第27話

文字数 3,541文字

「復習を兼ねて、はじめから確認していこうか。ある人が〝先生〟という職業に就いているとしよう。これを社会学的に表現すると……」
「〝先生〟という社会的地位を占めている、かな?」

 問うか自分で解説してしまうか迷った一瞬の間に、蓮が答えた。蓮の発想や感覚は、だんだんと社会学の言葉づかいに馴染み始めているようだ。カンナギはにこっと笑って肯いた。

 学問にはセンスの類が求められるというけれど、カンナギ個人は必ずしもそうではないと考えている。とりわけ、社会学については、見るべきポイントや考え方を学んで言葉づかいに慣れていけば、誰でも社会学的な思考を身につけることができる――はずだ。興味の有無によって習熟度に多少の差は出るかもしれないが、要は慣れなのだ。そうカンナギは思う。

(ま、数学に関して言えば、センスや適性は必要かもしれないな。残念ながら、いつまで経っても数学の定理云々には慣れないし)

 そう思いはすれど、カンナギとしては数学の会得を諦めるわけにはいかない事情があった。社会学と数学は無縁ではないのである。

 社会調査にはデータ分析のため統計学が必要だし、数理モデルを用いて社会を読み解こうとする数理社会学という分野もある。社会学は思考だけでなく、観察や調査を通して得られる事実によって諸々の説明を試みるのだ。カンナギも将来的には然るべき手続きを経て社会調査をやってみたいと思う。ただ調査をやるだけでは事足りない。得られたデータを正しく捉えてこその社会調査だ。正しく捉えるには、統計的知識は必須なのである。

 なにより、カンナギには社会問題を含む諸現象を数学的に表現することに強い興味があった。数学を駆使することで、社会現象をより深く理解することが可能になる。

(数学を通して見る社会、きっと面白いんだろうなぁ。まぁ数学オリンピックに出たいとかいうわけでもなし、必要最低限のレベルに到達するくらいなら……)

 不安要素は好奇心によって打ち消す。センスがなくとも、適性云々が求められようと、「やってみたい」という気持ちと目的さえあれば、なんとかなるのではないかというのがカンナギの考えである。

「で、社会的地位を占めている云々から、どうなって社会構造上の問題につながっていくの? 小難しい話は苦手なんだけど……私でも、本当にちゃんとわかるようになるのよね?」

 カンナギの次の言葉が待ちきれなかったのか――カンナギの体感では黙っていた時間は二秒にも満たないが――愛がおずおずと口を挟んだ。

(社会構造とか言われると、やっぱり構えてしまうよな)

 カンナギは愛の心情を慮り、どう答えることが最善か頭を捻った。適当な返事はしたくない。
 数学はさておき、社会学にセンスや適性は不要だ。ただし、やはりその学問に特有の概念や、頻出の語彙にはある程度慣れる必要がある。「構造」も社会学ではよく目にする言葉だけれど、学術用語としての「構造」なのか、日常語としての意味で使われている「構造」であるのかについては文脈からその都度判断しなければならないので少々厄介であることは否めない。

 脳は、新しい事柄に対して防衛機能が働くという。難しいと感じる――つまり、脳への刺激が強すぎると拒否反応に繋がってしまうということをカンナギは身をもって知っている。そしてまた、自身の地頭が決して良くはないということも熟知している。それでも、「どうせ自分は知的能力が足りないから」と不貞腐れたりはしなかった。社会学に相対するときのカンナギは知的好奇心に満ち満ちていたので、不貞腐れるような隙がなかったともいえる。

 理解が及ばないことに直面した場合、どうすれば自分がわかるようになるのか方途を尽くしてきた。難しく感じるなら、言葉の奥をかき分けていくように、とことんまで調べる。複数の文献を跨いでチェックを重ねていくうちに、対象物の解像度は高まっていく。そうしていくうち、いつしかカンナギには学術的な専門用語や文章に対する耐性がついていた。

 自ら匙を投げることさえしなければ、やり方次第で大抵のことは「わかる」ようになるとカンナギは信じている。幸いにして愛は理解しようとすることを放棄していない。であれば、あとはどういう「やり方」にするか――

 愛は想像力に長け、勘も鋭い方だ。これまでのやりとりを振り返っても、理解力に難があるとも思えない。ただ、社会学の文脈で登場する言葉に対して「難しいことを言っているのでは」という先入観を払拭できないのではないか。だとすれば、イメージしてもらえるように言い方を少し変えるだけでいいだろう。ひとたびイメージできるようになれば、霧が晴れるかのごとく理解は進む。

「久野さんなら余裕でわかるようになるよ、大丈夫。久野さんはすでに『役割群』の基本的な内容はちゃんとわかってるんだから。ほら、あれだ、本当はすでに知っていたり理解していることでも、難しく感じる言葉で表現されると途端にわからなくなるだろ? 今はただそういう状態になってるだけだと思う」

 根拠を明確にしたカンナギの励ましに、愛ではなく蓮がうんうんと頷いた。カンナギが話しているあいだ、愛は疑わしげな表情で聞いていたのだが、蓮が同意する様子を見て「そ、そうかしら?」と表情を和らげた。どうやら愛の疑念は晴れたようだ。カンナギは心置きなく説明に入る。

「ヒントはずばり、役割群がどういう仕組みになっているかという点に目を向けてみること」
 愛が目をパチパチと瞬かせて「役割群の仕組み?」と聞き返した。

「そう。視点を変えて、仕組みに注目するんだ。じゃあここでもう一度おさらい。先生になったら、どういう人たちとつながりができる?」
「えっ、さすがにそれくらいわかるわよ。っていうかさっきも言ったし……えーと、生徒でしょ、同僚の先生たち、教頭先生、校長先生、保護者、教育委員会の人たち……」
 怪訝な顔でぶつくさ言いながらも、愛は指折りする仕草を交えつつ答えた。

「ありがとう。いま久野さんが挙げてくれたのは、繰り返しになるけど〝先生〟の役割群を構成している人たちだ。この、役割群の構成員の特性をしっかり把握することが重要なポイントになるんだ」

 しっかり把握すること、の箇所を強調すると、愛が「さっきのは把握したうちに入らないのか」と言いたげに眉間に皺を寄せ、「むうう」と小さく唸った。いっぽうの蓮は一言一句たりとも聞き逃すまいとばかりに、身を乗り出して耳を傾ける。

「掴むべきは、役割群の構成員がどういう傾向にある人たちなのかってこと。これも、さっき久野さんが答えてくれた内容からすでに答えは出てるんだけど……」

 ティースプーンを手にとり、紅茶をひと回しかき混ぜた。愛が示した具体例を抽象的な表現へと変換させる。

「その傾向とは、ある社会的地位を占めている人――〝先生〟と同じ地位にあるとは限らなくて、いろいろな地位を占めている人たちであるってこと。言い方を変えると、役割群の構成員は、ある社会的地位を占めている人とは違ったポジションを保持しがちだってことなんだ。そんな簡単なことをわざわざ言う必要がって思うかい? でも、この事実こそが、役割葛藤が社会構造の問題たる所以なんだよ」

「ええ? 違うポジションがどうのって、要するに役割群を構成している人たちの位置関係のことを言ってるのよね。それがどうして構造の問題に………あっ! そうか、位置関係って……わかった、かも……?」

 閃いたようだ。意気込みに満ちた様子の愛が言葉を紡ぎ始める。

「先生を取り巻く人たち、えーと、つまり、役割群の構成員って先生と同じ社会的地位の人ばっかりじゃなくて、違う地位にある人もいっぱいいるんでしょ。これを別の表現で言うと、みんな先生とは違うバラバラの位置にいるってわけ! これってまさに社会の仕組み――構造のことを言ってるのよね」

 うんうんと頷くカンナギの姿を愛の横目がとらえた。愛は満足気に解説を続行させる。

「で、そもそも役割葛藤が発生する原因って、考え方とか利害とかみんなバラバラの人たち――要するに、先生とは違うポジションにいる役割群を構成する人たちからいろんな期待を向けられる状況にあるって話だったでしょ? この状況を生み出しているのが、社会の仕組み……つまりっ!」

 謎解きをする名探偵さながらに、愛は宙に向かって人差し指を突き上げ、

「社会構造であるってわけね!」
 と締め括り、決まった! と今にも言い出しそうな勢いで胸を反らした。
 そんな愛に向かって、蓮が感心したような表情で小さく拍手を送っている。カンナギも――心の中で――盛大な拍手を送り、「お見事!」と――やはり心の中で――愛を称えた。
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