見ようにも、そうする余地がないと言えばいいのかな。色々な思い込みでがんじがらめになっているような気がするんだ。もしかすると、自分で思っている以上に、僕の中にはたくさんの固定観念があるのかもしれない」

(ああ、蓮、わかるよ。思い込みから自由になることは難しい。そもそも、自分の中に思い込みがあるってことに気づくのだって難しいことなんだよな。僕だって、きっとまだまだたくさんの思い込みや固定観念が自分の中に潜んでいるかもしれないんだ)

 蓮の口から語られる実直な感想に、カンナギは共感を覚えるかたわら、自らを省みる。

 自由に物事を見て柔軟に思考をしているつもりでも、知らず知らずのうちにステレオタイプにまみれた見方・考え方に囚われているかもしれないのだ。世の中に溢れる根拠のない「当たり前」や凝り固まった価値観を問う前に、何より自分自身が無意識のうちに数々のステレオタイプを抱え込んでいやしないかをまず問い続けるべきだろうとカンナギは改めて思い至る。社会学を少しかじったからといって、自身に潜む思い込みをすべて退け、自由自在に物事を見ているとは到底思えない。

 蓮がまぶたを落とし、困ったように笑って頭を掻いた。
「マートンはすごいな。それに引き替え僕ときたら……著名な社会学者と比べるのもおこがましいと思いつつ、自分の視野の狭さにうんざりするよ」

「うんざりするところなんてどこにもないぞ」
 言葉の節々に滲み出る蓮の落胆を吹き飛ばすように、カンナギがぴしゃりと言い放った。カンナギの隣に座る愛も援護射撃のごとく、「そうよそうよ!」と加勢し始める。
「レンレンで狭いって言うなら私の視野なんてどうなるの?! 米粒ほどの視野しか……ううん、もう両目とも開いてないわ! 視野皆無! 世の中のことなんて、もうなーんにも見えてないもの」
「い、いや、さすがに何にも見えていないってことはないんじゃないかな……」
 ブルーに傾きかけた場の空気をがらりと変える愛の熱の入ったコミカルな励ましに、蓮は笑っていいものかどうか判断がつきかねているのか手で口元を隠している。が、その肩は小刻みに震えていた。

(ファインプレーだな、久野さん。しかしまぁ蓮は――潜在的な向上心からくる自他の比較かもしれないが……健全な比較をしているとは言い難いな)

 多かれ少なかれ、人はさまざまな動機によって日頃から自分と他者を比較して生きている。誰かと自分を比べることについて研究した人物としてカンナギが真っ先に思いつくのは、「社会的比較過程理論」を提唱したアメリカの社会学者レオン・フェスティンガーである。

 フェスティンガーは、明確な自己理解を得るために自分と他者を比較することを「社会的比較」とよんだ。社会的比較は(1)人は社会で適応した生活を送るべく、自分の意見や能力を正しく評価したいという動因があるということ、(2)評価するための客観的な手段が使えない場合、自分と他者を比較することによって自らを評価しようとすること、(3)一般的に、比較する相手としては自分と類似した他者が選ばれやすい、という三点を骨子としている。

(フェスティンガーの理論の細かな是非はさておいて――自他の比較自体は決して悪いことではないし、自己理解に一役買っていることはあるんだろうけど)

 カンナギは自他の比較を含め、人を用いた「比較」をあまり好ましく思っていない。そうした比較は大抵、誰かを不幸にする。それゆえカンナギは極力自分と誰かを比べることはしないようにしている。

(過度な比較は不要な欠乏感を煽るだけだ)

 見るともなく天井を見上げ、どう切り出したものかと浅い息を吐いた。


――――――――――――
主要参考文献(既出のものは省略しています)
 高田利武,1994「日常事態における社会的比較の様態」『奈良大学紀要』22号,pp.201-210,奈良大学.
 Festinger, L.(1954)“A theory of social comparison processes”. Human Relations,Vol.7, pp.117-140.
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