第35話 山吹・四季

文字数 1,841文字

妻と娘の葬儀後しばらくして、大阪の姉夫婦が、私の仕事を手伝いに駆けつけくれた。
身籠の姉のお腹はふっくらとしていて、無理はかけたくなかった。
しかし、精神的に参ってしまった私は、姉夫婦に甘えることにした。
義理の兄は、慣れない仕事に手間取ってはいたが、精一杯働いてくれた。
人間は、こんな時でも働かなくては生きてはいけない、悲しい現実を思い知った。
姉のお腹に宿る新しい生命。
私には恨めしく、そして淋しく、嬉しかった。
それでも、姉夫婦が大阪へ帰る頃には、私の心は感謝の気持ちで溢れていたように思う。

9月。
庭に、真っ白な桔梗の花が咲いていた。
季節外れの風鈴が、風に乗って泣いている、
私は、それを片付けようとは思わなかった。

10月。
金木犀の香る通学路を、真新しい学生服の子供達が行き交う。
衣替えの季節に、私は目を伏していた。
娘との記憶が溢れ出してしまうから。何も見たくはなかった。

11月。
朝晩と冷え込み始めた空は澄んでいた。
近所の神社の酉の市。毎年出かけた屋台の裏道を、私はいそいそと通り過ぎた。
柊の花には目もくれずに。

12月。
南国では珍しく粉雪が舞って、その中を子供達が元気に駆けて行く。
クリススイヴの前日に、私は遺族会の集まりに参加した。
事故の真相究明、墜落までの経過報告等々の説明を、代表弁護士から聞いた。
大晦日になっても、私の心の空洞を埋めるものは何もなかった。
元旦に、姉から連絡があった。。
送られてきた画像には、真っ赤な顔をした女の子の赤ん坊と、感情を押し殺した姉夫婦の強ばった表情が写っていた。
私は眺めながら。

「無理せずさ、笑ってくれよ。お願いだから」

と、呟いた。
何故だろう。涙が零れていった。

1月。
七草粥を作ってはみたが、妻の味には叶わなかった。
仏壇に供えて仕事を始める。
店番は、幼馴染が僅かばかりの賃金で手伝ってくれた。
日常が回り始めて行く。私の心を置き去りにしてまで。

2月。
節分もバレンタインも過ぎ去ってしまった。
私は、世の中の様々な事柄に心を伏している。
何故、周りの人達はあんなに笑えるのだろう。
私はこんなに苦しんでいるのに。
やり切れない毎日の繰り返し。
停止する思考と、覚醒させようともがく潜在意識。
私は、近所の河原でぼんやりと、風に揺れる菜の花を見ながら、記憶を消そうと努力していた。

3月。
手狭な庭の宝石達は、見るも無惨に朽ち果ててしまった。
それでも、片隅にはタンポポが花を咲かせている。
ひな祭り、ホワイトデー、春の高校野球が知らぬ顔して、私の前を通り過ぎて行った。

4月。
遺族会の集まりで、神戸に向かう新幹線の車内で、私は妻の夢を見た。
もうすぐ彼女の誕生日。
昨年は、娘とプレゼントを買いに行った。
妻が。

「あたしの大切なお守りよ」

と、喜んでくれたブレスレットは、墜落現場からまだ見つかってはいない。

5月。
開園したばかりのテーマパークのチケットを、妻と娘に内緒で購入したのは昨年の今頃だった。私の記憶が鮮明に蘇り始めている。
時間が戻らない事は百も承知だ。
しかし、幾度も願いごとをしながら、毎日を過ごしていた。
時間を戻せないのならせめて。

「もう一度、2人の声を聞かせてください」

と。
私の枕は、涙で毎日濡れていた。
こどもの日に、私は夢を見た。
ふたりからのプレゼントは、私が願っていた声だった。
娘は元気いっぱいで、舌ったらずな発音は妻にそっくりだ。

「パパ、あのひこうきも、お羽がヒュンってなってるよ」

妻の声もした。

「似合うかなぁ、ちょっと派手かなぁ?」

記憶の奥底に眠る記録。
それでも嬉しかった。

6月。
娘の誕生日にシュークリームを仏壇に供える。

「うちは和菓子屋さんだぞ」

と、語りかけ、私は笑った。
写真のふたりも笑った。
街中に、色とりどりの紫陽花が咲き乱れていく。
父の日は、久しぶりに酒場で過ごした。

7月。
週に一度の墓参り。
墓前で、長い時間語りかけてしまう。
海開きのニュースが流れ、昨年の飛行機事故の追悼番組も増えた。
私は無心で働いた。
救いを求め続けて。

8月。
私は、この街から離れない。
遺族会の集まりを辞退して、必死でがむしゃらに働いた。
各地の花火大会の光景が、ブラウン管を通して私の心にチラつき始める。
広島と長崎の原爆の日が過ぎた。
私にとっての運命の日、その日も店は開けていた。
近所の盆踊りの提灯。可愛らしい浴衣。水風船と綿あめ。それらが私の目の前をかすめていく。
神社の百日紅の花の色。
家族で毎年出かけた公園の向日葵の背丈。
私は思い出せなかった。
風鈴は、相変わらず風に揺れて泣いていた。
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