第16話

文字数 4,292文字

 カンナギと愛のやりとりを、蓮は微笑ましく――関心の矛先はあくまでカンナギのリアクションに向けられているのだが――見守っていた。カンナギが楽しそうで何よりである。

 蓮が愛を社会学カフェに誘ったことに深い理由はなかった。愛ではなくても、カンナギにとって無害そうなクラスメイトであれば誰でもよく、声をかけていた。もちろん、愛がカンナギに対し〝ぼっち〟だなんだと言葉を投げつけていたのは知っている。しかし、主犯格たり得るほどの悪どさが彼女に備わっていないこともわかっている。

 愛がカンナギを非難していたのは、クラスで円滑な人間関係を維持するための処世術といえる。カンナギにひどい言葉をぶつけるクラスメイトらを止めることができなかった自分と愛に大した違いはないのだ。そして何より、いざとなれば自分が防波堤の役割を果たせることも織り込み済みだった。愛の自身に対する好意に無自覚でいられるほど、蓮は鈍くはない。
 カンナギとは異なるベクトルで、蓮もまた他人を観察している。ただし、観察できるのは感情、思惑といった無形のものだ。

 実のところ、蓮は興味を抱いた人間の顔以外あまり識別できていない。ぼんやりと区別しているだけで、みな似たり寄ったりに見えている。
 以前はそうではなかったのだが、必要な情報は受け取っているのだからと差し当たっての支障は感じていなかった。つまり、蓮は愛の顔をほとんど認識できていない。ただ自分への好意があることだけを把握している。

 ――僕がいちばん、悪どいな。

 人の気持ちを利用するつもりはないけれど、結局は利用していることに変わりはない。
 世間一般の同世代と比較すれば、おそらく自分は「演技」に長けているのだろうと蓮は自身を評している。もっとも、当初は演技をしているという自覚もなく、カンナギには深層をあっさりと見抜かれてしまったが――つい最近の話なのに遠い昔を思い起こしているような感慨に、蓮は自然と深く息を吸いながら、カンナギの方へと目を向けた。

 ひとことで言って、綺麗な子だと蓮は思う。卵型のフェイスライン、派手とは言い難いが全体的に整った顔立ちだ。長めの前髪に隠れた力強い瞳がひときわ印象に残る。
 カンナギの目に、自分はどう映っているのだろう。どこまで見抜かれているのだろう。沸き起こる感情のさざなみにのみ込まれる前に、蓮はとびきりの笑みを浮かべ、自制した。
   
「印象操作についての例が少し多くなってしまったけど、要するに、Aさんの『演技』は久野さんとスーパーで遭遇したことで破綻、失敗してしまったわけだ。でも、これは決してめずらしいことでもない。むしろ、演技が撹乱させられる要素なんてあちこちに転がっているからね」

「たしかに、いつも『演技』が成功するとは限らないよな」
 頬杖をついた蓮が相槌を打ち、続けて愛も首肯する。
「実は、久野さんが話してくれたエピソードには、印象操作についてだけでなく、ゴフマン社会学にとって重要なポイントや概念がたくさん詰まっていたんだよ。そのなかには、『演技』を成功させるコツも含まれていたんだ」

「あ! 一つだけ、わかったかも」
 クイズの答えを当てたがる子どものような無邪気さで、蓮が前のめりになる。
 愛はとりあえず考え込む仕草をしてはみるものの、それでわかるはずはない。が、気後れはなかった。自分の提供した話が的外れではなかったこと、さらにはお役に立てそうな気配まであるのだから、満足感の方が断然強い。

「ふふ。蓮、今思い浮かべたその答えはいったん胸にしまっておいてくれ」

 蓮が現在使っている社会学のテキストの内容はカンナギも知っている。したがって、蓮の言う〝一つだけ〟が何を指しているのかについての目星はついている。そして、それは正しい解に違いない。けれども、それはテキスト用に手際よくまとめ上げられた内容だけに、実際は足りない部分もある。ゴフマンの仕事量は実に多く、本来なら数ページでまとめられるような内容ではないのだ。

 当然、この社会学カフェの場においてだって伝えられる情報量には限界がある。そのことはカンナギ自身が一番よく理解しているけれども、せっかくなら、既知であろう事柄をそのままなぞるのではなく、可能な限りプラスアルファの内容を上乗せして伝えたい。カンナギの欲張りなチャレンジは続く。

「順番に行こう。まず、演技には本番――表舞台があるように、舞台裏も存在するだろ? 言い換えると、僕たちが印象操作をするときには、必然的に表舞台と舞台裏が生じるんだよ。Aさんの場合だと、塾がAさんにとっての表舞台、それ以外……スーパーが舞台裏だったわけだ」
「なるほど」
「うんうん」
「この表舞台、舞台裏をゴフマンはそれぞれ『表局域』『裏局域』という概念として提示したんだよ。そして、この表局域と裏局域を分離することが演技を成功させるコツの一つなんだ」

 カンナギは新しいルーズリーフに「表局域(front regions)」「裏局域(back regions)」と記した。

「〝局域〟ねぇ……。初めて聞く言葉だわ」
「要は、舞台裏を見せないってことが演技の成功に繋がるって話なんだよね……それはなんとなくイメージができるんだけど、僕も〝局域〟についてはまだ知らなかったな。〝region〟って〝範囲〟とか〝領域〟といった意味の英単語だよね」
「そうそう。〝局域〟っていうのは、知覚にとっての仕切りとなる、ある程度区画された場所のことを指すんだよ」
「知覚にとっての仕切りって?」
「表局域をざっくり言うと、その場にふさわしい演技が行われる場所のこと。裏局域は、舞台上で行うパフォーマンスをするための準備の場といえばいいかな。この二つの局域は必ずしも物理的にはっきり区切られているわけではないんだよ。あくまで知覚的に区切られているものなんだ」

 一瞬の沈黙。
 蓮はこめかみをペンで支え、その眉間にはほんのわずかな皺が寄っている。
 愛は頬に手を当て、その視線は完全に下を向いている。
 いきなり知覚がどうのと言われても反応しづらいであろうことはカンナギも当然予想していたが、わかりやすく伝えようとするあまり、本来の意味を損ねてまで伝えることはやはりどうしても避けたかった。その代わり、具体例を挙げて補足する構えはできている。かつての自分も、専門的な概念・用語を具体例に落とし込むことで理解を深めてきたのだ。

「たとえば」
 蓮と愛の視線がカンナギに集中する。
「想像してみてくれ。バイト先にちょっと偉そうな常連さんがいるとしよう」
「――客だからってなんか偉そうだったり、すごく感じの悪い人、たまにいるわよね。ああいう人とは私、関わりたくないわ」

 忌々しげな愛のぼやきに蓮も「あれは本当によくないね」と言葉を重ね、頷いている。二人の険しい表情に、次からは想像力を刺激しすぎないような、もう少し穏やかなたとえにしようとカンナギは心に留める。こういう、思いもよらない反応も楽しいものだ。「まぁ僕だって関わりたくないけれども」と一応の同意を示してからカンナギは説明を再開させる。

「その常連さんはよくお店に来てくれるお客さんなわけだから、売り場、つまり『表局域』では気持ちの良い接客をする。いわば、〝感じの良い店員さん〟としての役割を演じるんだ。
 だけど、売り場を離れた倉庫や休憩室――『裏局域』では表局域で担っていた『役割』から一旦解放されるんだよ。そこで身だしなみを整えたり、バイト仲間と談笑したり、あるいは常連さんに関する愚痴を言い合ったりして、くつろぐなりストレス解消なりをする。そうして、また表舞台に戻ったときに感じよく接客するという『演技』ができるんだな」

「なるほど。〝舞台裏〟が〝表舞台〟での演技の成功に一役買っているってことか……この場合、常連さんに裏局域を見られたら、せっかくの演技が台無しになるよね」
「その通りだ」

 ゴフマンは「裏局域」を、パフォーマンスを通して人に抱かせた印象が事実上意識的に否定されている場所、と定義している。つまり、「演技」を成功させるには、裏局域を表局域から隠蔽なり隔離なりしておく必要があるのだ。

「裏局域では、表局域で呈示する自己にとって不都合な情報が現れる場所だから、オーディエンスは原則、裏局域に近づくことは許されないんだよ。演技を成功させるためには、不都合な情報を表に出さないような工夫が求められるんだな」
「なるほどねぇ。演技をする場所を分けるってことはよくわかったわ。でも、〝知覚にとっての区切り〟がまだピンとこないなぁ。さっきの話……売り場とか休憩所って、物理的に区切られているように思うんだけど」

 言い終えて、愛は少し後悔した。理解力がないと思われただろうか、反論しているように聞こえてしまっただろうか――しかし、この社会学カフェの場で、こうした懸念は杞憂でしかない。
 蓮が明るい声で愛の指摘に応じる。
「たしかに! それは僕も気になってたんだ」
「うんうん。久野さん、だんだんゴフマンワールドにはまってきたんじゃないか?」

 したり顔で問うてくるカンナギに愛は思わずノリよく言い返す。
「いやはまってないし! 単純に気になっただけだから!」
 そう言いながらも、愛の心は躍っている。
 ここは学校、教室の中とは違うことを愛は無意識のうちに感じ取っていた。いつかの昼休みに夢想したことが現実になりつつある。
 二人とも、愛の発言を馬鹿にしたり、値踏みするような視線をぶつけてくるようなことはしない。目には見えないけれど、温かい雰囲気がある。そういう空気が、いつの間にか愛をリラックスさせ、積極的な発言を促していた。

「……まぁ、すこーしだけ、足の指先くらいなら、沼にはまっているとも言えなくはない、わね」
「沼?」
 キョトンとした顔の蓮が尋ね返す。
「沼っていうのは、アニメやゲームなどの作品にどっぷりはまって、沼に足を踏み入れてしまったかのごとく沈んで抜け出せなくなるような様子をたとえた用語なんだけど、はまる対象について特に限定されていることはなくて、夢中になれる対象であれば柔軟に使えるんだよ。これはなかなかどうしてうまい表現だなと僕は感心して……そうそう、僕であれば〝社会学沼にはまっている〟ことになるな」
「いやいや解説しなくていいから!」

 ――こいつの守備範囲、広すぎじゃない?
 意気揚々と語るカンナギの横顔を見ながら、迂闊な発言は控えようと思う愛であった。


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