第20話

文字数 2,261文字

 *


 翌朝。ワレスが起床したときには、すでに香のにおいは残っていなかった。
 そう。あれはお香だ。
 それも、呪術的な効能がある。

(睡眠を深くする香だな。あれだけ、おそわれるように眠くなるのは異常だ。それに小声でつぶやき続ける人の声のようなものが……)

 そうか。そういうことなのか。
 でも、誰がなんのために?

 ベッドの上に半身を起こして黙考していると、ユリエルが起きてきた。

「ドミニクスにつきおとされる夢を見た」
 寝ぼけまなこで言う。

「ユリエル。おれは少し調べなければならない。今日のおまえの公表会までに」

 ユリエルは半びらきだった目をパッと見ひらく。

「行っちゃうの? ワレス」
「ああ。でも、大事なんだ」
「僕を信じてないの? だから、そんなこと言うの?」

 その言葉は、ワレスの胸をつらぬく。


 ——どうしたら、信じてくれる?

 ——おまえが……おまえが、死んだら……。


(おれが、おまえを信じてなかったと思うのか? ルーシサス。わかってたさ。こう言えば、おまえはほんとに死ぬかもしれないと、心のどこかで感じていた)

 でも、ダメだったんだ。
 あのときは、ほかにどうにもできなかった。

 だって、おれはノラ猫だから。
 愛してると悟られるなんて、弱みを見せる行為でしかないと思っていた。
 おまえに支配されることが怖かったんだ。
 愛によって、おれの心臓をにぎられることが。

「……ねえ、ワレス?」

 問いかける少年の澄んだ瞳を見つめ、ワレスは微笑した。自分が泣きそうな顔になっているとは、とうぜん、ワレスは気づいていなかった。

「約束するよ。おまえが幸福に暮らせるように、精いっぱい努力する」

 それでも、ユリエルはまっすぐ、ワレスを見あげている。

 ワレスは嘆息して語りだした。
 これまで、誰にもそれを告白しなかった。これは懺悔(ざんげ)だ。天使のような瞳の少年に、天使のようだった少年のことを語りたかった。

「以前、とても大切な友達がいたんだ。ちょうど、おまえくらいの年のころだよ。
 その子はまるで天使のようで、おまえに似ていた。おれはひとめ見たときから、その子が大好きだった。
 おれはそのころ、悪いやつらに捕まって、言葉では表せないほどツライ境遇にいた。小公子ごっこなんか目じゃないぞ。親のない子どもは、世間じゃ人間としてあつかわれないのさ。
 そこから救ってくれたのが、その子とその子の両親だった。
 おれには、苦労知らずで傷ついたことのないその子が、まっさらな雪のようにまぶしく見えた。どうしても、その子を自分のものにしたかった。それは美しいものへのあこがれだったんだと思う。
 でも、その子はおれを恐れたんだ。おれが血まみれの手負いの獣だったから。その子の生きてきた美しい世界には、おれみたいなヤツは、まったく異質な存在だった。
 最初は純粋に仲よくなりたかった。でも、さけられるうちに、おれの感情はゆがんでいった。
 それで……卑怯な手を使って、その子を自分のものにした。端的に言うと、友達になってくれなきゃ殺すぞとおどしたんだ。おれは、ずっと、そういう世界で生きてきたから、むしろ、おれには自然な行為だった。
 おれとあいつの関係は王さまと奴隷(どれい)。すべて、おれの言いなりでないと気がすまなかった。不安だったから。そうしないと、あいつが去ってしまうと、おれは思っていた。ずっと、そばにいてほしかったのは、おれのほうなんだ。
 だから、あの日、あいつが急にあんなことを言いだしたとき、おれは信じられなかった。
 あいつは言ったんだ。
『ワレサが好きだよ。愛してる』——と」

 ユリエルは神妙な顔つきで、ワレスを見つめている。
 ワレスは続けた。

「ワレサっていうのは、おれの本名のニックネームなんだ。親がつけたほんとの名前は、ワレサレス。まあ、名前なんて、どうでもいいんだが。
 とにかく、あいつは、そう言った。ユイラではめずらしく雪の降る寒い日だった。
 おれは、とっさに信じられなかった。ずっとイジメて支配してると思っていた相手に、急にそんなこと言われたんだ。誰だって信用できないだろ?
『信じられない』と言うおれに、あいつは『どうしたら信じてくれる?』と聞いた。
 おれは言った。このひとことのために一生涯、後悔する言葉を吐いた。『おまえが、死んだら』——と」

 ユリエルの表情が少しゆがむ。

「……それで、どうなったの?」
「あいつはこの世からいなくなり、おれはあいつを求めながら生きている。それが答えだ」
「死んだんだね……」

 するりと、少年の頬に涙がこぼれる。
 なんて透明な涙だろう。

 ワレスはユリエルの頬を、そっとなでた。

「あのときみたいな思いは、二度としたくないんだ」

 天使のようなユリエル。
 これは、ただの代償行為かもしれない。
 過去の罪をつぐなうための。
 それでも、おれは、おまえを守りたい。

 ワレスはだまってベッドからおりた。
 編みあげサンダルをはいていると、背後から少年の腕がまきついてきた。

「ワレス。その子も、あなたを手に入れたかったんじゃないかな。あなたの心を。だから、きっと悔やんでないよ。もう自分を責めないで」
「……ありがとう」

 だが、責めないわけにはいかない。
 今ここに、ルーシサスがいたら、どれほど幸福だったろうと思うと、自分の愚かしさにヘドが出る。

 けっきょく、自分がさみしいのだ。

 ワレスは立ちあがると、マントをつけ、帯に剣をさした。

「公表会は晩餐の席だったな?」
「うん。日没にあわせて、伯爵邸で」
「それまでには、まにあわせる」

 忙しい一日になりそうだ。
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