第14話

文字数 4,422文字

「『自己呈示』を簡単に言うと、自分にとって望ましい印象や、〝こういう人物である〟といったことを他者に与える振る舞いのことだな。この場合の『他者』は、ゴフマンのドラマトゥルギーに(なぞら)えて言うなら『オーディエンス(観客)』だ。
 観客っていうのは演技を見る人のことをいうだろ? つまり、ゴフマン社会学において『オーディエンス観客』とは『演技』の向けられる相手、言い換えるなら、自己に関する情報の受け手と想定される相手のことを指しているんだ。
 じゃあ具体的にどういう相手がオーディエンスになりうるかと言うと、行為――すなわち『演技』を実際に見ている人。あとは、演技がなされている現場にいなくても、その『演技』にかんする情報を得ると予想される人も『オーディエンス(観客)』になりうるんだ」

 ――なるほど、演技がなされている現場にいない人も、オーディエンスなんだ……
 蓮はこめかみにペンを当てつつ、カンナギの解説に聞き入りながら省察していた。

 オーディエンス、という言葉はすでにテキストで目にしていた。が、基本テキストということもあり、それが具体的に何を指しているかまで蓮はまだ知らなかった――にもかかわらず、「オーディエンス」についてもう充分理解していたと思い込んでいた自分に気づくと同時に、蓮は探るまでもなく、〝わかった気になってしまった〟原因に辿り着いた。
 
 ――そうだ、「観客」が日常語でもあるから……改めて調べなくても、なんとなく理解できてしまう言葉だから、わかった気になっていたんだ
 同じ過ちを繰り返さないよう、蓮はすぐさま「言葉がもっている本当の意味に注意」と赤ペンを走らせ、声をかけた。

「ありがとうカンナギ。僕、オーディエンスについては〝演技を見る人〟くらいの理解で止まっていたから、今の説明、すごく助かったよ。ええと、つまり、直接もしくは間接に自分の演技について知る人のことを『オーディエンス(観客)』っていうんだね」

 愛が尊敬のまなざしを蓮に向け、「やっぱりすごいなぁ」とつぶやいた。
 蓮の言葉を受けたカンナギは嬉しそうに笑って、愛の手助けになればと補足をする。

「さすがは蓮だな。簡潔にまとめてくれて助かる。
 たとえば、クラスメイトの前で『演技』をしている場合、誰がオーディエンスに該当するかといえば、言うまでもなくその場にいるクラスメイトの面々だ。だけど、欠席者がいた場合、その人はオーディエンスじゃなくなるのかと言えばそうではない。自分がその人のことを情報の受け手と想定しているなら、欠席者もオーディエンスになる。まぁ、ちょっと極端な例だけどな」
 
 そろそろ喉が乾いてきたので、カンナギはここで一旦言葉を切り、水の入ったグラスに口をつけた。

「あと、これは余談になるんだけど、実はオーディエンスとなりうるのは実在する人たちだけじゃないんだ。すでに亡くなってしまった人だったり、神さまというべき存在、自分の良心や信念、美意識なんかも含まれる」

 へぇ、と蓮が小さく驚きの声を上げた。カンナギは相槌を打ちながら答える。

「人って、すでに亡くなってしまった人であっても、あたかもその人がその場にいるかのように感じて振る舞うこともあるし、自分の中にある良心を意識した振る舞いをすることもある。だから、そういう意味では実在しない人や心のありようも広い意味ではオーディエンスに含まれるんだけど、ゴフマンが主に取り上げたのは、『演技』を直接もしくは間接に知る実在するオーディエンスだったんだよ」

 蓮と愛がそれぞれなるほどと言いたげに頷いているのを確認してから、カンナギは次の内容に言及する。


「で、そんな『オーディエンス(観客)』に対し、演技をする『自己』は『パフォーマー』だ」

 パフォーマー……
 愛の脳内で、ワイルドなお兄さんたちが軽快にステップを踏んでいる映像が再生される。「エグ…」と舌先まで出かかったところを蓮が目の前で真剣に頷いている様子が視界に入り、愛はぎりぎり踏みとどまった。連想すればいいってものじゃない。わかっている。その〝パフォーマー〟ではないことぐらい。危うく余計な「自己」を呈示してしまうところだった。自己呈示とは意外と難しい、なるほどこれが生きた勉強かと愛は人知れず納得するのであった。
 
 他方、蓮が興味深そうに耳を傾けている姿を目の当たりにしたカンナギには少し、欲が出ていた。「自己呈示」と「自己開示」の違いについて、ここで説明すべきか否か――

 自己の情報を他者に伝える、という点において「自己呈示」は「自己開示」と類似しているが、自己呈示の場合、自分の情報を「見せる」ばかりではなく「見せないこと」も含めて、自己に関するイメージを統制しようとしている。
 自己開示ができる限り自身に関する情報をありのままに伝えようとするのに対し、自己呈示は特定の印象をもたせることを目的としているので、意図して「見せる」「見せない」を選ぶことになる。

 さて、どうしたものか。カンナギはわずかの間、考えた。時間は限られている。が、まだ社会学の基本的な専門用語である「行為」やゴフマン社会学に頻出の「役割」の話すらできていない。説明したい事項は山のように控えているのだ。自己呈示と自己開示の違い、重要な点ではあるけれど、学校の授業でもなく試験をするわけでもなし、現時点でそこまで詳しく踏み込む必要もないだろう。後ろ髪を少し引かれながらもカンナギはそう結論づけ、「印象操作」の話に入った。

「そして、『印象操作』は『自己呈示』と同じ意味だととられてしまいがちなんだけど、実際は違うんだ」

 カンナギは黒板代わりにとルーズリーフを取り出し、〝パフォーマー(自己)〟〝オーディエンス(観客)〟と書いて、それぞれをぐるっと丸で囲む。まだ終わらない。丸で囲んだ〝パフォーマー(自己)〟側に、学生服第一ボタンまできっちり留めた眼鏡姿の学生のイラストを描き、次に戯けた表情・着崩された学生服、さらには寝癖つきというオプションを備えた人物を描く。

 少々テンプレが過ぎるかもしれないが、わかりやすさ優先なのだからこれでいいとカンナギはペンを置き、ルーズリーフを二人に見せる。「え! うまっ」というつぶやきが愛の口から溢れたのをカンナギは聞き逃さなかった。伝わっているらしいことに安堵して、説明に移る。
 
「自分はこういう人物なんです、とオーディエンスに自己呈示を行う際、相手に提示している自己のイメージを維持するために、僕たちは印象操作を行っているんだ。
 たとえば、学校の先生の前では真面目で優秀な生徒であるという望ましい印象を見せる一方で、それ以外の印象――友だち同士でのひょうきんでお調子者といった印象を隠すといった、操作、コントロールがそうだな」

「そっか、〝真面目で優秀〟なイメージを維持するため、そのイメージにとって都合の悪い情報や矛盾する情報――この場合〝ひょうきんでお調子者〟を隠すんだね」

 蓮がカンナギの説明を引き取り、ポイントを押さえながら言葉を換えて整理する。

「そうそう。意識的であれ、無意識的であれ、オーディエンスの視線を意識しつつ、その場に応じた適切な振る舞いを選択するよう、表情、言葉遣い、服装、髪型とか、そういう自分の〝身体〟をコントロールすることが『印象操作』なんだよ」

 ――なるほど、『印象操作』ねぇ…
 愛は昔通っていた塾で知り合った同級生――学区は違っていたので別の学校に通っていた――のことを思い出さずにはいられなかった。

 いつもオシャレな服装に身を包み、塾内模試ではトップの成績を維持していたあの子の口癖は「私ってゲームばっかしてるから」。遊んでばかりいても成績優秀、その上オシャレだなんて神様に気に入られているんだなぁなんて思っていたら、たまたま行ったスーパーで見かけた彼女が塾で見る姿とはまるで別人だったものだから愛はたいそう驚いた。

 その時の彼女は学校帰りらしく、塾ではコンタクトだったのにメガネをかけ、髪はボサボサ、ボロボロに使い込まれたテキストを一心不乱に眺めていた。多分、あれは塾の小テストに向けて暗記をしていたんだろう。愛はなんとなく見てはいけないようなものを見たような気がして、目を逸らそうとしたその瞬間、彼女が愛の存在に気づいてしまった。

 愛を見た彼女の顔はそれはもう強張っていて、確実に〝見られたくないところを見られた〟としか言いようのない表情をしていた。そんな彼女を前に愛がとった行動は見てみぬふり。つまり〝何も見なかった〟ことにして、その場を離れたのだ。それ以降、スーパーでの出来事について二人とも触れることはなく、塾での彼女は変わらずオシャレで「私ってゲームばっかしているから」を繰り返していた。そうか、これが――

「ん? 久野さん、気になることでもあった?」 
 蓮に声をかけられ、愛は短いタイムリープから引き戻される。

「えっ? いや、印象操作の話を聞いて、ああもしかしてこれ関係あるかもってちょっと昔のことを思い出したっていうか。でも全然大したことないの! 間違ってるかも知れないし!」

「へぇ。どんなことを思い出したか、気になるな。ああ、ちなみに。この社会学カフェの集まりで〝大したことないから〟とか〝間違ってるかも〟なんてことを理由に遠慮しなくていいんだぞ。気にせず気楽に発言してくれた方がこっちも嬉しい。〝こんなこと言ったらどう思われるんだろう〟とか気にしなくていいからな。もちろん、本当に言いたくないことなら無理に聞き出したりはしないけど」 

「うん。カンナギの言う通りだよ。僕も気になるけど、久野さんが言いたくない内容だったら無理にとは言わない。……どうかな?」

 そう言って気遣わしげな視線で愛を見つめ、小首をかしげる蓮。愛はごくりと息を呑み、口をぱくぱくさせている。愛の頬はもはや誤魔化しようのないくらいに赤く染まっていた。

「……蓮。君が心から配慮しているのはよくわかる。が、その訊ね方はなんというか……もはや白状するしか選択肢がないように思えなくもないんだが」とカンナギ。

「え! ごめん、そんなつもりは全然ないんだよ、久野さん」

 カンナギの言葉に慌てて申し訳なさそうに両手を合わせ、愛に詫びる蓮。今日はなんと得難い日なんだろうと愛は心の中でガッツポーズを決めつつも、なるだけ殊勝な顔つきで「そんな、こっちの方こそ……」と前置きして、先ほど回想した内容を面白おかしく誇張したりはせずそのまま伝えた。
 たとえ自分が話題の中心だろうと、出来事に余計な脚色はつけず伝えられるのは愛の隠れた美点であった。


――――――――――――
主要参考文献
 E.ゴフマン(著),石黒剛(訳)『行為と演技 ―日常生活における自己呈示―』1974,誠信書房.
 作田啓一・井上俊(編)『命題コレクション 社会学』1986,筑摩書房.
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