第30話

文字数 2,265文字

 ――想像力?  
 カンナギの言葉に蓮は耳を疑った。社会学は社会「科学」ではなかったか。観察可能なものに基づく「実証的」なデータを用いて社会を分析するのだから「科学」のはずだ。しかし、「想像力」というと、文学や芸術、宗教などに用いられる非科学的な概念である印象が強い。いや待て、社会学は文学からも学ぶとカンナギは言っていたのだから、想像力が登場することだってあるかもしれない。杓子定規な考え方はやめるべきだろう。
 頭を切り替えて、視点を移動させるような想像力を思い描こうとするが、それこそ蓮には想像がつかなかった。 

「想像力にそんなすごい力があるの? なんか思っていたのと違うわね」

 いささか不満げな顔で、愛がつぶやく。どうやら彼女も「想像力」の登場は予想外のことと感じたようだ。もっとも、蓮はどんなに些細なことであろうと、相手が気を悪くすると思しき内容を口にすることはできない。それは、相手の気持ちに対する配慮というより、徹底して心証を害することを避けるためである。

(どれだけ言葉や態度に気を配ろうと、他人からのネガティブな感情を避け続けるなんて不可能なことくらい、もうわかってる。それに、カンナギならきっと……) 

「まあそう言わずに」
 蓮の予想どおり、カンナギは愛の言動に気を悪くした様子もなく、むしろどこか嬉しそうに応じている。
「だって想像力なんて言うからさぁ。どうせなら妄想力の方が強そうじゃない? それなら私の得意分――」
 なおも食い下がる愛に、カンナギが面白おかしく賛同しながらもツッコミを入れている。いかにも友人同士のじゃれあいといった光景を前に、蓮の心はどうしようもない疎外感に覆われ始めた。

 気兼ねのないコミュニケーションとは、こういうやりとりをいうのだろう。意思表示や気遣いがすべて自己保身につながっているような自分にできるとは考えられないし、やってみたところで驚かれるか無理をしているのではと心配されるかの二択であることは予想がつく。

 素直に反応したり、率直な質問をぶつけたりしてカンナギとみるみるうちに距離を詰めてしまう愛のことを心底羨ましく思う。志之元蓮は、当たり障りのない友人関係を築くことはできても、真の友好関係を築くたしかな術をなにひとつ持っていない。「術」などと考えている時点で、もはや自分は人と打ち解けることに不向きなのだとも思う。

 蓮は笑い合う二人を視界に入れないよう、ノートを凝視し、適当にペンを走らせた。自分から引き入れておきながら、気がつけば愛に対して苦痛まじりの羨望を抱き、そして言い知れぬ嫉妬を覚えている。

(臆病な上に、こんなにも狭量な人間だったんだな、僕は)

 またひとつ、仮面を剥いだ自分の欠点に気づいて胸が苦しくなった。左拳を固く握り、掻きむしりたくなる衝動を抑え込む。

 願望や不満を抱いているのに、そのくせ自分からアクションを起こすことはせず、勝手に僻むなんて友好関係を築く以前の問題である。

(僕は、どうしたいんだ? どうしてこんな自分勝手な思いに囚われて……)

 愛に対して嫉妬している。しかし反感を抱いているというわけではない。ここまで話が弾んでいるのは、彼女の参加があってこそであるということを蓮は重々理解している。カンナギはおそらくその人柄も含め、愛のことを好ましく思って――

 ――……あ。

 不意に訪れた自覚に、蓮の心が震える。耳のあたりがじりじりと熱を帯び、思わず喉を鳴らした。

「蓮も、想像力の話になるなんて意外だったんじゃないか?」

 ほかでもないかの人から声がかかって、蓮の心臓が飛び跳ねた。まともに目を合わせられるような心境ではなかったが、隠しておきたい感情や気持ちを表に出さないのは蓮の得手とするところだ。息を吸い込んで心を鎮めながらさりげなく目線を上げ、平静な声で答える。

「――うん、意外だったよ」
「だろ?」
 カンナギが微笑んだ。どんな暗闇にあっても照らしてくれる、まばゆい星明かりのようだと蓮は感じ入った。

 最初は、好奇心で――いや、純粋な好奇心だけではない。好奇心六割、打算四割でカンナギに近づいた。人目を気にせず、ひとりきりでも堂々としている姿に、これまでに感じたことのない特殊な印象を受けた。そういう、特殊な人と友だちになれば、何かが変わるかもしれないと勝手に期待して縋すがる心があった。

 鋭く、聡いカンナギのことだ。蓮のそんな思惑など初めからすべてわかっていただろう。それでも、カンナギは蓮を拒絶するどころかいつだって真心を尽くして向き合ってくれた。宝物のような言葉をたくさんかけてくれた。今このときも、カンナギは心を配り、蓮のことを見てくれている。

 では蓮はどうなのか。蓮は、どうしたいのか。他者からの曖昧な期待に縛られない、自由な自己を保つと決めたのではなかったのか。誠心誠意向き合ってくれたカンナギに恥じない自分になりたいのではなかったか。

 自分が傷つかないこと、人に受け入れてもらうことばかりを考えてきた。けれども今は違う。

 他の誰を敵に回しても、カンナギにだけは嫌われたくない、失望されたくない。このかけがえのない存在を、大切にしたいのだ。

「でもきっと、蓮にとっても耳寄りな情報だと思うから安心してくれ」

 今度はカンナギの視線をしっかり受け止め、深く頷いた。
 どうすることが正解なのか、蓮にはわからない。でも、もう迷わない。ほんとうに大切にしたいものを、まっすぐ大切にできる自分になろう。
 蓮はノートの新しいページを開き、ペンを握り直した。
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