第26話
文字数 3,321文字
「えーっと……」
視線を空中にさまよわせた愛が、おそるおそる口を開いた。
「先生である自分に関係のある人たち……教頭とか、校長とか、保護者、生徒もかな……色んな人、つまり、考えてることとか、価値観の違うバラバラの人たちが、自分に対していろんな期待を向けてくる状況……?」
疑問形で締め括りながら、愛が当否を訊ねるように横目でちらとカンナギを見る。
「そう! そうなんだよ、久野さん!」
人差し指をぴんと立てて、弾んだ声で首肯するカンナギ。愛は肩の荷が降りたかのような表情でふうと息をはいた。
(……この様子だと、余計な緊張感を与えただけになってしまったかもしれないな)
気の毒なことをしてしまったとカンナギは後悔する。
いくら問いかけ方に気を配ろうと、質問される側にはやはりそれなりのプレッシャーがかかってしまう。ましてや、互いの知識量に差がある状態で、正解・不正解が存在する問いを投げかけようものなら、問われた方に心的な負担をかけてしまうことくらい容易に想像がつくものを、自身の強みに気づいて欲しいなどと質問をするなんて傲慢もいいところだとカンナギが深く反省していたところ――
「ふふ……」
愛の不敵な笑みがカンナギの思案を遮った。
「私ったら、無意識のうちに示唆に富む発言をしていたようね!」
カンナギからの肯定を得て余裕が生まれたのか、愛は先ほどまでの様子とはうってかわって、得意げに胸を張っている。
気を回しすぎたか、と考え、否、それはたまたま相手がよかっただけのことだとカンナギは思い直した。ここで結果オーライであったからといって、うまくコミュニケーションが取れていたのだと安心するのは違う。同級生と関わるという経験に乏しい自分のことだ、知らぬ間に相手の気分を害したり、傷つけるような発言や態度をしているとも限らない。油断せず、対峙する人と状況をよく見て、互いにとって適切と思しき距離感を探り続けるべきである。
嫌われたくないからそうするのではない。むしろ、人から好かれることなどは早々に諦めた身だ。ただ――、無遠慮な言葉や態度によってたくさん傷ついてきたカンナギとしては、配慮を欠いた人間でありたくないだけなのである。
「――それで、私の言ったことのどういうところが示唆に富みまくっていたのかしら?」
鼻息を荒くした愛がずいっと迫ってきて、カンナギは思わずのけぞった。見れば、蓮も期待に満ちたまなざしをこちらに向けている。二人とも、カンナギの言葉を待っているようだった。
(久野さんのあっけらかんとしたところ、僕も見習おう。あとは――)
言外に含みを持たせるようなやり方より、直裁な物言いの方が自分の性に合っている。そう再確認したカンナギは、意を尽くして力説を始める。
「うん、順を追って話すよ。役割葛藤とうまく付き合っていくには、葛藤が発生する源泉をどこに見るか、ということが重要なポイントになるんだ。で、久野さんが話してくれた〝そんな状況〟は、まさに〝葛藤が発生する源泉〟を言い当てていたんだよ」
「なるほど、そうだったのか……すごいね、久野さん!」
「そ、そんなことないわ! たまたまよ、たまたまっ」
好きな人から褒められて愛は途端にしおらしくなる。
「――で、でも、レンレンに褒めてもらえて嬉しい……」
よほど勇気を振り絞ったのか、顔を真っ赤にした愛が言葉を続けた。謙遜や否定で終わらせなかった愛に、カンナギは思わず拍手を送りたくなる。しかし、肝心の蓮はノートを取ることに夢中らしく、愛のアピールは耳に入っていないようだった。
(ドンマイ、久野さん。次はもっと声のボリュームを大きくするといいと思うぞ)
愛の面目を潰さないためにも、カンナギは心の中だけでエールを送るに留め、軽く咳払いをして空気を変えておく。
「よし、ここからがさらに重要になるから、久野さんの話してくれた例を参考に、詳しく説明していくぞ。
生徒、教頭、校長、保護者といった先生を取り巻く人々――すなわち、〝先生〟の役割群の中にいる人たちっていうのは、それぞれ考えや価値観が違ったり、利害が一致しないバラバラの個人だ。そんな、バラバラの人たちの間で同じような期待が抱かれるということはまずないだろうね。みんな各々の考えや価値観、利害によって異なる期待を抱くのが自然なことだろう」
相槌を打つ蓮と愛を見て異論はなさそうだと判断したカンナギは、二人に視線を配りながら問いかける。
「そういうバラバラの価値観や期待をもつ人たちによって構成される役割群の中に置かれて、それぞれから異なる期待を向けられた人が葛藤を抱えるのは、至極当然の結果だと思わない?」
「ええ、そう思うわ」
「うん。僕もそう思う」
腕組みをした愛が深く頷き、続いて蓮もはっきりと同意を示した。
「じゃあ、今度は蓮に質問だ。役割葛藤を個人の努力で解決すべきだって考えたのは、どうして?」
カンナギの質問の意図を汲もうとするように、蓮が口元に手を当てながらゆっくり言葉を紡いでいく。
「それは……期待にうまく応えきれなくて葛藤を抱えるのは、僕の能力が足りないからだと思ったからで――――あ、そうか!」
伏せ目がちだった蓮の目がぱっと見開かれた。回答しているうちに、どうやら気づいたらしい。
「カンナギが役割群の考え方を通して伝えようとしているのは、個人の能力が不足していることが原因で役割葛藤が生じているわけじゃないってことだよね? ええと、つまり、役割に従事する人なら誰しも役割葛藤が生まれやすい状況に置かれる可能性があるっていえばいいのかな」
カンナギは両口角をニッと上げ、視線で肯いた。
「その通り! マートンが役割群の理論を通して明らかにしたのは、個人の資質や能力の不足を原因として役割葛藤が生じているのではなく、社会とか役割を成り立たせている仕組みや関連によって、葛藤が生み出されているっていうことなんだよ。これを社会学的に表現すると、役割葛藤は、個人的な問題ではなく、社会構造上の問題であるっていうこと」
役割葛藤は個人のパーソナリティの問題ではなく、社会構造によって生まれていると考えたマートンの発想に従うなら、役割葛藤とは、社会的な地位や社会構造のなかにあらかじめ埋め込まれているようなものであると考えられる。
たとえば――「医者」を例にするなら……
医者というひとつの地位には、患者との関係における「医者」という役割だけではなく、他の医者・看護師・技師・薬剤師・院長・MR(Medical Representatives)などとの関係に応じたそれぞれの役割を期待されるわけだが、ここで注目すべきは、「医者」の役割群を構成している他の成員――看護師や院長らなど――たちが、医者とは違った社会的ポジションを保持しているという構造上の事実である。
つまり、人――ある社会的地位についた人というのは、その役割群を通じて、社会で別の地位を占めている人たちと構造的に結びつけられる。
そして、社会構造上それぞれ違う位置にある役割群の構成員たちが皆同じ利害や感情、価値観を抱いているということはまずありえない。各々が抱く利害や価値観、期待などは違う。そうした異なる利害や感情、価値観を有する人たちに囲まれているのだから、矛盾する期待の板挟みに陥る可能性があるということが容易に予想される。
これらの点を踏まえれば、この社会に生きる以上、役割葛藤を回避することはとても難しいと言える。なぜなら、相反する期待や矛盾する期待――役割葛藤というのは、社会および役割構造の上で生じるものなので、個人的な問題で片付けようとするには限界があるのだ。
だからこそ、個人の問題とする視点のみではなく、社会構造――役割構造に目を向けることが重要性を帯びてくる。
「社会構造上の問題、って言われるとちょっと難しく聞こえるかもしれないけれど、これまでの話をおさらいしていけば、なーんだそんなことってわかるようになるよ」
眉間に皺を寄せ、口を半開きにしている愛の表情から、カンナギは先手を打った。
――――――――――
主要参考文献
既出のため、割愛いたします。
視線を空中にさまよわせた愛が、おそるおそる口を開いた。
「先生である自分に関係のある人たち……教頭とか、校長とか、保護者、生徒もかな……色んな人、つまり、考えてることとか、価値観の違うバラバラの人たちが、自分に対していろんな期待を向けてくる状況……?」
疑問形で締め括りながら、愛が当否を訊ねるように横目でちらとカンナギを見る。
「そう! そうなんだよ、久野さん!」
人差し指をぴんと立てて、弾んだ声で首肯するカンナギ。愛は肩の荷が降りたかのような表情でふうと息をはいた。
(……この様子だと、余計な緊張感を与えただけになってしまったかもしれないな)
気の毒なことをしてしまったとカンナギは後悔する。
いくら問いかけ方に気を配ろうと、質問される側にはやはりそれなりのプレッシャーがかかってしまう。ましてや、互いの知識量に差がある状態で、正解・不正解が存在する問いを投げかけようものなら、問われた方に心的な負担をかけてしまうことくらい容易に想像がつくものを、自身の強みに気づいて欲しいなどと質問をするなんて傲慢もいいところだとカンナギが深く反省していたところ――
「ふふ……」
愛の不敵な笑みがカンナギの思案を遮った。
「私ったら、無意識のうちに示唆に富む発言をしていたようね!」
カンナギからの肯定を得て余裕が生まれたのか、愛は先ほどまでの様子とはうってかわって、得意げに胸を張っている。
気を回しすぎたか、と考え、否、それはたまたま相手がよかっただけのことだとカンナギは思い直した。ここで結果オーライであったからといって、うまくコミュニケーションが取れていたのだと安心するのは違う。同級生と関わるという経験に乏しい自分のことだ、知らぬ間に相手の気分を害したり、傷つけるような発言や態度をしているとも限らない。油断せず、対峙する人と状況をよく見て、互いにとって適切と思しき距離感を探り続けるべきである。
嫌われたくないからそうするのではない。むしろ、人から好かれることなどは早々に諦めた身だ。ただ――、無遠慮な言葉や態度によってたくさん傷ついてきたカンナギとしては、配慮を欠いた人間でありたくないだけなのである。
「――それで、私の言ったことのどういうところが示唆に富みまくっていたのかしら?」
鼻息を荒くした愛がずいっと迫ってきて、カンナギは思わずのけぞった。見れば、蓮も期待に満ちたまなざしをこちらに向けている。二人とも、カンナギの言葉を待っているようだった。
(久野さんのあっけらかんとしたところ、僕も見習おう。あとは――)
言外に含みを持たせるようなやり方より、直裁な物言いの方が自分の性に合っている。そう再確認したカンナギは、意を尽くして力説を始める。
「うん、順を追って話すよ。役割葛藤とうまく付き合っていくには、葛藤が発生する源泉をどこに見るか、ということが重要なポイントになるんだ。で、久野さんが話してくれた〝そんな状況〟は、まさに〝葛藤が発生する源泉〟を言い当てていたんだよ」
「なるほど、そうだったのか……すごいね、久野さん!」
「そ、そんなことないわ! たまたまよ、たまたまっ」
好きな人から褒められて愛は途端にしおらしくなる。
「――で、でも、レンレンに褒めてもらえて嬉しい……」
よほど勇気を振り絞ったのか、顔を真っ赤にした愛が言葉を続けた。謙遜や否定で終わらせなかった愛に、カンナギは思わず拍手を送りたくなる。しかし、肝心の蓮はノートを取ることに夢中らしく、愛のアピールは耳に入っていないようだった。
(ドンマイ、久野さん。次はもっと声のボリュームを大きくするといいと思うぞ)
愛の面目を潰さないためにも、カンナギは心の中だけでエールを送るに留め、軽く咳払いをして空気を変えておく。
「よし、ここからがさらに重要になるから、久野さんの話してくれた例を参考に、詳しく説明していくぞ。
生徒、教頭、校長、保護者といった先生を取り巻く人々――すなわち、〝先生〟の役割群の中にいる人たちっていうのは、それぞれ考えや価値観が違ったり、利害が一致しないバラバラの個人だ。そんな、バラバラの人たちの間で同じような期待が抱かれるということはまずないだろうね。みんな各々の考えや価値観、利害によって異なる期待を抱くのが自然なことだろう」
相槌を打つ蓮と愛を見て異論はなさそうだと判断したカンナギは、二人に視線を配りながら問いかける。
「そういうバラバラの価値観や期待をもつ人たちによって構成される役割群の中に置かれて、それぞれから異なる期待を向けられた人が葛藤を抱えるのは、至極当然の結果だと思わない?」
「ええ、そう思うわ」
「うん。僕もそう思う」
腕組みをした愛が深く頷き、続いて蓮もはっきりと同意を示した。
「じゃあ、今度は蓮に質問だ。役割葛藤を個人の努力で解決すべきだって考えたのは、どうして?」
カンナギの質問の意図を汲もうとするように、蓮が口元に手を当てながらゆっくり言葉を紡いでいく。
「それは……期待にうまく応えきれなくて葛藤を抱えるのは、僕の能力が足りないからだと思ったからで――――あ、そうか!」
伏せ目がちだった蓮の目がぱっと見開かれた。回答しているうちに、どうやら気づいたらしい。
「カンナギが役割群の考え方を通して伝えようとしているのは、個人の能力が不足していることが原因で役割葛藤が生じているわけじゃないってことだよね? ええと、つまり、役割に従事する人なら誰しも役割葛藤が生まれやすい状況に置かれる可能性があるっていえばいいのかな」
カンナギは両口角をニッと上げ、視線で肯いた。
「その通り! マートンが役割群の理論を通して明らかにしたのは、個人の資質や能力の不足を原因として役割葛藤が生じているのではなく、社会とか役割を成り立たせている仕組みや関連によって、葛藤が生み出されているっていうことなんだよ。これを社会学的に表現すると、役割葛藤は、個人的な問題ではなく、社会構造上の問題であるっていうこと」
役割葛藤は個人のパーソナリティの問題ではなく、社会構造によって生まれていると考えたマートンの発想に従うなら、役割葛藤とは、社会的な地位や社会構造のなかにあらかじめ埋め込まれているようなものであると考えられる。
たとえば――「医者」を例にするなら……
医者というひとつの地位には、患者との関係における「医者」という役割だけではなく、他の医者・看護師・技師・薬剤師・院長・MR(Medical Representatives)などとの関係に応じたそれぞれの役割を期待されるわけだが、ここで注目すべきは、「医者」の役割群を構成している他の成員――看護師や院長らなど――たちが、医者とは違った社会的ポジションを保持しているという構造上の事実である。
つまり、人――ある社会的地位についた人というのは、その役割群を通じて、社会で別の地位を占めている人たちと構造的に結びつけられる。
そして、社会構造上それぞれ違う位置にある役割群の構成員たちが皆同じ利害や感情、価値観を抱いているということはまずありえない。各々が抱く利害や価値観、期待などは違う。そうした異なる利害や感情、価値観を有する人たちに囲まれているのだから、矛盾する期待の板挟みに陥る可能性があるということが容易に予想される。
これらの点を踏まえれば、この社会に生きる以上、役割葛藤を回避することはとても難しいと言える。なぜなら、相反する期待や矛盾する期待――役割葛藤というのは、社会および役割構造の上で生じるものなので、個人的な問題で片付けようとするには限界があるのだ。
だからこそ、個人の問題とする視点のみではなく、社会構造――役割構造に目を向けることが重要性を帯びてくる。
「社会構造上の問題、って言われるとちょっと難しく聞こえるかもしれないけれど、これまでの話をおさらいしていけば、なーんだそんなことってわかるようになるよ」
眉間に皺を寄せ、口を半開きにしている愛の表情から、カンナギは先手を打った。
――――――――――
主要参考文献
既出のため、割愛いたします。