第37話
文字数 3,038文字
*
皇都の住人のあいだに起こる、もめごとや事件の裏を、裁判所の命令で調査する役所がある。
正式名称は、裁判所預かり調査部隊。
もともとは軍隊の一部だったが、今では独立した機関になっている。裁判所の下請けをする軍隊と思えばいい。
役所はモントーニ医師の自宅に近かった。
二つの建物は、住人の火急の呼びだしに、すみやかに応えられる場所にある。
皇居の表御門へ、まっすぐに通じる大通りが交差する広場。そのわきに役所はあった。
訴訟は裁判所で受けつけるから、役所のまわりには、さほど人影がない。
華麗な噴水のある広場には不似合いな重苦しいふんいきで、ヤリを持つ門番が威圧感を与えているだけだ。
ワレスは噴水には見向きもせず、近づいていった。
門番に声をかける。
「ジェイムズ・ティンバーに会いたい。おれをなかへ通すか、彼をここへ呼びだしてくれ」
門番はワレスのジゴロらしい華美な風体をぶしつけにながめた。
貴族なら、徒歩でウロついてるはずがない。
身だしなみに金を飽かせているくせに、馬も馬車も持たない。
ワレスのような男がどういう種類の人間かは、少し考えれば誰にでもわかる。
「知りあいか?」
門番の口調は侮蔑 的だ。
ワレスは舌打ちをついた。
「ああ。名乗らなくても、おれの特徴を言えばわかる」
うろんげな眼差しのまま、門番はなかの仲間に用件を告げた。
本来なら、こんな男に、かるくあしらわれる自分ではなかったはずなのに——
そう思えば、悔しくないわけではない。
だが、それはみずから進んで、すてた道。
いまさら引き返せない。
このさき、おれの人生は、ずっと暗い墓穴をはいずっていくようなもの。
光は二度とささない。
おれがこの手で、天使を殺してしまったから……。
ワレス自身には、五十年にも百年にも感じられるほどの、時の重みをもつ過去に思いをはせる。
そうするうちに、役所のぶあつい扉が勢いよくあけはなされた。息をきらした青年がとびだしてくる。
ユイラ人に多い黒髪。あわいブラウンの瞳。
純白の肌の育ちのよさそうな青年。
見かけだけいいワレスと違い、正真正銘の貴公子と、ひとめでわかる。
彼はティンバー子爵家の嫡男。次期子爵だ。
その貴族の御曹司が、噴水の石組みにすわるワレスを見つけると、飢えた野獣がエモノにとびかかっていくような剣幕でかけてきた。
いきなり、ワレスの両肩をつかんで、激しくゆさぶる。
「今までどこにいたんだ! ずいぶん、探したんだぞ。心配させて!」
ワレスはそっと、ため息をつく。
変わらない。この男は。
学生時代から少しも。
ワレスがある貴族の後押しで、帝立第一学校で学んでいたころの学友だ。
あのころから、人を疑うことを知らない、とんまな
「離してくれないか。往来だ。おれが役人に捕まった悪党みたいだろう?」
自分の発した言葉のもつ皮肉に、ワレスは冷笑する。
そうだ。おれは悪党だ。
それ以外のなにものでもない。
だが、ワレスを捕まえなければならない役人のジェイムズは、彼のほうが小さくなって謝罪した。
「すまない。気がまわらなかった。しかし……何年ぶりだと思うんだ。君がアウティグル伯爵家を出ていって。聞けば、仕官も辞めたというじゃないか。いったい、どこで何をしてる? ワレサレス」
自分を親からもらったほんとの名で呼び、忘れたい過去を思いださせる相手。
だから、会いたくなかった。
ワレスはジェイムズの詮索 を片手をあげて制した。
「おれのことはいい。ある事件について聞きたいだけだ。この件が片づけば、こんりんざい、押しかけたりしない。安心するがいい」
「押しかけるだなんて。私は、ただ——」
もう一度、手をあげて、だまらせる。
ジェイムズは大きく嘆息した。
「変わったなあ。ワレサ。以前はもっと……」
「語りあうために来たわけじゃない。あんた、三年前に、プロパージュ家の当主が殺された事件をしらべただろ?」
「あの事件か。たしか犯人は捕まってなかった」
「そう。その小間使い」
「うん。そうそう。犯人は小間使いだった」
「小間使いのキミーだ。彼女について知りたい。できれば会ってみたいが、そこまではムリかもしれないな。主人殺しは捕まれば死刑だ。せめて、彼女をよく知る人物の話を聞きたい。キミーが子どもをあずけていた縁者の姓名、住所を教えてくれ。ほかに親しい者がいたなら、それも」
「なんで、そんなことを知りたがるんだ」
ワレスは嘘をついた。
「キミーを生き別れの妹じゃないかと考えるご婦人がいる。身分のある人なので、誰とは言えないが」
「なるほど」
ジェイムズはこういう嘘を信じてくれるから、やりやすい。
それならと言って、情報を横流ししてくれる。
「キミーが子どもをあずけていたのは、叔父夫婦の家だ。キミーの両親は早くに他界している。ほんとのとこ、キミー自身は子どもを自分で育てたかったようだ。しかし、働くためにはしかたなかったんだ。ほかには、とくに親しい人物はいない」
聞けば聞くほど、孤独な女だ。
「子どもは今も叔父の家に?」
「いや。それが、キミーが姿を消す前につれていった。事件の夜、とつぜん、やってきて、子どもをつれて、あわただしく出ていったそうだ。それきり、音信不通。最初の一年は、叔父の家に見張りをたてていたが、姿を見せない。連絡もいっさいない」
「どこか遠くへ行ったのか。とはいえ、キミーには頼るつてはないんだろう? よその土地へ行けば、苦労が増すだけなのは目に見えている」
「遠縁の家は全部あたった。キミーが立ちよった形跡はない。子どもをかかえて女手ひとつ。どこでどうやって暮らしているんだか、さっぱり見当もつかない」
小間使いのキミーには、たいした貯えもなかったろう。子どもにも働かせるとしても、素性をかくしながら人目をさけて生活するのは厳しい。
「どうも、おかしなぐあいだな」
子づれの女が、こんなにうまく身をかくせるものだろうか?
この調子では、叔父夫婦からも、ろくな話は聞けないだろう。いちおう住所だけ確認して、ワレスは立ちあがった。
「じゃあな」
そっけなく立ち去ろうとする。
ジェイムズはワレスの手をとってひきとめた。
「ワレサ。こまってるなら力になる。私では力不足かもしれないが、多少の人脈はあるつもりだ。君に再仕官の気があるなら——」
ワレスは乱暴に、ジェイムズの手をふりきった。
「二度と会う気はない。ごきげんよう」
ばかに丁寧に宮廷式のおじぎを残し、足早に去る。
背中から、ジェイムズの声が追ってきた。
その言葉は、ワレスの胸をえぐった。
「ワレサ! ルーシサスが死んだのは、君のせいじゃないんだ!」
なぜ、そう言いきれる?
何も知りやしないくせに。
ワレスは急いで、その場を逃げだした。
まだだ。もう少し……もう少し待て。ワレス。
ジェイムズの目が届かない場所まで。
取り乱すのは、それからだ。
広場を歩く通行人がふりかえっていくほどの勢いで、ワレスは人ごみのなかを走りとおした。
いつしか、涙があふれていた。
何年も前に枯れはてたと思っていた涙が。
(ルーシィ。おれが、おまえを殺した)
寒い冬の朝。
天使になった、あの子。
冷たい水のなかで、真実の証しをたてるために。
あれは嘘だったんだと、今さら言ったところで、とりかえしはつかない。
ワレスは誰もいない路地裏に逃げこんだ。
つまれた木箱のかげで、嗚咽 した。
皇都の住人のあいだに起こる、もめごとや事件の裏を、裁判所の命令で調査する役所がある。
正式名称は、裁判所預かり調査部隊。
もともとは軍隊の一部だったが、今では独立した機関になっている。裁判所の下請けをする軍隊と思えばいい。
役所はモントーニ医師の自宅に近かった。
二つの建物は、住人の火急の呼びだしに、すみやかに応えられる場所にある。
皇居の表御門へ、まっすぐに通じる大通りが交差する広場。そのわきに役所はあった。
訴訟は裁判所で受けつけるから、役所のまわりには、さほど人影がない。
華麗な噴水のある広場には不似合いな重苦しいふんいきで、ヤリを持つ門番が威圧感を与えているだけだ。
ワレスは噴水には見向きもせず、近づいていった。
門番に声をかける。
「ジェイムズ・ティンバーに会いたい。おれをなかへ通すか、彼をここへ呼びだしてくれ」
門番はワレスのジゴロらしい華美な風体をぶしつけにながめた。
貴族なら、徒歩でウロついてるはずがない。
身だしなみに金を飽かせているくせに、馬も馬車も持たない。
ワレスのような男がどういう種類の人間かは、少し考えれば誰にでもわかる。
「知りあいか?」
門番の口調は
ワレスは舌打ちをついた。
「ああ。名乗らなくても、おれの特徴を言えばわかる」
うろんげな眼差しのまま、門番はなかの仲間に用件を告げた。
本来なら、こんな男に、かるくあしらわれる自分ではなかったはずなのに——
そう思えば、悔しくないわけではない。
だが、それはみずから進んで、すてた道。
いまさら引き返せない。
このさき、おれの人生は、ずっと暗い墓穴をはいずっていくようなもの。
光は二度とささない。
おれがこの手で、天使を殺してしまったから……。
ワレス自身には、五十年にも百年にも感じられるほどの、時の重みをもつ過去に思いをはせる。
そうするうちに、役所のぶあつい扉が勢いよくあけはなされた。息をきらした青年がとびだしてくる。
ユイラ人に多い黒髪。あわいブラウンの瞳。
純白の肌の育ちのよさそうな青年。
見かけだけいいワレスと違い、正真正銘の貴公子と、ひとめでわかる。
彼はティンバー子爵家の嫡男。次期子爵だ。
その貴族の御曹司が、噴水の石組みにすわるワレスを見つけると、飢えた野獣がエモノにとびかかっていくような剣幕でかけてきた。
いきなり、ワレスの両肩をつかんで、激しくゆさぶる。
「今までどこにいたんだ! ずいぶん、探したんだぞ。心配させて!」
ワレスはそっと、ため息をつく。
変わらない。この男は。
学生時代から少しも。
ワレスがある貴族の後押しで、帝立第一学校で学んでいたころの学友だ。
あのころから、人を疑うことを知らない、とんまな
おぼっちゃま
で、ワレスにいいように利用されていた。「離してくれないか。往来だ。おれが役人に捕まった悪党みたいだろう?」
自分の発した言葉のもつ皮肉に、ワレスは冷笑する。
そうだ。おれは悪党だ。
それ以外のなにものでもない。
だが、ワレスを捕まえなければならない役人のジェイムズは、彼のほうが小さくなって謝罪した。
「すまない。気がまわらなかった。しかし……何年ぶりだと思うんだ。君がアウティグル伯爵家を出ていって。聞けば、仕官も辞めたというじゃないか。いったい、どこで何をしてる? ワレサレス」
自分を親からもらったほんとの名で呼び、忘れたい過去を思いださせる相手。
だから、会いたくなかった。
ワレスはジェイムズの
「おれのことはいい。ある事件について聞きたいだけだ。この件が片づけば、こんりんざい、押しかけたりしない。安心するがいい」
「押しかけるだなんて。私は、ただ——」
もう一度、手をあげて、だまらせる。
ジェイムズは大きく嘆息した。
「変わったなあ。ワレサ。以前はもっと……」
「語りあうために来たわけじゃない。あんた、三年前に、プロパージュ家の当主が殺された事件をしらべただろ?」
「あの事件か。たしか犯人は捕まってなかった」
「そう。その小間使い」
「うん。そうそう。犯人は小間使いだった」
「小間使いのキミーだ。彼女について知りたい。できれば会ってみたいが、そこまではムリかもしれないな。主人殺しは捕まれば死刑だ。せめて、彼女をよく知る人物の話を聞きたい。キミーが子どもをあずけていた縁者の姓名、住所を教えてくれ。ほかに親しい者がいたなら、それも」
「なんで、そんなことを知りたがるんだ」
ワレスは嘘をついた。
「キミーを生き別れの妹じゃないかと考えるご婦人がいる。身分のある人なので、誰とは言えないが」
「なるほど」
ジェイムズはこういう嘘を信じてくれるから、やりやすい。
それならと言って、情報を横流ししてくれる。
「キミーが子どもをあずけていたのは、叔父夫婦の家だ。キミーの両親は早くに他界している。ほんとのとこ、キミー自身は子どもを自分で育てたかったようだ。しかし、働くためにはしかたなかったんだ。ほかには、とくに親しい人物はいない」
聞けば聞くほど、孤独な女だ。
「子どもは今も叔父の家に?」
「いや。それが、キミーが姿を消す前につれていった。事件の夜、とつぜん、やってきて、子どもをつれて、あわただしく出ていったそうだ。それきり、音信不通。最初の一年は、叔父の家に見張りをたてていたが、姿を見せない。連絡もいっさいない」
「どこか遠くへ行ったのか。とはいえ、キミーには頼るつてはないんだろう? よその土地へ行けば、苦労が増すだけなのは目に見えている」
「遠縁の家は全部あたった。キミーが立ちよった形跡はない。子どもをかかえて女手ひとつ。どこでどうやって暮らしているんだか、さっぱり見当もつかない」
小間使いのキミーには、たいした貯えもなかったろう。子どもにも働かせるとしても、素性をかくしながら人目をさけて生活するのは厳しい。
「どうも、おかしなぐあいだな」
子づれの女が、こんなにうまく身をかくせるものだろうか?
この調子では、叔父夫婦からも、ろくな話は聞けないだろう。いちおう住所だけ確認して、ワレスは立ちあがった。
「じゃあな」
そっけなく立ち去ろうとする。
ジェイムズはワレスの手をとってひきとめた。
「ワレサ。こまってるなら力になる。私では力不足かもしれないが、多少の人脈はあるつもりだ。君に再仕官の気があるなら——」
ワレスは乱暴に、ジェイムズの手をふりきった。
「二度と会う気はない。ごきげんよう」
ばかに丁寧に宮廷式のおじぎを残し、足早に去る。
背中から、ジェイムズの声が追ってきた。
その言葉は、ワレスの胸をえぐった。
「ワレサ! ルーシサスが死んだのは、君のせいじゃないんだ!」
なぜ、そう言いきれる?
何も知りやしないくせに。
ワレスは急いで、その場を逃げだした。
まだだ。もう少し……もう少し待て。ワレス。
ジェイムズの目が届かない場所まで。
取り乱すのは、それからだ。
広場を歩く通行人がふりかえっていくほどの勢いで、ワレスは人ごみのなかを走りとおした。
いつしか、涙があふれていた。
何年も前に枯れはてたと思っていた涙が。
(ルーシィ。おれが、おまえを殺した)
寒い冬の朝。
天使になった、あの子。
冷たい水のなかで、真実の証しをたてるために。
あれは嘘だったんだと、今さら言ったところで、とりかえしはつかない。
ワレスは誰もいない路地裏に逃げこんだ。
つまれた木箱のかげで、