第25話

文字数 4,035文字

 わざわざマートン――「役割群」の話を引っ張り出してきたのには理由がある。
 カンナギが一貫して伝えたいのは社会学という学問の面白さだけではない。特定の価値観や既成概念に縛られず柔軟に対象を捉えようとする、その自由な発想と考え方、そして、悩ましく複雑な人間集団――「社会」を生き抜くために役立つであろう知識を伝えたいのだ。

 とりわけ、マートンは――やはり彼の出自と人生経験ゆえか――手堅く社会を観察しながらも、「常識」に囚われずにうまく発想を転換させる術に大変長けている、というのがカンナギの見解である。

「この『役割群』という考え方が、役割葛藤とうまく付き合うヒントを与えてくれるんだよ」
「葛藤と、うまく付き合う……?」

 蓮はカンナギの表現に意外性を感じたらしい。実直な蓮のことだ。おそらく「葛藤」は解消するもの、乗り越えるものとして考えているのだろう。

「そ、『うまく付き合う』んだ。もちろん、解消したり克服するに越したことはない。ただ、『解消する』とか『克服する』っていう言葉には、役割葛藤を『個人の問題』――言い換えると、個人が解決すべき問題としてみなすニュアンスが潜んでいたりするんだよ」
「そんなニュアンス、考えたこともなかったわ」
「僕もだよ。でも、カンナギに反論したいわけじゃないんだけど、役割葛藤ってまさに個人の努力で解決すべき問題のように感じてしまうんだけどなあ」

 申し訳なさそうに視線を落とす蓮に、カンナギは「やはりな」と思った。
 責任感が強く、努力家で、言い訳をしない――そんな好ましい美点の数々をもつ「善い人」ほど、困難に直面すると自分でなんとかすべきだと力を尽くそうとする。そのこと自体はとても素晴らしい。

 しかし――
 その「困難」に、個人の努力だけではどうにもならない部分があったとしたら?
 その「困難」が、個人の裁量を超えたところによりもたらされたものであったとしたら?

(僕は、「善い人」が必要以上に苦しんだり、悩んだりするのが嫌なんだよ)

 だが蓮の言い分も痛いほどわかる。困難や問題に直面したならば、なるだけ自分の力で解決なり克服したいというのがカンナギの基本的なスタンスである。

「うん。各個人が問題を解決するために努力する姿勢は、僕も必要だと思う。ただ――」

 自らを追い詰めるような、心をすり潰す努力までしなくていい。そのことに気づかせてくれたのは紛れもなく社会学だった。

「頑張るところと、頑張りすぎなくていいところ――そこを見極める視点があってもいいと思うんだ」
「――! その発想は僕にはなかったよ」
 感銘を受けたのか、蓮は興奮気味にペンを走らせている。
「頑張らなくていいルートがあるのね?!」
 興味津々といった様子で愛が目を輝かせた。この反応は都合よく解釈しているかもしれない。カンナギは念のため、穏やかに釘を刺しておく。
「はは、最初から努力を否定したり、放棄することを推奨しているわけじゃないぞ」
「ですよねー」とがっくりと肩を落とす愛。とはいえ、それは本気で落ち込んでいるというよりパフォーマンスのようだった。和やかな空気が三人を包む。

(さて、どう伝えるのがいいかな……) 

 マートンは役割群というアイデアが社会学独自の研究問題を生み出すと捉えていた。それはすなわち、「役割群の中にある人びとの期待をうまく接合して、或る地位を占めている人に葛藤ができるだけ生じないようにする社会的メカニズムをつきとめること」であったり、あるいは「そうしたメカニズムがどのようにして発生するのか」という問いなどを導き出していたのだが、ここでポイントとなるのは、マートンの「葛藤」に対する捉え方だ。

 この議論における「葛藤」とはつまり、相反する期待や規範に引き裂かれるという状態――いわば「アンビヴァレンス」というべきものである。一般的にアンビヴァレンスとは、心理的に反対方向に引き裂かれることを指しており、これは主に心理学の問題――個人の心的な問題として扱われてきた。しかしマートンは、アンビヴァレンスを個人の内側にあるものではなく、社会関係や社会構造に内在するものとして捉えたのである。

 そう、マートンは役割に従事する人間が抱える葛藤(≒アンビヴァレンス)を、個人の能力や心理的な問題としてではなく、社会構造の問題として考えようとしたのだ。そこでマートンが提出したのが、「社会学的アンビヴァレンス」という概念である。葛藤を個人のパーソナリティから説明するのではなく、社会構造から分析しようとするのがこの概念のねらいだ。

 個人という枠だけで考えるのではなく、関係性や構造に着目するのがいかにも社会学らしくて、いい。

(主流とされる考え方に囚われず、さらには新しい見方を提示するところが最高にワクワクするんだよな)

 カンナギの心を躍らせるのは、「葛藤」という人の心のうちに生ずる、一見するときわめて個人的なものに見える問題を、個人の側から引き剥がし、社会構造に言及したマートンの手腕である。
 その手腕、ひいては社会学の面白さを伝えるには、是非とも社会学的アンビヴァレンスの内容まで言及したい。

(――でも、今日のテーマはあくまでゴフマン社会学だ。役割葛藤に関係あるとはいえ、アンビヴァレンスまで説明しようとするのは悪手だよなあ)

 自身の性格上、用語を出して終わり、ということは絶対できない。たとえ簡略化した説明であったとしても、アンビヴァレンスという言葉の意味であったり、心理学における「アンビヴァレンス」の扱われ方とマートンのいう「アンビヴァレンス」はどのように違うのかまで言及してこそ、初めて社会学的アンビヴァレンスの新規性やマートンの着眼の鋭さ諸々が伝わるのだとカンナギは考えている。だからこそ中途半端な切り込み方はしたくなかった。

(今回は、我慢だな)

 我ながら面倒臭い性格をしているなと思いはすれど、今のところ方針を変更するつもりはない。
 で、あれば、及第点と思しきところまで説明できる範囲のものだけを口にするべきだ。やはり当初の予定通り役割群にターゲットを絞って話をしよう。そう結論を下して、カンナギは紅茶で口を潤し、おさらいを兼ねた確認に移る。

「役割群、という考え方では、ひとつの役割と言いながらも実際は複数……一連の役割があるって話だっただろ?」
「うん。先生、って言ってもその役割はひとつに限られていなくて、本当は『先生』を取り巻く色々な社会関係に応じた役割が存在している、って話だったよね」
 愛が「そうそう!」と間髪入れずに反応し、頭を抱えながら蓮の言葉を引き継ぐ。

「教頭、校長、教育委員会、保護者一同……それぞれ考えや価値観の違う人たちが、好き勝手に各自の期待を押し付けてくるのよね。ああもう、そんな状況、葛藤が生じて当然よ! とてもじゃないけど、捌ききれないわ」

 想像力をフルに働かせたのだろうか、少々大袈裟な――まるで経験したことがあるかのような物言いに感じられたが、かなり鋭いところを突いている。説明された内容を即座に吸収して見事に要約する蓮、感覚的に理解しながらも無自覚に核心へと迫る愛。自分にはない眩しい長所に触れ、カンナギはますます二人に惹かれてゆく。

「……なによ、にんまり笑っちゃって。私の言ったこと、そんなにおかしかった? そりゃあ、レンレンの答えと比べたらダメかもしれないけどさ」

 自分の表情が愛の劣等感を刺激したらしいことを悟り、カンナギは「いや、違うんだよ」と、即座に否定する。

「蓮も久野さんも、僕にはない素敵なものをたくさん持っているなと思って。たとえば、蓮の吸収力、理解力、要点を掴む力、そして言語化能力は並はずれている。久野さんは、耳慣れない内容の話であっても、勘の良さなのか自身の経験と結びつけて理解したり、想像力を駆使して把握するのがすごく上手いと思う」

 カンナギの場合、気の利いた社交辞令や世辞は言えない代わりに、心からの想いはまっすぐに表現するし、称賛を相手に伝えることにも抵抗がなかった。

 カンナギから手放しの称賛を受けた愛は複雑そうな表情を浮かべながらも
「も、持ち上げても、何にも出ないわよ!」と、強気に応じてみせたが、その耳は真っ赤だった。
 愛の動揺と照れを言外から察したのだろう。蓮が
「本当に褒め上手だよね、カンナギは。言葉に他意がないから、余計に恥ずかしくなっちゃうよ」と自身も頬を赤らめながら言った。

「褒めているつもりはないぞ。感じたことを率直に言っているだけだ。
 そうそう、久野さんは無意識だったかもしれないけど、さっきの久野さんの発言は示唆に富む内容だったんだよ」

 唐突に本題へとシフトチェンジしたカンナギから名指しで話題を振られた愛が面食らう。

「そ、そうなの? えっと、なんて言ったかしら……」
 目を瞬かせ、明らかに不安そうな表情を見せる愛に、さらなる圧力をかけないよう、カンナギはできるだけ穏やかに聞こえるように心がけて問いかける。
「〝そんな状況、葛藤が生じて当然〟と言っていたんだ。そんな状況って、具体的にどんな状況のこと?」

(試してるわけじゃないんだ。許せ、久野さん)

 ところどころで質問して自分で考えてもらう方が記憶に引っかかりができて、理解も深まる上に印象に残るので、カンナギはあえて質問を挟むようにしている。とくに、愛の話す内容には――当の本人はさらさら気がついていないようだが――、けっこう重要な観点が入り込んでいることが多い。カンナギとしては、ぜひとも愛自身に、自らがもつ洞察力に気づいて欲しいのである。 


――――――――――――
主要参考文献
 R.K.マートン(著),森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎(訳)『社会理論と社会構造』1961,みすず書房.
 R.K.マートン(著),森東吾・森好夫・金沢実(訳)『現代社会学体系 第13巻 社会理論と機能分析』1969,青木書店.
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