第6話 フリージャーナリスト・鴻上翔子

文字数 2,257文字

「エスケイプ」

鮫島結城との接見を終えた翔子は、別れ際に放たれた言葉の意味を考えていた。
何から逃げているのか。誰が逃げているのか。どうして逃げているのか。
彼が逃げているのか。それとも私が?
車のハンドルを握りながら、猟奇殺人事件の元容疑者からの謎かけに腹立たしさを覚えて、気を紛らわそうとラジオのボリュームを上げる。
聞こえてくるのは、昨年秋から大流行している流行り病のニュースばかりで、正直うんざりしてしまった。
何故なら、もうすぐ一年が過ぎようとしているのに、感染拡大が治まる気配もない。
スペイン風邪以来の脅威に、人間はさらされていると云うが、社会は相変わらず異常な犯罪に汚染されている。
鮫島結城が巻き込まれた事件もその一例に過ぎず、愛人を殺害して、その肉片・両耳を食べたという内容は、センセーショナルな見出しと共にワイドショーを賑わせた。

令和のカニバリズム、女の肉を喰らう男の闇。

鮫島の身柄が送検されるや否や、マスコミ各社は実名報道に切り替えた。
ところが翌日、真犯人と名乗る女が池袋警察署に出頭すると、報道内容は鮫島結城の解離性同一性障害の話題へと切り替わってしまった。
ひとりの男の人権は封殺された。
交通量の少ない月曜日の午後の甲州街道。
ローンで購入した新車、ミツオカ・レイの深紅のボディーは通行人の目を引いた。
10年間務めた雑誌社を辞めたのも、高価な車を思い切って買えたのも、キッカケは流行り病だった。
死んでしまう前に好きなことをしたい。
それが答えだ。
とはいえ、翔子には別の顔もあった。
学生時代から、趣味で書き続けていたウェブ小説が文庫化され、桐野ミカエラというハンドルネームは、ラノベ作家の間では名が知れていた。
電子書籍分の印税も、小遣い程度ながら毎月振り込まれる。
そして先月、思わぬ吉報も飛び込んだ。
シリーズ化された小説「恐怖の日常」の重版が決定したのだ。
転職したばかりの時期だけに有り難かった。

エスケイプ。

私は人生から逃げているとでも?
翔子は、耳障りなラジオを消した。
鮫島が脳内への不法侵入を企んでいる気がした。
不気味な予兆に耐えられなくなって、路肩に車を停めると大声で叫んだ。

「ざけんな! 汚いもん見せつけやがって! キモイんだよナルシスト野郎!!」

格好の取材相手に拒絶されないよう、翔子は鮫島の全ての言葉や行動を受け入れるつもりでいた。今後の生活の糧に成り得る存在は、フリーランスとなった翔子には大きかった。
ところが、隔離病棟の面会室で自慰行為を見せつけられた。
あの時の、他人を蔑む瞳は忘れられない。

「クソが!!」

そう吐き捨てた翔子の目に、集団下校する学童達の姿が飛び込んできた。
皆口々に、ミツオカ・レイを指差して感嘆の声をあげていた。
中には触ろうとする男の子もいたが、先生にあっけなく叱られて列に戻って行った。
翔子はウインドウを少しだけ開けて、マルボロライトのメンソールに火を点けた。
木目調のパネルに埋め込まれたメーターを眺め、手に馴染んだハンドルに触れながらの一服は、何よりも幸せなひと時だった。
木枯らしが吹く季節に、月間ケラリーノ・ニュースショーの専属記者として契約できた幸運を、出来ることなら恋人の山崎哲也と分かち合いたかったが、ラインのメッセージが既読になることはなかった。
数日前の、些細な喧嘩が原因なのは分かっていた。

お互いに意地を張るのはやめよう。

翔子の指先は、タッチパネルの文字をなぞっていた。
ところが、紙飛行機の送信ボタンは押せなかった。
すっかり冷たくなった缶コーヒーを飲みながら、時間潰しに過去のアルバムを眺めてみる。
雑誌記者時代に収めた大量の素材の中に、哲也との思い出が埋もれていた。
旅行先の景色と料理、通い慣れたバーで撮った互いのほろ酔いの顔、何気ない日常の風景を照らす、ふたりで買った間接照明の灯り。
想い出に浸るほど、ほのかに胸が締め付けられる。

「そんなに自分がイヤなら、この家から出て行って」

と、言った自分を後悔した。
出逢った頃と比べて、理想と現実は恐ろしいスピードで解離している。
ふたりとも、それについて行けないだけなのだ。
翔子は煙草を消すと、紙飛行機をやさしくタップした。

ごめんなさい、言い過ぎました。

既読が付いたのは数時間後のことで、その時翔子は、自宅マンションのリビングでリモートミーティングに参加していた。
画面の向こうでは、海津孝義編集長と石橋絵里子社会部部長が言い合いをしていたが、翔子は神妙な面持ちで静観するだけに決めた。
パンデミックのご時世であっても、海津の背景に映る出版社内の様子はカオスだった。鳴りやまない電話と叫び声。慌ただしく動き回る人々。
自分があの中にいたらと思うと、翔子はぞっとした。
秘密の行動がバレないように、時折俯きながら哲也のラインに返信をする。
膝の上に置いたままのスマホの操作に悪戦苦闘しつつも、哲也と仲直りできた喜びに翔子の心は和んでいた。
ところが、海津のひと言が状況を一変させた。

「鴻上君! 鮫島結城が自殺!」

「え!?」

「病院からの連絡だから!あ、待て待て、意識はあるようだが、君の名前を呼んでいるようだ」

「私の?」

石橋絵里子がにやりと笑って冗談めいた。

「好かれたみたいね」

「よしてください!」

翔子はスマホを伏せて、天井を見上げた。
なかなか厄介な仕事になりそうだ。だけど無一文になるよりかはマシだから、細々と食いつないでいこう。鮫島結城が心を開いている記者は私だけ。利用しなくては・・・疲労と不安が重なる心の中で、翔子はそう呟いていた。
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