第3話 エスケイプ

文字数 2,183文字

私はそう言うと、シッカリと目を擦って、再び女の瞳に映る鮫島結城、つまりは自分の姿に自惚れた。
これまでの、挫折にまみれた人生を冒とくした人間達の顛末にも満足した。
急速な覚醒で、かくゆう私の意識も混乱しているのだろうが、それは時間の経過という些細な問題に過ぎない。
生涯とはそんなものだから。

「アンタ、売れない作家なんだ」

真夏日の夜、池袋のバーで知り合った、薬物中毒の女は確かにそう言った。
私は、薬欲しさの彼女を自宅へ連れ帰って、散々酔わせて四肢を鎖で繋いだ。
暴れ出した女は、注射投与したベンゾジアゼピン系睡眠薬であっけなく死んだ。
朽ち果てていく肉体を眺めながら、ぼんやりと酒を飲む毎日が始まった。
窓は密閉し、室内の温度は常に12度を保っていたから、腐敗は進まないだろうと考えたがそれは間違いで、硬直した女の身体は緩やかに溶けたチーズみたいになって、眼球は濁り、鼻や口からは蛆がわいた。
ガスが溜った女の腹はどす黒く変色していたが、私はそれに触れながらキスをした。
愛そうとした女は固くて味気なかった。
想像していた通りの結果に私は落胆した。
至る所に蟲の死骸もあった。
歩く度にバチバチと乾いた音がして、裸足だとフローリングに血溜まりが出来てしまうから、室内でも革靴で過ごした。
死んだ蟲を潰す遊びは、初冬のイチョウ並木を歩いた幼少期の想い出と重なる。
枯れ葉も、蠅やゴキブリも一緒なのだ。
死んだ女も、私だってそうだ。
いつかは媒介者の餌食となって、バチバチ・・・バチバチと散る。
高校時代の同級生を駅で見かけて、ホームから突き落とした瞬間に想像した音も同じだ。
バチバチ・・・。
レールと車輪に轢き裂かれる人間の身体。
バチバチ・・・バチバチと聞こえた。
未遂に終わったつまらないふたつの事故のお陰で、私の人生は狂ったのだと思う。
親を恨んだ。

「大学を卒業したらこの家から出ていけ、お前の面倒など見切れん!」

オマエだ。
オマエが悔い改めよ・・・私にそんな偉そうに指示をするな・・・私以外は粗末な人形だ・・・ガラクタ・・・出来損ないのブリキの人形・・・死にたがりの・・・ブリキの・・・ガラクタの・・・出来損ない・・・未完成で狂ったやつら・・・私だけが・・・私を・・・愛している・・・。
無意識に私の手は、自分の首筋を撫でていた。
ひんやりとした細い指先が、頸動脈から鎖骨を舐め始める。
女弁護人の声に、私は我に返った。

「死にたがりの出来損ないって・・・ご自身のこと?」

「いや、鮫島結城のことだ。君には不自然に思えるかも知れないが・・・いいや待ってくれ、実は君はちゃんと理解しているんだろう? 資料には目を通しているね。そうでなければ、君は有能過ぎるか変人かのどちらかだ」

「私は・・・たいして能力はないわ。凡人ですよ」

「気に入ったよ・・・名前は?」

「鴻上翔子です」

「翔子か、いいね・・・」

「光栄です」

私は、伏し目がちに笑う翔子を観察した。
左目よりも右目の方が大きくて、知性と洞察力に長けた人物だと解釈した。
多少前に突き出た頬骨を、ハリのある桜色の肉が覆っている。
長く尖った鼻と、厚い下唇。
責任感のある保守的な人間だ。
だが経験が足りない。
私は自分の指先を股間へ這わせて、翔子を見下ろした。
彼女は表情を変えずに直視している。

「翔子・・・君は私の何が知りたい?」

「全てです」

こうした言葉は過去にも散々言われたが、個人は他人に不寛容だ。
安心して下さい、私は味方ですよといった顔をしながら、平気で裏切り居直る。
挙句、口籠るか怒り狂うかのどちらかだ。
それでも翔子がマシに思えたのは、決意に満ちた眼差しと、壁掛け時計の秒針の色のせいだった。
規則正しく動く針の先端は、あの夜、女の腕に突き刺した注射針と似ていた。
コトリと途切れた生命の音を想像しながら、私は股間を弄る。
時折、ワザとらしく吐息を漏らしながら、パンツの上から逞しくなった性器を弄ぶ。
男の身体は正直だ。
私は今、警察署内の面会室で自慰に耽りながら弁護人と接見している。
その欲情は止められない。
私は私を愛撫し続ける。

「鮫島さん、親しいお友達はいますか?」

「なぜ・・・そんなどうでも良いことを知りたい・・・?」

「ご自宅のこととか、いろいろと大変ですよこれから・・・」

「君が・・・君がやってくれないかな」

「私には無理です」

「それは残念だ・・・しばらく見ていてくれないか?」

「いいですよ・・・」

私は身体を仰け反らせた。
白い天井と壁に囲まれて、想像の世界で私と結城は激しいキスを交わしている。鏡に口づけをするような・・・そう表現するのが正しいだろう。
私の全神経が熱情を呼び起こす。
ワタシハ、オマエヲ、シリツクシテイル。
生ぬるい、長く尖った舌先が絡み合う。
ダガ・・・。
滴る唾液は顎を伝い、細くて長い首には不釣り合いな喉仏を濡らしながら、鎖骨のくぼみで止まった。
オマエハ、ワタシヲ、シルコトハナイ。
自分の息遣いは結城そのものだ。
世界が終ろうとしている。
私は唇を噛みしめて、結城と共に絶頂を迎えた。
身体は小刻みに震えている。
翔子はスクッと立ち上がって静かに言った。

「また伺います」

「わかった」

「お身体には気を付けてください」

「・・・自殺なんか出来っこないから、安心してくれ」

「それではまた」

私は立ち去ろうとする祥子に。

「エスケイプ」

とだけ伝えて、濡れたズボンの気持ち悪さを後悔した。
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