第19話

文字数 7,795文字

「ゴフマンはドラマトゥルギーの手法を用いて『演技』する人間の姿を描き出したわけだけれど、蓮が疑問を呈したように、いつも望ましい演技に徹したり、求められる役割をやり遂げられるとは考えにくい。期待されている役割に対して違和感や抵抗を覚えることもあるだろうな。……人は、与えられた役割や期待される役割をただ演じるだけの単純な存在じゃあない」

 ほんのりと苦笑いを浮かべた蓮が深く首肯し、愛はカンナギの言葉に思い当たる節があるのか眉間に皺を寄せながらうんうんと首を縦に振った。

 そもそも「役割」とは、自分が担うことになる社会的な地位だが、そのなかには社会や集団によって用意および期待される行動パターンが含まれている。すなわち、役割の担い手になれば、個人の能力や個性、人間性いかんに関係なく、他者――社会や集団から「この役割を担っているのであればこうするだろう、このように振る舞うだろう」などと期待されることになる。

 こうした期待――つまり、役割期待があるおかげで、人はそれぞれの場面で一般的にどう振る舞うことが適切なのかを逐一迷うことなく選択することが可能となり、また他者の行動も予測可能になる。それにより互いの役割期待を先取りし、遂行することによって、スムーズなコミュニケーション――相互行為が達成され、社会の秩序が成り立っていく。

 しかしながら、人間は役割のみによって動いているわけではない。必ずしもすべての役割期待に応えているわけでもなく、取捨選択している。時には与えられた役割からはみ出すことだって当然あるだろう。ゴフマンがドラマトゥルギーを通じて描き出した人間とは、操り人形のごとく、ただ役割に従うだけの人間じゃないのだ――

 思考はすっかりいつもの速度を取り戻している。
 そのことにカンナギはひとり頷き、クラフティをティースプーンで少しだけすくって口に運んだ。杏子の甘酸っぱさとカスタードの濃厚な甘さが互いを引き立て合うように溶け合っていく。油断するとあっという間に平らげてしまいそうになるが、貴重な糖分補給源を早々と失うわけにはいかない。すぐに飲み込むことはせず、口の中でしばらく楽しむことにする。

 クラフティを堪能しながら、ゴフマンの指摘を思い浮かべた。

〝個人は役割にたいする愛着の欠如を隠すために役割を受け入れるふりをすることがある〟

 重要な指摘だ。しかしそのまま伝えてよいものか。引用するにしても、手を加えるなり順を追うなり、工夫した方がよいだろう。結論を出すとともに、嚥下した。とても好ましい味だ。

「――人は演じるだけじゃなく、

をすることだってあるんだよ」
「演じるふり?」
 カンナギと同じくクラフティを味わっていた愛が訊ねた。 

「そう。つまり、〝自分はこの役割に愛着なんてないんだ〟〝期待された役割とは違う自分というものがあるんですよ〟っていうことを、役割を遂行していく――演技をするなかで表現することがあるんだよ。ゴフマンの言葉を借りると、役割を受け入れるふりをする、ってわけ」

〝役割を受け入れるふりをする〟という箇所をやや強調してカンナギは言った。
 ノートを取る手をピタッと止めて、蓮が口を開く。

「役割を受け入れるふりをする……なるほど。演じるふりをする、っていうのはわかるとして、

っていう発想は僕にはなかったなあ。役割を受け入れるって、どういうことなのかな?」  

 蓮の問いを引き金に、カンナギの脳裏にゴフマンの言葉が浮かび上がる。

 ――ある役割を受け入れるということは、その状況のなかで得られると見なされる事実上の自己のなかに完全に消えてなくなるということであり、完全にそのイメージとのかかわりで見られるということであり…………

 ゴフマン著、佐藤毅と折橋徹彦訳の『出会い 相互行為の社会学』113ページに記載の箇所だ。どうやら思った以上に脳は調子がいいらしい。サプライズで供された美味しいスイーツとお茶に心の中でそっと感謝した。

「そうだなぁ、役割に没入する、というのかな。積極的に関与する、といってもいいかもしれない」
「一体化する、みたいな?」
 愛が問いかけた。 

「うんうん、そういう感覚もありだな。僕たちが演技をする――つまり、ある役割を受け入れる、ということは、その役割に付随するイメージのもとで自分が見られるってことにつながるんだよ。たとえば『教師』という役割を担っている人に対しては、その人が実際どういう人であるかは別として、先生だから真面目である、ルールを守る、みたいなまなざしが向けられるわけだ」

「実際どういう人であるかは別として……」
 意味深長な面持ちで愛がつぶやき、ひとりごとのように
「自分が望んでいる姿と、他人から期待されている役割が一致してたらいいけど、そうじゃなかったらしんどいだけだよねえ……」
 と言って、わずかに口を尖らせ、細く溜め息を吐いた。

 愛の嘆きに反応を示さずにはいられなかったのか、蓮は大きく頷きながら
「期待される役割の中に、自分とは違うなって感じる部分があると、演じようにもやっぱり負担を感じるよね」
 と共感を滲ませて言った。

 望まぬ自己を長く演じ続けてきた蓮にとっては依然としてセンシティブな話題だろう。そして――

 カンナギは目の端で愛の横顔を捉えた。
 愛とまともに言葉を交わしたのは今日が初めてだが、学校での様子や、これまでのやりとりから察するに、彼女が望まぬ役割を背負って――あるいは背負わされているらしいこと、他者からの期待に応えようと努力してきたらしいことはそれなりに伝わってきている。

 愛にとって最適な助言を示すには至らずとも、彼女が抱えている違和感や歯痒さにフィットする言葉だったり、それらを可視化させる視点を伝えることはできていただろうか。言葉や視点を得ることで対象を客観視できる。そうすれば、より良い身の処し方を選ぶ手がかりが得られるかもしれない。

 ――ん? 僕はまた頼まれてもいないのに随分と余計なお節介を……ああ、そうか。
 ようやく気づいた。自分は蓮だけではなく、愛に対してもそれなりの好感を抱いているらしい。
 学級内における序列、集団間の階層といったものに敏感な愛と、孤立することを厭わず地位や序列といったものになるだけ囚われたくないカンナギとではスタンスが違いすぎるし、気が合わないだろうと思っていた。が、それはあくまで

に対する所感に過ぎない。

 人には色々な顔がある。場所や相互行為の相手が変われば、当然振る舞いも変わる。頭ではわかっていたはずなのに、まさしく現在進行形でそういう話をしていたはずなのに、無意識のうちに人をジャッジしていたなんて自分もまだまだだなあとカンナギは反省する。

 そんなことを考えながら「勝手に気が合わないなどど結論づけてすまない」という気持ちを込めて愛の横顔を凝視すると、カンナギの視線に気がついた愛が振り向き、「うげえ」とでも言いたげに顔をしかめた。これはおそらく伝わっていない反応だ。残念だがとりあえず話を進行させよう。

「――うん。役割を受け入れて演技をするといっても、期待される役割の中に虚構の自分がいることを感じると、その役割を演じ続けるのは難しくなる。かといって役割を完全に放棄することはかなわない。こんなとき、人は役割からあえて距離をとって、虚構の自分を拒否しながら役割とは異なる自己があることを示そうとするんだ。これをゴフマンは『役割距離』と言ったんだよ」

 かつてゴフマンは自著『出会い 相互行為の社会学』において、このように述べた――

〝個人とその個人が担っていると想定される役割との間のこの「効果的に」表現されている鋭い乖離を役割距離と呼ぶことにする〟
〝個人は、実際に、その役割を拒否しているのではなく、すべてを受け入れるパフォーマーにとって、その役割のなかに当然含まれていると見なされる事実上の自己を拒否しているのである〟と。

 そう、役割距離をとる個人が否定しているのは役割そのものではない。期待された役割のうちに含まれていると担い手が感じた、虚構の自分なのである。
 そして、役割距離を介してオーディエンスに示されているのは、「ほんとうの自分」ではなく、あくまで「役割とは異なる自分」。演じられている自分がにせもので、演じている自分は本物であるという区別はゴフマンの主張に当てはまらないのだ。

 慎重に言葉を選びとりながら説明を続けるのはかなりハイカロリーかつハードな作業だが、大好きな社会学の面白さをアピールするにあたって口伝に誤りがあってはならない。気をつけすぎるくらいでちょうどいい。話せば話すほどに、カンナギの中で注意事項は増えていく。でも、やっぱり楽しい。だって――

「さっきカンナギが、期待された役割とは違う自分がいるってことを役割を遂行するなかで表現することがあるって言ってたのは『役割距離』を指していたんだね」
 新しいことを知ってワクワクしているらしい蓮の顔。こういう反応を得られるのは役得だ。

「そういうこと」
「言っていることはわかるんだけど、距離をとって表現するって、具体的にどうやるの?」 

 ――そりゃそうだ。愛の疑問にカンナギはゆっくり頷いた。カンナギはすっかり「役割距離」の概念に馴染んでしまっているけれど、初耳であれば愛の反応が当然だろう。初めて社会学を知った頃の驚きや疑問を愛を通して追体験できるのも楽しいものだ。つまり、二人からのリアクションはなんだって嬉しいのである。

「ナイス質問だ、久野さん。よし、ゴフマンが実際に用いた例を紹介するとしよう」
 その前に紅茶に口をつけ、喉の渇きを潤した。

「ゴフマンが注目したのはメリーゴーランドに乗る子どもだ」
「なにそれカワイイ」
「懐かしいなあ」 
 愛と蓮、各々がつぶやいた。

「たとえば、三、四歳の子どもは自分の気力や能力をありったけ振り絞って、木馬に乗るんだ。自分が乗った木馬が両親の前に来るたびに片手を手綱から離してみたり、微笑みを送ったりして、心から木馬を楽しんでいる。つまり、その子どもは『メリーゴーランドに乗る子ども』を全力で演じているんだ。このとき、その子は役割を完全に受け入れているわけだから、役割と自己は一致している」

 ほうほう、と言いそうな顔で二人が頷いた。カンナギはにやっと口角を上げ、少々芝居がかった口調で「ところが」と前置きする。

「五歳の子ども……特に男の子にとって、もはやメリーゴーランドの騎手であることだけでは不十分だ。落馬しないための手綱も馬鹿にして無視することもあるし、ましてや両親と一緒に乗るなんてあり得ない。空を見上げるため、できるだけ仰向けになったりね」

 蓮は熱心にメモをとり、愛はカンナギから語られる五歳の子どもの姿を想像しているのか、目線がやや上を向いている。

「子どもたちはこうした動作を通じて主張するんだ。〝僕はやっと木馬を乗りこなせるような、そんなんじゃないんだぞ〟ってね。役割におさまらない、有能な自分をアピールしているとも言えるよな。
 ゴフマン流に言えば、役割と自己のあいだに楔を打ち込んで、自分とその役割のあいだに鋭い乖離を表現しようとしているんだよ」

「――なるほど、その五歳の子どもは、役割を生真面目に演じるんじゃなくて、演じているふりをして、『メリーゴーランドに乗る子ども』とは違う自己をアピールしているってことか」

 カンナギは笑顔で頷いた。

「ねぇ、それって、たとえば完全拒否っていうか、メリーゴーランドに乗らないことでアピールするのは役割距離とは違うの?」

 ――いいところに目をつけるなあ。カンナギは嬉しくなって、心の中で愛に向けて人差し指を勢いよくビシッと指した。人を指さしてはいけないので、心の中でしかできないが。

「ふふ。久野さん、かゆいところに手が届くようないい質問だ。
 たとえば、子どもが足をばたつかせるなり反抗して、完全にその役割を拒否したら、それは役割距離とは言えないんだよ。なぜなら、期待される役割とは異なる自分っていうのは、役割があってこそ伝えることができる。つまり、役割を放棄してしまっては伝えることはできないんだ」 

 腑に落ちたのか、愛が目をぱちくりさせて「なるほど」とつぶやいた。その様子を受けて、カンナギはさらに説明を加える。

「さっき、僕は『役割と自己のあいだに楔を打ち込んで、自分とその役割のあいだに鋭い乖離を表現しようとしている』って言ったと思うんだけど、つまり、役割と自分との距離を効果的に――あえて表現することで、役割とは異なる自己の存在――有能な自分だったりをアピールできるんだよ。
 五歳の子どもはちゃんとメリーゴーランドに乗る子どもの役割を演じた上で、はじめて役割と自分との距離を表現することができるんだな」

「なるほどねえ。よくわかったわ。……ありがと」  
 礼の言葉だけごく小さい声だったが、カンナギは「どういたしまして」としっかり返した。

「他にはどんな例があるんだろう?」
 興味津々といった様子で蓮が訊ねる。 
「ああ、ゴフマンは子どもだけでなく、大人を対象にした事例――外科医の例も取り上げているんだ」

 カンナギはルーズリーフの余白に「外科医」と書き記し、二人の方に差し出した。

「外科の手術というと、失敗は許されないとても緊迫した場面だ。手術室はきわめて生真面目な空気にあふれた空間といっても差し支えないだろう」

「そうよね、失敗しない女優さんしかできないわよね」と愛が頷き、愛の言葉を聞いた蓮は首をわずかに傾げつつスマホを取り出しなにやら検索している。おそらく「外科医 女優」で検索しているのだろう。それは米倉涼子さんだと思うぞ、と言いかけてカンナギは口をつぐんだ。優先すべきはゴフマンである。

「そういう失敗が許されないような緊迫した生真面目な空間で、外科医たちは手術に没頭するばかりではなく、鼻歌を歌ったり、冗談を言ったりするわけだ。つまり、冗談を言うなり鼻歌を歌うなりして役割距離を示し、『外科医以外の私』が存在することをアピールするんだな」

「わからなくもないけど、私は真面目に手術に没頭して欲しいわ……」
 愛が真顔で言った。ごもっともな感想にカンナギは思わず頷いてしまう。対する蓮は、愛の要望に神妙な面持ちで「たしかに……」とつぶやいたかと思うと、すぐさま「いやそうじゃなくて」と居住まいを正し、
「メリーゴーランドの例を参照して考えると、このケースでは余裕を示すことで、状況に呑み込まれていない有能な外科医としての自分を示しているってことなのかな?」
 と訊ねた。先ほどの反応から察するに、蓮もおそらく外科医には役割距離なんか取ってないで真面目さを優先してほしいのだろう。

「うん、蓮の言う通り、外科医としての役割を真面目に果たしつつ、あえて冗談を言うことで心の余裕を示せば、状況に呑み込まれない自分の有能さをアピールすることができる。でも、この場合は、期待される役割とは異なる自己を示す以外に、もうひとつ効果があるんだよ」

 一息に言ってしまうより少し間があった方がいいだろうと都合よく自分に言い訳をして、カンナギはクラフティをひとすくい、ぱくりと口に入れる。愛も今のうちにといった様子で、スフレカップに手を伸ばした。

「……あ、わかったかも! 場を和ませる、みたいなこと?」
 顎に手を当ててしばらく考えていた蓮が閃いたように言った。クラフティがまだ口の中にあるらしい愛は「そうか!」と言うように「んん!」と声を上げた。

「ご名答! この場合、必ずしも役割と異なる自己を示しているばかりではなくて、真面目なはずの外科医が冗談を言って役割距離――役割に完全に呑み込まれていない自己を示すことで、外科医チームにも余裕を与えることになるし、緊迫した状況を緩める配慮にもなるんだな」
「役割距離って自分アピールだけじゃなくて、他の人のためになることもあるのね」 
 感心したように愛が言った。 

「うん。それに、自分を守る手段にもなりうると思うんだよ」
 蓮と愛がそれぞれ「どういうこと?」と言いたげにカンナギを見つめる。

「期待される役割を演じ続けるって難しいし、何より、『役割』があるとはいえ、そもそも自分に何が期待されているのかを正確に把握し続けることだってすごく難しいと思うんだ。それぞれの場で、担っている役割に合わせて適切な振る舞いを選択したはずなのに、期待した反応が返ってこないこともある」

「ああ……あるかも。とくに友だち関係なんて、何が正解か……適切かなんてわかんないよね。同じ役割を背負ってるはずでも、演じる人によって受け止められ方が違うような気もするし。キャラの違いっていうのかな」

 ため息まじりに愛が語った。その言葉には静かな熱がこもっていた。蓮も思うところがあるのか、真剣に愛の言葉に耳を傾け、何度も深く頷いていた。

「何気ない日常の、何気ないコミュニケーションの連続のように見えて、実は僕たちはとても繊細で難しいやりとりを積み重ねている。もちろん、『役割』があるからこそ、他者からの期待がある程度予測できて、いちいち迷うことなく適切と思しき振る舞いを選択することができるわけだけれど、いつも完璧な振る舞いができるわけでもなし、しかも、その振る舞いが本当に期待通りの反応が得られるかも実はわからない。そうなると不安だらけだ。
 でも――だからこそ、役割に縛られすぎない自由な部分を自分の中にもっておくっていうのかな……役割距離によって逆らえる余地があるっていうことが、難しい役割期待に応えて演技をしながらも、『自分』を保つための大事なポイントになると思うんだ。
 他者の期待ばかりにとらわれず、自由に自己を表現できる余地が自分にはあるってこと、期待ばかりに応えなくてもいいってことを胸に留め置いておくと余裕もできるんじゃないかな」

 うまく言えただろうか。伝わっただろうか。
 身動ぎする気配に誘われて隣に目をやると、愛が懸命にスマホを操作している。どうやらメモ機能を使ってカンナギの言葉を記録しているらしかった。そっと視線を外すと、今度は左拳を口元にあてながら蓮が赤ペンを走らせる姿が視界に入った。大事な話だと感じてもらえたのだろうか。

 自分に何が期待されているのかはわからない。そもそも、二人にとって自分がどんな役割を背負っているのかもわからない。
 しかし、二人の反応に助けられながらここまで話ができたことだけははっきりとわかる。頬が緩む。カンナギはにやつく口元を隠すように、ティーカップを口に運んだ。


――――――――――――
主要参考文献(既出のものは省略しています)
 近藤泰裕「役割行動と社会的自己 E.ゴフマンの『役割距離論』再考」『市大社会学』1巻,1-11,2000,大阪市立大学社会学研究会.
 坂本佳鶴恵「自我と役割 ――『役割距離』からの自我論構成――」『ソシオロゴス』11,164-175,1987,ソシオロゴス編集委員会.
 深澤建次「E.ゴフマンの『役割距離』についての一考察」『ソシオロジ』 26 (3), 27-42,138, 1982,社会学研究会.
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