第43話 監禁裁判

文字数 4,009文字

どれくらいの時間、眠っていたのだろう。
哀しみや失意や嫌悪や不安、それらを抱えて故郷の地を踏んだというのに、翔子の気分は一向に晴れないでいた。
それでも、久方振りに母の顔を見て言葉を交わすと、安堵感に満たされながらも、日暮れ後の水入らずの晩酌を楽しみに眠ることができた。
夢は見なかった。
それだけ疲労が溜まっていたのだろうと、翔子は熟睡できた理由を見つけて安心した。
ところが、こめかみに走る鈍痛に息を漏らし、徐々にクリアになっていく視界に違和感を覚えると、それは恐怖心へと変った。
打ちっ放しのコンクリートの天井には、むき出しの排水管や電線管が、白色蛍光灯の明かりを帯びて、得体の知れない生き物のように下界を見下ろしている。所々に剥れたメッキの錆は、爬虫類の質感にも似ていた。
室内に響き渡る機械音は、遠い昔に聞いた音。
それが、旧式の業務用冷蔵庫の唸りだと分かると、この場所が秘密基地の地下施設だと認識出来た。幼い頃に感じた、巨大過ぎる冷蔵庫の叫び声は真下から聞こえている。
翔子は、身体を起き上がらせようとしたが、業務用冷蔵庫に固定された鉄の板に四肢を拘束されて、何ひとつ身動きは取れなかった。
服は着ていない。
そのせいで、振動と湿気が直に身体に伝わった。
耳をすませば、外界でけたたましく鳴く蝉の声が聞こえる。
翔子は、可能な限り上半身を起こして周囲を見渡すと、四肢を繋ぐ鎖が軋んだ音を立てながら素肌に触れて、左足首からは血が流れているのが見てとれた。
その先にある、埃を被ったプロジェクターと、穴の空いた非常口誘導灯。
上体を反らせて頭上を確認すると。色褪せたスクリーンの一部が目に入った。
人の気配は無く、はめこみ式のクーラーから流れ出る冷気が、時折翔子の身体を舐める。

「どうやら殺す気はないようだ」

と、思ってみたところで、それがいつまでなのかを推測する気にはなれなかった。こんな恥辱に晒されながら、翔子の頭は努めて冷静で、ドラマや映画のように助けを求めたり、脱出を試みると云った真似はしなかった。
それよりも気掛かりなのは、母親野の花の安否と、犯行に及んだ人物と目的だった。
翔子は深く息を吸った後で。

「近くにいませんか? 誰かいませんか!?」

と、声を出した。
かすかに上ずった響きと、震えている身体に驚きながら。

「いませんか? いるなら話を聞かせてください!」

涙声で訴える自分を「誰とも変わりのない人間らしい人間」として、素直に受け入れられた。
俯瞰で己を観ている。
そんな表現が正しい、恐ろしくて不気味で陰湿な世界に取り残されている。
思案を巡らすように、キョロキョロと視線を動かしても手がかりすら掴めない。時間だけが過ぎていった。
今度は平然を装いながら、ゆったりとした口調で。

「誰かいませんか!? 話を聞かせてください! 何が望みなんですか? どうしてこんなことをするの?」

翔子は口詰まった。
心の中を見透かされている、不条理な何かに支配されている。
侵入を許してはならない。
搾取されてはいけない。
そもそも、この場に何者かが現れるとも限らないのだ。
建物ごと焼かれるか、発見されぬまま飢え死にする可能性だってあり得る。
仏教絵画の九相図のように、朽ち果てる自分の肉体は、蝿がたかりウジが湧いて、何は腐敗ガスで膨れ上がるのだろう。そんな自然現象を好む人物だとしたら、きっとこの室内を録画しているに違いない。そう確信した翔子は。

「どうして欲しいの? 何をして欲しいの? 誰かいるんでしょう!? お願い、これじゃあ何の解決にもならないわ、顔を見られたくないなら目隠しをすればいいし、遠くから話するのでもいいから、私に・・・どうして私が・・・ねえ、聞いてますか! 聞いてるんでしょう!? 何がしたいの! 何をしたいの! お母さんは無事なの!? ねえ! こんなことして何がしたいの! いい加減にしろよクソ野郎! 出てこいよ! 卑怯者! ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな! 誰か! 誰か助けてください! 誰か助けて! 助けてください! 誰か!!」

静まり返った室内に反響する声と、身悶える度に軋む鎖の音が、翔子の精神をとうとう崩壊させた。
むき出しの配管を伝う一匹の巨大な百足が、黒褐色の胴体をグネグネと管に絡ませて、黄色い手足と赤い頭を動かしながら、翔子の腹の上を狙っている。
その短い触覚を眺めながら。

「誰かに操られている機械」

と、翔子は思うようにした。
幼い頃、この世界の全てが誰かの創造物で、人間が歩くと云った動作は、実は二本の足を交互に動かしているから前進してるのではなく、道路や景色が単純に流れているだけの現象。
各々の人生は予め筋書きが出来ていて、予定調和にならない様にと、ハプニングという名の伏線が散りばめられている。即ち人間とは、誰かが開発したGAMEの中のアバターであって、生涯とは伏線回収に他ならない。
高性能カメラを備えた百足。
電磁波を撒き散らす蝉。
創りものの太陽と空。
放置されたGAME。
向こう岸で笑っているであろう、何者かを想像する翔子の目は虚ろで、乾燥した唇の皮を、歯で挟んで捲り上げると鉄の味がした。

「曖昧なブレイン、ブラッド、鉄、私は実は死んでいるの、乳房、男、女、セックス、哲学とペニス、家族、パパとママはイヤラシイ、みんな見ていた、胎盤、胎児、赤ちゃんが蠢いている、破水、生命、単純な生命、所詮ニセモノ、エッチが好き、組み込まれたチップ、設計図、人生の設計図、取扱説明書はどこ? どこに隠したの? 今も見ている、裸の私、あなたも同じ形をしているんでしょう? 最初に作ったのはどこの部位? パズル、不協和音のうなじ、舐めたい? 舐めていいのよ、口づけ、指先と爪、この透明な爪はどうやって妄想したのかしら? プラスチック、産業廃棄物、ゴミ、生きる資格のない社会不適合者、社会って何? そんなものいらない、人間もいらない、いなくなればいいんだ、みんな消えちゃえ、不適格な私、どうぞ、私を殺して食べてください、死にたがりの出来損ないの私を、余すとこなく切り刻んで食べてください! 食べてください! 食べてください! 食べてください! 食べてください!」

生命を与えられてから、死に至るまでのプロセスは実は無意味で、虚構の中を疑いもせずに生活している愚かさを、翔子はこの時痛感していた。
結婚して子を育てた先に、いったい何が残るのだろう。
長年抱いていた疑念は晴れることもなく、新しい生命の誕生は、SEXという快楽の果ての結果である。それは、自分が生まれたのも、人間の色情の答えだと思っていた。
だが、そのもの全てが、予め決められていたものだとしたら。
精神的苦痛を和らげる特効薬。
そう思う方が、真面目に生きるよりも楽だった。
声が聞こえた。
聞き覚えのある声。

「君の書いた本を読んだよ、桐野ミカエラ、愛に飢えた作家、だけど自認できない愚かな女・・・」

「私は女? あなたはどう思ってる?」

「君は君だ、性別なんてどうでもいい、ただ、君の想像する世界はいつもくだらない。人間が人間を愛することに躊躇している、何故だ?」

「わからないわ」

「君の書いた小説にこんなのがあったね、霞ヶ関ウーマンの恋愛事情、安っぽいな、印税を狙ったのかい? リアルは苦しいが、それを表立っては言えない、悲しいね翔子・・・」

「関係ないでしょ・・・」

「そうでもない、君は美しい。楽しませてもらうよ」

「・・・」

「私を知りたくなった?」

「・・・」

「私は、君だ」

「私はあなたを知らないし、知りたくはないわ・・・」

「本当に?」

「本当よ」

「翔子・・・君はSEXをどう思う?」

「なに、その質問?」

「君は、本心ではもっとイキたいんじゃないのか?」

「呆れた、何を言い出すのかと思ったら、SEXの質問だなんて、結局は貴方はただの変態でただの雄! 理性的に振舞っているけど、実は私の裸を見て興奮してるんでしょう、くだらないわこのサディスト! アンタなんて誰にも相手されない賞味期限切れのクズよ! アンタひとりでやってな!」

翔子は、心の中で膨張していく恐怖心を当たり散らすように言った。
足音が近付いて来る。
影が覆い被さる。
虚な瞳の先に見える桜色の唇。
それに触れたくなって、思わず手を伸ばした翔子の右手に激痛が走った。
鎖で拘束された手首、自由の効かない身体、恐怖心で抑圧された感情、限界に達した翔子は。

「もういいよ、お願いだから鎖を外して、逃げないから外して、貴方から逃げたりはしないから鎖を外して」

「それは出来ない」

「言うことを聞きます、なんでもします、鎖を外してください、お願いです」

「泣かないで・・・」

優しさの篭った言い方に、翔子は言葉をのんだ。
長い指先が、零れ落ちる涙を拭ってくれている。

「翔子、君は我慢ばかりしてきたんだね。辛かったろうに・・・だけど安心するといい、私の前では素直になれるはずだ」

「・・・なれるの?」

「なれるさ」

涙で霞んだ世界に侵入した鮫島結城は、満面の笑みで翔子を見つめていた。
その姿は美しく、うっすらと頬に施したチーク、ルージュをさした水々しい唇はツンと上向いていて、ランジェリーから覗く長い手足と。首筋から耳にかけて浮き出た細い血管は、ミルクのような肌質に色香を与えていた。
帝北神経サナトリウムにいるはずの男が、どうしてこの場所に存在しているのか、そして、彼の人格は誰なのかを詮索する気にもなれず、憔悴しきった翔子は鮫島結城の唇をすんなりと受け入れた。
触れ合う互いの鼻頭にぞくりとしながら。

「あ、ダメ・・・」

「翔子、君はいけない人だ」

「・・・どうして?」

「ヒトゴロシだからさ」

「人殺し?」

「君のお母さんはね、この下に閉じ込められているんだよ。君が目覚めるまでは、中から音がしていたんだけど、すっかり聞こえなくなったようだ。凍えちゃったかな。それなのに感じているなんて・・・」


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