第22話

文字数 3,972文字

「役割葛藤?」
「そう、役割葛藤だ」 

 蓮の確認に肯いてみせてから、カンナギはゆっくりと説明を始めた。

「僕たちがそうであるように、人はいろいろな集団に所属しているよね。家、学校、クラブ活動、塾、習い事のスクール……社会人であれば、会社、趣味のサークルなんかが加わるかもしれない。複数集団に所属しているってことは、個人が担う地位や役割が増えるわけで、そうするとその個人に向けられる役割期待も必然的に複数生じることになる」

 一息に説明してしまおうとも思ったが、長々と説明するだけでは緩急に欠けると判断し、ここで言葉を切った。
 退屈させないスパイスとして、少々の緊張感を演出したいところである。カンナギはほんの少し声色を変え、「ところが」と言って、指先でとんと軽くテーブルを叩き、目に力を入れた。

 蓮は熱のこもった眼差しをカンナギに向け、愛は小さく喉を鳴らした。演出はまずまず成功といったところか。

「その複数の役割期待が互いに矛盾していたり、対立するようなものだった場合、人は相矛盾する役割期待の板挟みになって内的葛藤を引き起こしてしまう。役割を遂行するにあたってジレンマに陥ってしまうんだ。この状態を『役割葛藤』というんだよ」

「はぁー……普段何気なく生きてるけど、言われてみれば私たちってけっこう色々な集団に所属してるのよね。えっと、家なら『娘』の役割、学校なら『学生』、クラブ活動なら『部員』……。うへえ、知らないうちに色々な期待を背負って生きてんのね、私たち。そりゃあ葛藤の一つや二つ生まれるわ!」 

 両腕を前に投げ出しながら愛が言った。その口ぶりが可笑しくて、カンナギは小さく両口角を上げる。

「――そうだよね、僕たちは複数の集団に所属している。そうなれば当然、背負うべき地位や役割も増える」

 感ずるところがあったのか、噛み締めるように蓮が言った。

「……普通の、何気ない当たり前の日常なんだけど、社会学を通して見ることで具体的な言葉や概念で説明することができるようになって、さらには自分たちが置かれている状況を客観視できるってすごいよね。『普通』とか、『当たり前』のことほど、注意を向けることなんてほとんどないから、きっとこれまでたくさんのことを見落としていたんだろうな」

 得られた気づきを言語化する蓮の双眸には光が宿っていた。蓮の中で、社会学の醍醐味をひとつ、掴んだのかもしれない。そう思うと、カンナギの両口角はさらに上がった。
 誰かに教わる楽しさもいいけれど、自分で発見する楽しさにはまた格別の感動が伴う。

「――! ごめん。勝手に一人でしみじみしちゃって」
「いいや、謝ることなんてないぞ。社会学の話でしみじみしてもらえるなんて、僕としては幸甚だ。――っと、そうだ。役割葛藤は、正確にいうとこの二つがあってだな………」

 幸せの余韻もそこそこに、カンナギはルーズリーフに「役割間葛藤」「役割内葛藤」と走り書きして、蓮と愛に差し出した。

「えっと……『間』と『内』の葛藤があるってこと? なにが違うの?」
 愛がルーズリーフを覗き込み、首をひねった。

「順番に話そうか。まず、役割間葛藤。これは文字通り、異なる役割の間における葛藤を指しているんだ。具体的には、さっき蓮が挙げた『母親』と『会社員』との役割の間で悩むケースなんかが該当するな」

「へえー。じゃあ、私が挙げたお医者さんの例は『役割内葛藤』にあたるってこと?」
「ご名答!」

 役割葛藤の研究をおし進めたのは、二十世紀アメリカを代表する社会学者、かの有名なロバート・キング・マートンである。このマートン、アメリカにおける彼と同時期の社会学者らと比べると、少々異色ともいえる出自、および経歴の持ち主なのである。

(かなり、印象深い生活体験をしてるんだよなあ、マートンって)

 カンナギの脳内で、マートンのプロフィルが自動的にかつ恐るべき速さで展開されていく――

 マートンは1910年7月4日、南フィラデルフィアのスラムに生まれた。父親は移民労働者で、トラック運転手や大工として働いていたが、家庭は貧しかった。
 マートンが生まれ育ったスラム街といえば、揉め事やいさかいが絶えず発生し、貧困に覆われ、犯罪や非行の温床といっても過言ではない。そのような環境に置かれ、さぞかし鬱屈とした苦しい毎日を送っているかと思いきや、そこはのちに世界の社会学を牽引する存在となるマートン。やはり只者ではなかった。

 彼は生まれ育った環境について「友情に満ちた、活気ある、つねに好奇心をそそる棲み家」と記憶しており、さらには少年ギャングの一員として仲間たちと活発な少年時代を過ごしたという。

 他方、知識欲旺盛だったマートンは、すでに8歳の頃には公立図書館の常連となり、あらゆる種類の文学に親んだ。なかでも、伝記ものを読み漁っていたらしい。

 小学校低学年の頃、学校の図書室にあるすべての伝記を読破した経験をもつカンナギにとって、このエピソードには強い親近感を覚えた。もっとも、カンナギの場合は知識欲に起因するものではなく、友だちがいなかったことから図書室に駆け込んだ末の濫読ではあったのだが。

 不遇ともとれる環境をものともせず、ギャングとして活動するアクティブさを発揮し、図書館を利用して自身の知識欲を満たしていった幼きマートンの非凡さに心躍らないわけがない。まさに伝記を読むようなワクワクする気持ちでマートンの生活史を追ったカンナギは、次なる彼のエピソードに大いに驚いた。

 マートン少年12歳、なんと近所の手品師に弟子入りをしているのである。

 優れた弁舌と器用さを活かして、たちまち手品を習得したマートンは、セミ・プロの手品師として地域の施設や祭り、集会などで手品を披露し、収入を得るまでに成長した――のだが、ときに危険も伴う手品、子どもが真似をするので悪影響だと親たちからの苦情が殺到する事態に至る。結果、マートンは手品師になるのを断念することになった。

 その後のマートンはというと、17歳で奨学金を得て、地元フィラデルフィアのテンプル大学に入学する。ここでも才覚を発揮した彼は、首席を続けた。社会学に関心をもつようになったのはこの頃だという。そして大学院はあのハーバード大学に進学…………どこにいようが、どんな道に進もうが、マートンは必ず頭角を現すのではと感じられるのは、きっと気のせいではないだろうとカンナギは思う。

 ――まあ、手品師の道を断たれたことは、当時のマートンとしては残念な出来事だったかもしれないけれど、そのまま手品師になられては社会学者・マートンの誕生はなかった。つまり、あれやこれやの興味深く心躍る理論や概念――「中範囲の理論」「逸脱行動論」「準拠集団論」「相対的剥奪」……ああもう挙げきれない――も生み出されなかったのだ。

 カンナギは苦情を申し立てた親たちにそっと感謝をささげながら、今の話題――役割葛藤――に関連するマートン社会学について考えを引き戻す。

 マートン社会学の主たる関心……研究テーマとは、ずばり、「理論と調査の関係」だ。この研究テーマ、そしてマートン社会学を語る上で切り離せないキーパーソンがいる。その人こそ、彼の師匠――タルコット・パーソンズ(1902〜1979)である。

 パーソンズは第二次世界大戦後のアメリカを代表する社会学者で、社会学の主要テーマ「秩序問題」に取り組んだ理論家だ。パーソンズは「社会秩序はいかにして可能か?」という問題の解明を目指すべく、行為論を生成したり社会システム論を構築するなどして社会の一般理論の構築を試みた。

 考え方も何もかもが違う、一見するとバラバラの個人が、まとまって「社会」を作りあげることができているのはなぜなのか? つまり、現実に成立している社会秩序――言うなれば「社会の謎」を説明せんと、功利主義思想に切り込んでいくパーソンズの着眼点、鋭いツッコミ・発想の数々! 思い浮かべるだけで心が弾むような楽しさ。パーソンズの話もねじ込んでしまいたくなるけれども、ここはぐっと我慢して素早く気持ちを切り替え、軌道修正をする。広告塔として、もう暴走することは許されない。

 さて、マートンが自身の主たる研究テーマに理論と調査の関係を据えたのは、他ならぬ「師匠へのツッコミ」が背景に存在する。師匠――パーソンズはたしかに世界に影響を及ぼした偉大な社会学者であることに違いはない。しかし、いかに優秀な人物が試行錯誤の末に提唱した理論であろうと、「完璧」ということはあり得ない。有り体にいえば、どんなに優れた理論にも、必ず「ツッコミどころ」があるのだ。



(続く)
――――――――――――――――

 パーソンズがいかにして「秩序問題」を解明したかについては、Amazonで発売中の拙作『愛と秩序の四時間目 小学六年生への社会学講義』にて、小学校の先生になった未来の愛が、六年生の児童に向けてレクチャーしています(カンナギも少しだけ登場しています)。
 ちょっと気になるかも? と思ってくださったそこのあなた! ご購入いただかなくても大丈夫です! 紫月冴星のnoteにて『愛と秩序の四時間目〜』全文公開しておりますので、お手数ですが「紫月冴星 note」とご検索ください。
(他サイトなのでリンクを添付するのは控えさせていただきます)


主要参考文献(既出のものは省略しています) 
 鈴木広「マートンの方法」(徳永恂・鈴木広(編)『現代社会学群像』恒星社厚生閣,1990,p.103-124.)
 辻正二「初期マートン社会学の形成」『社会学研究年報 7・8』九州大学社会学会,p.123-139.
 紫月冴星,2020『愛と秩序の四時間目 小学六年生への社会学講義』デザインエッグ社.
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