第29話 別れ

文字数 2,470文字

知念家はカトリック教徒で、知念正也の葬儀は、北九州の八幡にある古びた教会で執り行われていた。聖歌と共に神父が入室し、棺と遺族が後に続く。参列者は起立して迎えた。瀬戸際も、翔子もその中にいた。
終息の兆しが見えない流行り病の中、知念の高校の同窓生と猟友会からは代表者のみが参列し、瀬戸際と翔子は、職場の代表として東京から辿り着いた。
知念の死を翔子が知ったのは、哲也と口論しているさ中で、荷物をまとめて出ていく2度目の背中を眺めながら、自殺という言葉に驚きを隠せなかった。

「何故です? 動機は? 心当たりはないんですか? どうして彼が!?」

スマホ越しに翔子は急きたてるように言ったが、瀬戸際の声はやけに冷静で、その響きにゾッとした。
沈痛さも悲しみも、何処かに置いて来た人間の声。そう感じた。
翔子にとって、死というのはそれほど身近ではなく、ましてや自死といった類いは初めてだった。
自殺は、その殆どが防止出来る社会的な問題であり、適切な策によって防ぐことが可能であるとした、WHOの報告書を読んだことがあるが、翔子は疑問に思っていた。
もし、自死を選択した人間の全てが、精神疾患にかかっていたらどうだろう?
最善策は治療であって、病気を早期に発見するのが有効な手段ではないのだろうか。社会的問題の解決に努めるのも大切だが、個々のメンタルケアが現代では最もな自殺防止策。心療内科やメンタルクリニックの増設、いのちの電話の存続が必要不可欠であり、それらに携わる医師や看護師、ボランティア相談員の待遇も改善されねばならない。こと日本に関しては・・・。
やり切れない感情を話す相手を失ったまま、翌々日に羽田空港の喫茶店で、瀬戸際から衝撃的な真実を伝えられた翔子は。

「どういうことですか?」

「いや、事故死なんですよ」

「事故?」

「そう・・・室内での事故死」

「何故隠すんです? ご両親は?」

「知っています」

「それで、自殺扱いにしてくれと?」

「ええ、しかしそれは無理でしょう。ですから、浴室内で溺れての事故死というふうにしています」

「ふうにしていますって、本当の原因はなんなんですか?」

瀬戸際は、しばらく考えた後で苦々しい顔で言った。

「自慰行為中の窒息死、自分で首を締めて、誤って死んでしまった。こんなこと公には出来ないでしょう。ですが、こういった事例は意外に多いんです。まさか知念君がとは思いましたがね」

「そんな・・・」

「これが全てです。あと、彼が失くしたって言っていたボイスレコーダーも発見されました。知念君の傍に転がっていたと警察は言ってました、ですから鴻上さん、彼は浴室で事故死したんです。そういうことで」

「あの、瀬戸際先生?」

「はい」

「先生は・・・?」

「ええ」

「彼が死んで、悲しくはないんですか?」

「・・・」

何も言わずコーヒーを啜る瀬戸際に、翔子は呆れ顔でその場を後にした。
あの日、鮫島結城と知念正也を監督出来なかった責任はどうなるのか。
過失による事故死に、ふたりの関係が多少なりとも影響しているかも知れない。勝手に膨れ上がる想像に、翔子は打ちのめされた。
瀬戸際は、そうは思わないのだろうか。
翔子は、憂鬱な感情を引きずったまま、祭壇の前で泣き崩れる母親を見て歯ぎしりした。
子供に先立たれる親の感情は、どういったものだろう。
理由も理由だ。
知念正也の名誉の為にも、この事故死は浴室での溺死でなくてはならない。
そういった虚実を、生涯突き通す夫婦の苦悩に。

「先生?」

「はい」

「私達にも、責任があるのではないでしょうか?」

瀬戸際の答えはあっさりしていた。

「ありません」

粛々と進行していく葬儀式の中、死という概念は悲しみではなく、神からの祝福であるとしても、翔子の心は激しく揺さぶられていた。
帝北神経サナトリウム、閉鎖病棟で知り合っただけの研修医、知念正也とは深い付き合いではないが、あの日に見た、屈託のない笑顔や、人の境界に土足で入り込まない幼い声質が、一瞬のうちにこの世界から消滅した事実を受け入れることが出来ない。
自分もいつの日か、死んだ理由も解き明かされないまま、皆の記憶から、存在自体が失われてしまうのかと思うと、掌にじんわりと広がる冷や汗すら忌々しく。

「それって、医師の怠慢じゃありませんか!!」

と、叫ぶと、会場内で泣き崩れた。
瀬戸際に促されて外へ出ると、翔子は口籠ったまま、取り乱した感情を整理することに努めた。
教会広場の楓の若葉は、風に吹かれながら生命の存在を示している。
秋になれば、薄化粧をして、やがては終えてしまうだろう。
甘くて苦い八幡の街の匂いと、眩しすぎる頭上の夏雲。
教会から流れる聖歌や、美紀から聞かされた哲也のことも、全てが悪い夢であったならどれほど楽だろう。現実は理想と大きく解離していく。それが生きる意味なのだろうか。
翔子は、苦行の行く末を想像し、気を失いかけていた。

「鴻上さん、私の独り言にお付き合いください。人間ってやつはどうにも厄介なんです。心ってやつね、私はみんなに表現する時、夏まつりで吊り上げた水風船って言葉をよく使うんですよ。元気な時はぱんぱんに膨らんでいるでしょう? だけど、時間の経過と共に小さくなる。軽く指で押さえると凹んだまま・・・なかなか戻らない。これね、心と身体が疲れているんです。だけど、現実社会ってのは酷でしてね。なかなか休ませてはくれないから、私も鴻上さんも、頑張って働いちゃう。誰が死のうが、何があろうが、ちょっとやそっとじゃ許してくれない。そうしてくうちに、圧が掛かりっぱなしの水風船は、遂には破裂して、中からストレスっていう水が溢れ出してしまいます。自律神経は乱れに乱れて、身体も悲鳴をあげる。人間の身体は実に正直です。助けを求めているんだ」

「カウンセリングですか?」

「いやいや、独り言ですよ。知念君が死んで、悲しくはないんですかって仰ってましたよね・・・私ね、どうやら涙というのを忘れてしまったようだ、残念な人間ですよ・・・」

落胆した瀬戸際の声が、翔子の耳にはやけに響いた。
翔子は返す言葉を失っていた。





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