第7話

文字数 6,944文字

 約束の時間にはまだ早かったが、カンナギのことだからおそらくもう来ているだろうと思い、蓮は純喫茶『ルディック』の扉を開けた。柔らかなドアベルの音色と「いらっしゃいませ」というマスターの優しい低音。続けて、コーヒー豆を挽く香ばしい香りが蓮を迎える。

 カウンター越しにいるマスターに軽く会釈しながら、蓮は目の端で店内を見回した。
 日曜の午後だというのに、ルディックの店内はまるで人払いでもしているかのようにがらんとしている。

(これ……経営は大丈夫なんだろうか?)

 蓮の頭につい余計な心配が浮かぶ。
 ダークブラウンでまとめられたカウンターや家具に、白熱灯がほんのり灯る落ち着いた店内。そこに、アンティークの調度品やゴブラン織の絨毯が程よいアクセントとなっている。まるでちいさな美術館のようなルディックの空間は、特別感が漂いながらも不思議と居心地が良い。
 もちろん、肝心のコーヒーは文句なしの絶品であった。それなのに、こうも閑散としているとはなにか理由でもあるのだろうか。

「ここにいつも足を運んでくださるお客様は、シニアクラブ会員の方々が多いんです。今日はクラブでスポーツ大会が催されるそうで、皆さんそちらに参加されていますから、こちらに来られるとすれば夕方以降になるかもしれません。せっかくですからお時間の許す限り、ゆっくりお寛ぎくださいね」

 蓮はハッとしてマスターの顔を見た。何を考えていたのかがバレていたようだ。思いのほか、怪訝そうな――苦い表情をしていたのかもしれない。「ありがとうございます」の一言を返せば済むのだろうが、蓮はなんとなく失礼なことをしてしまったような気持ちに支配されて、「すみません」と小さく言った。

「そうそう、グアテマラの良い豆が入ったんです。よろしければいかがですか?」

 明るい声だった。好意的な目線と微笑みを向け、マスターは蓮の言葉を待っている。そののんびりとした空気に、蓮はほっとして「お願いします」と微笑み返し、店内の奥に視線を移した。最奥のテーブル席で、カンナギが読書に耽っている。――が、蓮の近づいてくる気配に気がついたのか、カンナギはサッと本を閉じ、顔を上げ、蓮を迎え入れる体勢をとった。
 クラスメイトらはカンナギを変わり者扱いし、邪険にするが、本当にもったいないことだと蓮は改めて思う。少なくとも自分の知る限り、カンナギには人に対する配慮も、マナーもあるのだ。

「ごめん、待たせたかな?」
「いいや、全然。そんなことより早く座りなよ」
 
 カンナギに促されるまま着席し、バックパックを下ろす。空いているとはいえ、広めの四人がけテーブル席を使わせてもらえるのは有り難い。筆記具を出しながら、蓮は何気なくつぶやいた。

「あれ、今日はミルクティじゃないんだね」
 
 蓮の予想に反して、テーブルには真っ赤なチェリーと輪切りのレモンが浮かんだグラスが置かれていた。
 
「そ。今日はレモンスカッシュ。ここのレモンスカッシュに使われているのは国産のレモンと厳選されたハチミツなんだ。その上、惜しみなくレモンの果肉が入ってるのもポイントだな」

 聞いているだけでも口の中に爽快な酸味が広がる。蓮は思わずごくりと唾を飲んだ。

「しかも、これが強炭酸で割られているから、きりっとしてすごく美味しい」

 そう言いながら、カンナギはグラスを持ち上げ、ストローを口に運ぶと喉を鳴らしてレモンスカッシュを一口飲んだ。

「それに、ただ酸味が強いだけじゃなく、ほんのり甘いんだよな」
 まるで専門家のようにテイスティングしてみせるカンナギが可笑しくて、蓮はわずかに口元を緩める。

「うーん、ハチミツ以外にも何かの甘みが入っているのか……」
「すこーしだけ甜菜糖(てんさいとう)を入れているんですよ」
「わっ! びっくりした」
 
 シルバーのトレイを手にしたマスターがいたずらっぽい笑みとともに「驚かせてしまいましたか、すみません」とカンナギに声をかけ、続けて蓮の方に向き直り今度は真面目な表情を作ってから「お待たせいたしました」とコーヒーと水を差し出した。
 もしかするとこの老紳士はけっこうお茶目な人なのかもしれない、と蓮は思った。
 
「お、蓮は今日もコーヒーか」
「うん。マスターから良い豆が入ったよっておすすめされてね」

 花を思わせる芳ばしい香りを楽しみながら、蓮は先ほどから気になっていたことをカンナギに訊ねた。

「それ、何を読んでたの?」
「ああ、これは『記憶とリアルのゆくえ 文学社会学の試み』だよ」
 カンナギが表紙を蓮に見せながら答えた。

「えっ? 文学社会学って……『文学』が社会学の対象になるの?!」
「ふふ。いい食いつきだな、蓮。そうだよ。社会学は文学からも学び、そして、文学を通して『社会』を捉えようともする」

「社会学が文学から学ぶって……こう言ってはなんだけど、社会のあり方を捉えようとするのに、文学が参照されるっていうのが僕にはまだピンとこないな…。だって、社会を捉えるなら虚構の物語よりも、現実に起こっていることを観察したり、根拠の確かなデータを参考にする方がいいと思うんだけど」

「うん。確かに『現実』に起こっていること……まぁこの『現実』も誰がどの立場で捉えるかで様相が異なってくるから難しいものではあるんだけど、今は一旦置いといて。現実、つまり実際に起こっていることや、数字としてはっきり表れているような統計データから社会のあり方を捉えようとするのは正しいよな」

 ここでカンナギは言葉を切って、レモンスカッシュをストローでくるくるとかき混ぜた。炭酸がしゅわっと小さく弾け、氷がカシャカシャと音をたてる。カンナギが再び話し始める前にと、蓮はコーヒーを少し口に含んだ。

「でも、社会っていうのは、簡単にいうと、人の集まり……いわば人と人との関係から成り立っている。だから、社会を捉えようとするのなら、人間に対する深い洞察や理解が重要になるんだよ」

 ――人間に対する深い洞察や理解。蓮は、ノートに素早くキーワードを書きつけていく。 
 蓮が書き終わるのを見計らい、カンナギはゆっくりと言葉を紡ぎ出す。

「社会学者の橋爪大三郎先生が、社会は人間の集まりだから人間に対する理解力がないと社会のことはわからない、って指摘しているんだけど、僕もその通りだと思う。社会学って、人間を深く理解しようとする試みだとも僕は思っているから」

 なるほど、と蓮は感心する。実態が掴みづらい「社会」だが、「社会」を築き上げているのは「人間」である。したがって、その「人間」に注目し、理解を試みようとするというのはとても適切で――それ以上に、たいへん刺激的でかつ興味深い試みであると感じられた。

「でさ、人間に対する理解力を鍛えるのに、橋爪先生は文学を挙げているんだ。“文学は人間のもっとも深いところから発信される、第一級の情報である“ってね。つまり、文学っていうのは『人間』を理解するのにたくさんのヒントや重要なことが詰まっていたりするんだよな。すぐれた文学作品には、人間についての深い洞察が示されている。それは、時に社会科学が未だ掴みきれていない社会や人間のリアリティが描き出されていたりするわけだ」

「……なるほど、なんとなく僕にも思い当たる節があるな。たとえば夏目漱石とか、太宰治の作品とか?」

 蓮の言葉にカンナギは大きく肯うなずき、満足そうにレモンスカッシュの輪切りレモンに口をつけた。案の定、「すっぱ!」と顔をしかめて口を尖らせている。熱心に社会学の話をしていても、カンナギは喫茶を堪能することを忘れていないらしい。

「漱石とか太宰とか、そういう歴史に名を残す作家っていうのは、その時代に生きた人間の心理や苦悩なんかをよく捉えているよな。あと、その時代特有の社会意識だったり、世相を反映していたりしてさ。言うなれば、なかなか捉え難く言葉にしづらい『社会と人間の関係』っていうのを、文学が示しているんだよ」

「言われてみれば……そうだよね。漱石もそうだけど、太宰なんて未だによく読まれていたりするもんなぁ。それって、それだけ社会の本質や人間についての鋭い洞察が捉えられているからこそ、時代が違えどもたくさんの人の共感を呼んでいたりするのかな」

「そうだな。当時のことを把握するだけでなく、現代が抱える課題や悩みを考える上でヒントになる記述もたくさんあったりするからなぁ」

 ふと、文豪たちは社会学者にも向いているのかもしれない、と蓮は思い至った。
 もし彼らが社会学者であったなら、それぞれ何をテーマに研究しただろうか。カンナギならこの問いに、どんな予想をするだろうか――今すぐにでも聞いてみたい気持ちに駆られながらも、持ち前の自制心が邪魔をして蓮に歯止めをかける。

 もちろん、カンナギが「しょーもないことでも色々な話をしよう」と言ってくれたことを蓮はちゃんと覚えている。まだ短い付き合いでしかないが、カンナギは蓮の質問を瑣末なことと切り捨てはしないであろうことも、容易に予想がついた。

 しかし、相手が誰であれ、長年に亘って形成された思考や心の癖というものは、得てして度し難く、簡単には退いてくれないものである。
 結局、蓮はもう少し真面目な質問をすべきだと自らの内に芽生えた無邪気な好奇心――それは蓮自身の殻を破る緒いとぐちであり得たのだが――を押し留め、すっかり板についた「優等生」としての面をかぶりなおす。

「その……社会学が実際に文学をデータとして活用したり、参照したりしている例って、どんなのがあるの?」
 途端、カンナギの目がらんらんと輝いた。
「おお! そこに興味があるのか? うんうん、いくつかあるんだけど……」

 顎に手をあてながら、カンナギは「タゲンテキゲンジツ《多元的現実》」や「リースマン」といった耳慣れない言葉をぶつぶつとつぶやいている。なんのことかはわからなかったが、蓮はとりあえず聞き取れた単語をメモした。先日購入した事典が、早速役に立ちそうである。

「えーと、社会学といえばやっぱりこの人! ということで、フランスの社会学者、エミール・デュルケムの例について話そうか」
 楽しそうな様子でカンナギが切り出す。蓮は先を促すように頷き返した。

「デュルケムはさ、『自殺』の社会学的研究に取り組んだ人なんだけど、何がすごいって、自殺を個人の問題ではなく、社会的な問題として捉えたんだよ」

 ――社会的な問題?
 蓮の頭に疑問符が浮かんだ。日本でも自殺は毎年二万人を超えていて、社会問題視されているはずだ。何も真新しいことはないように思えるのだが――

「腑に落ちないって顔だな、蓮。まぁ今でこそ、自殺を社会問題として捉えようとする向きはあるけど、それでも、個人的な動機によって起こるものだっていう見方も強いよな。言い換えれば、自殺はあくまで個人的な行為だとする見方が『あたりまえ』なわけだ。デュルケムは1858年生まれなんだけど、その当時も、自殺は個人的な行為、問題としてみなされていたんだ」

 レモンスカッシュを一口飲んで、カンナギは話し続ける。

「想像してみて。みんなが『常識だ』『今更問うまでもないことだ』って思っていることを、本当にそうなのか? って捉え直そうとするのはすごく難しいことだよな。そもそも疑問に感じることすらできないかもしれない。だけど、デュルケムは周りの『あたりまえ』だっていう思い込みに流されず、人々が自殺してしまう社会的要因について、当時の統計データを参考にしながら分析・考察したんだ。その結果、自殺は個人の意思を超えて引き起こされるもの……つまり、社会の力によって引き起こされる行為である、という結論を出した」

 カンナギの熱のこもった口調に、蓮は引き込まれていくようだった。相槌を打つことすら忘れて、耳を傾ける。
 “詳しい分析について話すと長くなりすぎちゃうから、ポイントだけにするな“と前置きして、カンナギは続けた。

「デュルケムは、自殺率の統計などを駆使して、自殺を招く社会的な要因を四つに分類したんだけど、実は、そのうちの二つ――『アノミー的自殺』と『自己本位的自殺』は、ロマン主義文学の小説を参考にして考察されたものなんだ」

 ここでカンナギはおもむろにスマホを取り出し、「簡単なやつだけど、僕のでよければ」と蓮のLINEにアノミー的自殺と自己本位的自殺についての説明を送った。
 蓮は驚き、「スマホの中にも勉強ノートが入っているの?」と聞くと、カンナギは「勉強じゃないよ」と朗らかに笑って「むしろ勉強だったらここまではできないな」とボソリと付け加えた。
 カンナギによると「まぁこういうこともあるかと思って、基本的な用語とかはスマホにコピーしてきたんだ」ということらしい。なんとも頼もしく感じながら、蓮は送られてきたLINEを確認する。

――――――――
【アノミー的自殺】
 社会の道徳的な規制の力が弱まって、個人が欲望をコントロールできなくなり、いつまでも満足することができなくなるなど、挫折や不満から引き起こされるタイプの自殺。現代で起こりやすい。
※「アノミー」とは、規範の拘束力が弱まった状態を意味する

【自己本位的(エゴイズム的)自殺】
 社会の絆よりも個人の生き方が重視されることにより、孤独感が増して生じるタイプの自殺。近代で起こりやすい。
―――――――― 

「アノミー的自殺の原因――個人の欲求に歯止めをかけるはずの社会的規範の弱体化や、自己本位的自殺の原因である個人の深刻な孤立化っていうのはさ、当時の社会が置かれた状況…つまり、産業化や都市化のような大きな社会変動の影響によるものだと考えられたんだ」

「………なるほど、個人的な動機で生じているとみなされていた『自殺』を、徹底して『社会のあり方』との関連から考えることによって、デュルケムが指摘した結論が導き出されたんだね」
「その通り! いやぁ、やっぱり蓮は理解が早くてすごいな!」

 ほんの少しだけ、社会学のものの考え方を理解できたような気がして、蓮の顔が綻ぶ。
 カンナギの褒め言葉は、なぜか素直に受け取ることができるのだ。

「あ! そうだ、蓮は探偵小説とかって読むのかな。『探偵小説の社会学』っていう本もあるんだぞ。たくさんの興味深い指摘があるんだけど、中でも近代日本の探偵小説の起源や成立についての議論は特に興味深くてさ。著者の内田隆三先生によると、『探偵』とは近代性を生きる人間の不安に通底する現象、っていうんだよ!『探偵』を社会現象として捉える視点……ああー、ワクワクしてくるよな」

 友人の今日一番の早口に、蓮は呆気に取られた。しかし、好きなものについて語っている人間の顔というのはどうしたって魅力的に映る。蓮は憧憬と羨望の入り混じった気持ちで、目の前の同級生に見入った。
 そんな蓮の挙動を戸惑いと受け取ったのか、カンナギはすまなさ半分照れ半分といった様子で軌道修正に入る。
 
「ああ、ごめんごめん。一人で勝手に盛り上がっちゃったな。そうそう、もっと気楽に読めるものもあって……それこそ、さっき出てきた夏目漱石や太宰治の作品を扱った書籍もあるんだ」

 そう言いながら、カンナギはスマホの画面を蓮に見せる。画面には、『青空文庫で社会学 「孤独な心」をめぐる15章』というタイトルの本が映し出されていた。

「これ、青空文庫に掲載されてる作品――たとえば太宰の『お伽草子』、芥川龍之介の『猿蟹合戦』なんかを取り上げて、社会学のテーマとなる色んなトピックについて対談してるんだよ。対話形式だし、けっこう自由な感じで話が進むから読みやすいと思う」
「ありがとう、今度探してみるよ!」
「あー、すっかり長くなっちゃったな。こんなに喋っておきながらなんだけど、この間手に入れた社会学の本、どうだった? 何か気になることとか、面白い発見とかあった? 蓮がどんなことを感じて、考えたのかすごく気になってさ」

 ――やっぱり、さっき思いついた「しょーもない」こと……文豪たちが社会学者だったなら、をカンナギに聞いてみても良かったかもしれないと、蓮は少し後悔した。カンナギはきっと面白がってくれるだろうし、一緒に考えてくれるのだろう。
 でも今は、周囲の期待に応え続けてきた自分、をどうしても演出してしまう。
 まだまだ時間が必要みたいだと蓮は心の中だけで苦笑し、逡巡を悟られまいと、コーヒーを口に運んだ。



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主要参考文献
 井上俊,2008「社会学と文学」『社会学評論』59(1),p.2-14.
 内田隆三,2001『探偵小説の社会学』岩波書店.
 亀山佳明(編),2016『記憶とリアルのゆくえ 文学社会学の試み』新曜社.
 橋爪大三郎,1996「理論社会学」『社会学がわかる。』朝日新聞社,p.10-11.
 渡辺真・小池高史,2014『青空文庫で社会学 「孤独な心」をめぐる15章』書肆クラルテ.
 E.デュルケム,1985『自殺論』宮島喬(訳),岩波文庫.

ご興味のある方はこちらも――
 ジゼル・サピロ,2017『文学社会学とはなにか』鈴木智之・松下優一(訳),世界思想社.

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