第26話 フードデリバリー

文字数 2,688文字

山崎哲也は、パートナーである翔子に隠していることがあった。度重なる緊急事態宣言の発出で、務めている居酒屋が時間短縮営業に追い込まれ、収入も3割減となってしまったのだ。
ユニオンリーブルという生活を送る中での減収は、哲也の自尊心を大きく傷つけた。
国領の自宅マンションへ帰宅すると、世帯主である翔子への感謝の気持ちは日に日に増して、その反面、200万まで広がった収入格差の後ろめたさもついて回った。
仲違いをして実家へ戻った数日間、哲也は不思議とよく眠れた。しかし、昭和生まれの両親からの小言にはうんざりしていた。
特に父親の言葉は辛辣で。

「男の癖に・・・早く家庭を持て。恥ずかしくはないのか、子供嫌いの女とは別れろ。家族が出来れば責任を負うものだ。そうなれば一家の長として自覚が芽生える。人生とはそういうもんだ、お前はいつまでぷらぷらしてるんだ!」

「わかってるよ」

「今のお前はヒモ同然じゃないか、全くもって恥ずかしい」

「違うよ! ふたりで収入に見合った生活費を折半してるし、俺だって努力してる。それに、飲食業は今キツイんだよ、特に居酒屋は・・・酒が出せなきゃ客も来ない!」

「そんなのは言い訳だ」

「いや、違うって・・・」

哲也は苦々しい表情で言うのがやっとで、それ以上会話は続かなかった。父親の歯ぎしりを背に早々に自室へ戻ると、転職サイトを眺めながら眠りに就いた。
流行り病に収束の兆しはなく、このまま不安定な生活を続ける訳にもいかない。それに、翔子を好きな気持ちに偽りはなかった。
出来るなら楽をさせてあげたかった。
男として。
そんな中、フードデリバリーの求人広告に目が留まった。
すきま時間に個人事業主として稼ぐ。
契約も収入証明も、データでやり取りできるのが魅力だった。
これなら翔子にバレずに済むし、時短営業の補填としてカネが入れば生活も楽になるだろう。
だが、それは建前で、本音は収入面での格差を縮めたかったのだ。
18時に店を閉め、22時まで東池袋エリアで配達員として働く。免許を持たない哲也の移動手段は、店の近くの量販店で買ったマウンテンバイクだった。
そんな生活を始めて2か月余り、哲也は窮地に立たされていた。
始めこそは順調に取れていた仕事も、最近では参入者が増えて、配達依頼の奪い合いが発生していたのだ。
片手間で依頼を待つだけの哲也に勝ち目はなかった。
参入者の殆どは、パンデミックの影響で失業した若者や、バイトを削られた学生達で、彼らは1日中スマホを片手に仕事を探していた。

「今日は2件だけか・・・ついてない」

そう小さく呟いて、休憩で立ち寄った池袋西口公園を後にする。
配達後にパンクしたマウンテンバイクは重たかった。
駅前で立ち飲みをしている人々、本人ですと書かれたタスキをかけて、予防接種は影の政府の陰謀だと演説する初老の男性、喫煙所で騒ぐサラリーマン、人目も憚らずに激しいキスを交わす中年の男女と、それを見て囃し立てる若者達。
ネオンも疎らな都会の中で、哲也は自分だけが取り残されている疎外感に襲われていた。
店の裏手に自転車を停めてその場にしゃがみ込むと、減給を言い渡された際に、マネージャーから言われた言葉を思い出した。

「こんなんじゃ会社持たないから。都心の此処だけ赤なんだよ、どうするの!」

「・・・どうしようもなくないですか? みんな怖がって店には来ないし、酒の提供も出来ないんじゃ」

「そんなの言い訳だから!」

「と、とりあえずは人件費を抑えながら・・・」

「当たり前だからそんなの! とにかく時短な! 当面オマエひとりでやれ! それと、オマエは内縁の女いるだろ、稼ぎ頭の! 給与はカットするからな。別に困らねえだろ!」

辛い言葉は忘れようにも幾度となく脳裏に甦って、思い返すと自然に涙が溢れた。悔しさと情けなさが拭い切れない。
オマエは男らしくないと、世間から罵られている感じがした。

「俺は・・・そんなに女々しいのかよ・・・」

腕時計を見ると23時を回っているのに帰る気にもなれず、哲也は膝を抱えて泣いた。こうしていると誰かが助けてくれる。幼い頃はそう信じていた。
母親は大学時代までは優しかった。
当時付き合っていた彼女とも仲が良く、将来息子を貰ってやってねと、上機嫌に笑っていた。それが変わったのは翔子との交際がきっかけで、結婚や子どもを望まないライフスタイルを嫌悪して。

「子供を可愛いとも思えない女なんかやめなさい」

と、言った。
どこで歯車が噛み合わなくなったのだろう。
就職浪人中も、翔子との出会いも、ユニオンリーブルもパンデミックも、そして世間体を重視する両親の元に生まれたことや、零細企業で名ばかり管理職という人生を送っている日々。例えば人間が、生命を放棄してやり直せるとしたら、生まれる前から選択したいと哲也は思っていた。
残酷な声を聞くのは御免だ。

「女々しい」「女の腐ったような」「男らしくない」「ヒモ」「女に食わせてもらって楽だな」「内縁の夫」「男のくせに」

いっそこのまま遠くへ逃げてしまおうか・・・そう思っていると、すぐ近くで聞き覚えのある声がした。
顔をあげると店のアルバイト、亀谷あや子が缶ビールを手に立っていた。
その目は涙で潤んでいた。

「泣かないで下さい・・・」

「あ・・・」

「いっしょにいますから、泣かないで下さい・・・」

「・・・」

「どうぞ」

「あ、ありがとう・・・」

「カンパイしましょう」

「う、うん」

あや子は哲也の隣にちょこんと座って、涙を拭って笑った。

「つられて泣いちゃいました。店長真面目過ぎるんですよ」

「あ、気を遣わせちゃってごめんね」

「謝るのもダメです、クセになりますよ」

「・・・うん」

雑居ビルの隙間に、ぼんやりと浮かぶあや子の横顔は優しかった。
鞄の中で振動するスマホを無視して、哲也は乾杯を交わすと。

「かめちゃん、ずっといたの?」

「はい。ずっと見てました、けど声がかけられなくて・・・」

「ごめ・・・」

「あ!」

「いや、ありがとう」

「ありがとうって・・・」

包み込むような瞳を向けて笑うあや子に、哲也は頬を綻ばせた。
仕事でも献身的だった。新人の教育用にと自らハンドブックを作り、ミーティングにも率先して参加してくれた。時には店長の右腕として、そして店舗運営の相談役として働いてくれたあや子。
そんな彼女に、哲也は救いを求めていた。
そっと膝頭に手をあてがうと、同情と期待の瞳がこちらに向いた。
唇を重ね、軽く擦れ合う鼻頭の冷たい感触と、アルコールを帯びた互いの吐息に酔い痴れる。
今夜は流れに身を任せよう。翔子にはクレーム処理で終電を逃したと言っておけばいい。
哲也はそう考えていた。







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