第55話

文字数 2,433文字



 この宿の泊まり客には、みんな、暗い過去がある。
 つらく悲しい過去の痛みを心にかかえている。
 だから、笑顔にも(かげ)が、にじむように濃い。
 それが、宿をおおう重苦しいふんいきの正体だ。

 ワレスには確信があった。

(こんなぐうぜん、あるはずがない。あるとしたら、そこに何者かの意思がひそんでるはず)

 どうにかして、たしかめたい。
 仕掛けるなら、誰がいいだろう?
 全員に試す必要はない。
 一人か二人で充分だ。

(あいつがいい)

 標的をさだめて、ワレスは階下へおりていった。階段近くの部屋には、人の気配がなかったからだ。

 階下のリビングルームには誰もいなかった。
 いや、宿ぜんたいが無人のように静かだ。
 ほとんど全員が、それぞれの部屋にこもって、こそりとも音をたてないでいるらしい。

 巣穴のなかで肉食動物の足音に警戒しながら、つねに耳をすまして、おびえている小動物のむれ。
 そんなイメージが頭をよぎる。

 だが、このなかに一匹だけ、オオカミがまぎれこんでいる。
 ワレスと同じ、するどい爪と牙をもつオオカミ。

 ワレスはオーベルの姿をさがした。
 厨房につながる細いろうかに人影を見つけた。
 小間使いのシャルロットだ。夕食に使う皿をリビングに運ぶところだ。
 こっちに近づいてくるシャルロットに、ワレスは声をかけた。

「昨日は聞けなかったんだが、この宿では風呂はどうしてる?」

 とりあえず、内容はどうでもいい。話しかける、きっかけがほしかった。

 シャルロットはワレスを見て、ぽっと頬をそめた。あたりまえの女の反応だ。
 シャルロットには暗い影がない。健康そうで、とても溌剌(はつらつ)としている。

「近くにお湯屋さんがありますよ。どうしてもと言われれば、うちでも裏庭の内風呂を沸かしますけど。それだと別料金だし、時間もかかります。お湯屋さんのほうが安くて広いです。ほんとのところは、うちの人手が不足してるから、お風呂まで、めんどうみきれないんですよね」

 客に対して野放図な口調も、かえって生気にあふれて気持ちいい。

「となると、見張りの兵士がなんて言うかな。あとでジェイムズに相談してみよう。ほかの客はどうするつもりか知らないが」
「女のお客さんだけには、うちで入ってもらおうと思って、今、おじいちゃんが沸かしてるんです」

「あんた、下男の孫なのか」
「はい。あたしも都会で働きたかったけど。まあ、現実はこんなもんです」
「ここでも充分、刺激的じゃないか。あんな妙な殺人事件が起こって」

 シャルロットは残酷にも笑った。

「いい気味。イヤな男だったんだから。ほんと、いやらしいヤツでした。あたしの胸やお尻をさわってきて。そりゃね。宿だって客商売だから、たまにはイヤな客だって来るわ。でも、あそこまで下劣な男は初めて!」

 ワレスは笑って、シャルロットの手から皿を半分とった。運ぶのを手伝ってやる。

「あんたが魅力的すぎたのさ」
「お上手ですね。お客さんが、みんな、あなたみたいに優しくてハンサムならいいのに。クタクタになるまで働いても見返りは少ない。労働者のツライところよ」
「大変だな。そういえば、あるじの妻は病気中だって話だったな」

 ワレスに他意はなかった。以前のショーンの言葉を思いだしただけだ。なにげなく言ったのだが、シャルロットは一瞬、だまった。きっと、タブーにふれる内容だったのだ。

「……病気、ひどく悪いのか?」
「ああ、いいえ……」

 渋るので、ワレスはシャルロットの耳元に口をよせた。

「こまった顔も可愛いな」

 ちゅっと、ふっくらした頬で唇をならす。
 純情なイナカ娘は、あっけなく堕ちた。

「やだ。お客さん。遊んでるでしょ?」
「おれが君をこまらせたなら、悪いと思ってね。聞いちゃいけないなら、もう聞かない」

「ちがうのよ。お客さんが思ってるような醜聞とかじゃないのよ。ただ、その話をすると、ダンナさんが悲しむから。ここの女将さんね。寝たきりなのよ。まだ、うんと若いんだけど、何年か前に都見物に行ったとき、馬車に

……歩けなくなったんですって」
「それは災難だな」

 リビングについた。テーブルに皿を置いて、シャルロットと別れた。

 オーベルは建物のなかのどこにもいない。
 庭に出ていく。
 すると、裏庭の庭木のかげに、オーベルはいた。
 酒びんと(さかずき)を手にしているが、できあがってるようではない。まるで、そこにはいない誰かと、祝杯をあげているかのようだ。満足げに、だが少し物悲しい顔で、静かに杯をかたむけている。

 ワレスはわざと親しげに声をかけた。
「よう、兄弟」

 オーベルは微笑んだ。
「あんたか。どうだい? あんたも一杯やるか?」
「もらおうか」

 しばらく、酒をくみかわしていると、オーベルのほうから語りだした。

「信じられないだろうが、おれはこれでも、昔はけっこういいとこのボンボンだったんだぜ。でっかい屋敷に住んでたんだ。まさか大人になって、こんなふうになるとは、あのころは思わなかった」
「だろうな」と、てきとうに相槌(あいづち)を打っておく。

 オーベルはうなずき、勝手に話を続けた。

「オヤジは人がよかった。あいつにだまされて、屋敷も財産も何もかも失った。貧乏暮らしになれてなかったんだ。オヤジもオフクロも、あっというまに死んじまった。おれ一人残してな」
「おれも同じようなものだ。家族は全員、死んだ」

 これは真実だ。
 嘘くさくは聞こえなかっただろう。

 オーベルはまた微笑する。ほのかに悲しげに。

「でも、今日で、みんな終わりだ。おれたちはここを出たら、声もかけない約束だもんな。今ここであんたと話せてよかった。ありがとよ。あの死にざま、清々した」

 言いたいだけ言って、オーベルは立ち去った。

 一人になったワレスは、庭草の上にゴロンと寝ころんだ。
 すると、残照にかがやく宿の白い壁がよく見えた。
 ふたつ並んだ窓のひとつは、位置から言って、ブロンテの部屋のものだ。

 だから、オーベルはここで飲んでいたのだ。

(やはり、そうか。そういうことなんだな)
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